お竜④

 それからというもの、鉄心は真剣を用いての稽古に専念し始めた。それは型稽古などという、生易しいものではなかった。りつかれたかのようだった。まるで、目の前に具体的な敵を想定し、冷酷に殺傷せしめるごとき剣さばき。さらに倒れた相手を幾度も切り刻むような憎しみさえそこにはあった。

 門弟たちはそんな鉄心を恐れざるえなかった。かつての取り巻きさえも、鉄心からは距離を置くようになった。


「……鉄心よ」

 そんな鉄心を、千吉は道場の一室に呼び出した。同じ師範代として元彌の同席も願ったが、元彌は用事があると言ってそそくさと帰ってしまっていた。鉄心の様子のおかしさとともに、元彌の異変にも気づいていた千吉だったが、目下の問題は鉄心のことだったので、そのことに関してはとりあえずは置いておくことにした。そもそも、千吉もそこまで器用な男ではない。あくまで、年長者としての年の功で立ち回るのが関の山だった。

「……この頃、剣の稽古に再び身を入れるようになったのは喜ばしいが、その……いったいどうしたのだ?」

「“どうした”と申しますと、国松師範?」

 その返答一つに千吉の背筋は寒くなった。以前の鉄心からはありえないような、挑発的な声色だったからだ。

「……分かっておろう。お前が真剣で、しかもただならぬ様相で稽古をしておるゆえ、周りが心配しておるのだぞ。中には、お前が真剣勝負に挑もうとしているのではと口にしておる門弟もいるくらいだ」

「いけませぬか?」

「なんだと?」

「侍が、真剣勝負を念頭に置いて稽古をすることが、そんなにもおかしなことだと?」

「しかし、あまりにも唐突ではないか。それに、剣の技量は木剣でも測れるもの。むやみやたらと真剣を振り回すのも、また侍のやることではないぞ」

「ご存じないのですか、師範? 木剣と真剣ではまるで剣の重さが違うことを」

「それくらい──」

「それに、それがしはこの道場の跡目のお話もいただいております。他の門下生と同じ稽古をしていては、示しがつきますまい」

「それが……理由か?」

「なにより、人というのはいつ人生を終えるかわかりませぬ。真剣に慣れ親しみ、万物は諸行無常だという気構えを常に持っていなければ