お竜③

 その後、鎮火した家屋から、鉄心の妻子の遺体が見つかった。

 寝室にいたことから、昼寝している最中だったのではということだった。

 木造で家屋を造る日出処において、放火は大罪だった。そうでなくとも、火の不始末は非難の対象となり場合には罪を課せられることがある。妻子を失った鉄心にでさえ、世間は容赦なく後ろ指をさすようになった。火の不始末を起こすなど、武家にあるまじき恥さらしであると。

 しかし、申し開きや言い逃れをしない信条の鉄心にとっても解せことがあった。役人の検分によると、火元の原因は煙管きせるの火の不始末ということだった。だが、鉄心も妻も煙管をたしまなかった。鉄心は、妻が自分が知らないところで煙管をふかしていたのだとはどうしても思えなかった。


 それからというもの、鉄心の剣に陰りが見えることを多くの門弟が気づき始めた。剣に筋が入っていなかった。正面に立つだけで対手の闘志を萎えさせていた覇気も、今や跡形もなかった。

 剣に身の入らない門弟ならば、叱責のひとつも飛ぼうものだが、事情を知る千吉はそんな鉄心を見て見ぬふりをした。鉄心ほどの男ならば、いずれはこの悲しみを克服し、再びもとの調子を取り戻すだと、弟弟子おとうとでしを信じたのである。

 松慶は鉄心を跡目の候補から外そうとも考えていたが、千吉は話があがるたびに松慶の機嫌をとり、思いとどまるように進言した。妻子を失い、さらに次期当主の話しさえ失えば、弟弟子おとうとでしは立ち直れないに違いない。そう千吉は心配をしたのである。そんな千吉を、よりいっそう太鼓持ち感が強くなったと陰であざ笑うものもいたが、そんなことは彼にとって些末さまつなことであった。

 元彌もまた、鉄心を気遣うようになっていた。いかなる言葉も今の鉄心には無意味だと知っている元彌だった。道場では悪評が立たぬようにと、自分のとりまきの門弟たちには陰で鉄心を悪く言うことを許さず、またそれまで鉄心を慕っていたものの、以前の輝きを失った彼に戸惑う門弟たちの世話も引き受けるようになった。

 皮肉なことに、道場は鉄心の悲劇を以てして、より一層つながりが強くなっていた。


 ある日、鉄心が道場から建て直した自宅に帰る途中、建物の陰から彼を呼び止める声がした。

「……高岡鉄心様」

 鉄心が声をする方向を見ると、そこには女性がいた。見覚えのある女性だった。

「……お主は」

「お久しぶりでございます。加美乃元彌の妻にてございます」

「……何用かな?」

「お話ししたきことが……。」

「ふむ……。では明日、道場にて」

 妻を亡くしたとはいえ武家の男、夜に女性とふたりきりになるなど禁忌きんきだった。

「いえ、他に聞かれては困ることですので……。」

「そうか、ではここで手短に頼む」

 鉄心は女性への気遣いよりも、武士としての世間体を気にする男だった。彼女を自宅に招き入れることや、店に誘うことなどは選択肢になかった。

「……はい。先日は奥方様とお子様の件、同じ武家の者として、胸中察しあまりあります。こんな時に、このようなことをお話しするのはまこと心苦しいのですが……。」

 元彌の妻は鉄心を見上げる。

「わたくしの夫、元彌と貴方様の奥方様についてでございます」

 鉄心は無表情で元彌の妻を見る。

「すでにお聞きと存じますが、先日の鉄心様のご自宅の火災、火元は煙管の火だったと」

 鉄心はうなずきもせずに話を聞く。

「そして高岡様、それに奥方様も煙管は嗜まなかったと聞き及んでおります。きっと不可解なことだとお思いでしょう」

 元彌の妻は鉄心を見た。彼女も無表情だった。

「……実は、その日からわたくしの夫、元彌が煙管を嗜まなくなりまして。夫に煙管のことを問うたところ、もう煙管はやめたと。しかし、わたくしは夫の身の回りの品の管理を任されておりますから気づいたのですが、どうも夫は煙管をやめたのではなく、失くしたらしいのです」元彌の妻の顔は冷静を装うとしていたが、その実、様々な感情に乱されているようだった。その感情を冷たい表情でなんとか取りつくろっているのだ。「煙管が失くなったのは、あの火事の日に間違いありません」

「……くだらん」

 ようやく、鉄心が口を開いた。朴念仁ぼくねんじんといわれる鉄心でも、元彌の妻が何を言わんとしているのか察することができた。

「わたくしの……思い過ごしとお思いですか? それならばどれほど良かったか」

 元彌の妻は、懐から手紙の束を出して鉄心に手渡した。

 鉄心は書かれている字に目を走らせる。

「もし、貴方様が奥方様の字をご存じでしたら、それが本物かどうか分るでしょう」

 確かにそれはおとねの字だった。手紙は元彌との会瀬おうせたのしむ内容だった。

 元彌とおとねは密会していた。それも一度や二度ではないようだった。

 しかし、字は妻のものであったが、それでも鉄心は信じることができなかった。

 あまりにも手紙の内容が過激だった。情熱的、悪く言えば卑猥な文面だった。しかし同時に非常に散文的であり、言葉遣いも高い教養の伺える文章だった。

「……信じられませぬか?」

 その文章の中に、彼の知っているおとねはどこにもいなかった。彼の知る妻は不器用かつ無愛想で、無趣味の箱入り娘のはずだった。

「妻は……かようなことを書く女ではない。……書けるものでも」

 元彌の妻は鼻で笑った。鉄心は思わず元彌の妻の顔を見る。

「殿方というのはいつもそうでございます。見合いの席での妻が、台所に立つ妻が、子を寝かしつける妻が全てだと。あまつさえ、床を共にしたとしても、それもまた一面にすぎませぬ」

「お主、拙者と、妻を愚弄する気か?」

「愚弄? わたくしが? 何をおっしゃっているのです? 侮辱されたのは、わたくしと貴方様ですよ?」

「……何が望みだ?」

「望みなどございません。むしろ、何が望めましょうか。ただわたくしにできるのは、貴方様にこのことをお伝えする程度ございます。それがせめてもの意地。けれど、貴方様は違います。武士の意地の通し方は、女のそれと同じではありませんでしょう?」

「……これは何かの間違い」

「……信じていただけぬのですね」

「元彌は拙者のかけがえのない友人。今夜のことは、今夜限りで忘れ申す」

「まぁ……男らしいこと」

 鉄心は元彌の妻をにらんだ。元彌の妻は見透かすかのように鉄心を涼しげに見ていた。

「失礼っ」

 鉄心は大股で地面を踏みしめ、自宅へと入っていった。


 翌日、鉄心は道場の隅で、もぬけの殻のように門弟たちの練習の様子を見ていた。いや、見ているようでその実、視界には何も映っていなかった。ときおり元彌のことを見て、そして目をそらしていた。

 妻子を失った悲しみは理解できる。しかし、今日の鉄心の様子はまた異常。門弟たちも、そして元彌と千吉も戸惑うばかりだった。

 稽古が終わった後、元彌が鉄心に心配そうに近寄った。

「鉄心、いったい今日はどうした? 門弟たちが気味悪がっているぞ?」

 鉄心は無言で元彌を見る。

「あのことからまだ日も浅い、確かにお前の胸中は察してあまりあるが──」

 元彌の背に、冷や汗が一瞬で滝のように流れた。鉄心が自分を見る目、無表情かと思いきや、そこには殺意が潜んでいた。

 突然向けられた殺意、普通ならば自分に向けられる根拠のない感情に、戸惑いや怒りが生まれるはずだが、元彌の心の裂け目からは、別の感情が顔をのぞかせていた。

 うしろめたさ、そして恐怖。

 その元彌の表情がすべてだった。鉄心はそれですべてを理解した。

 すべてが偽りだった。

 友との友情も妻との愛情も、すべてがその瞬間に別のものに上書きされた。

 この男は友ではなく、妻子の仇だった。

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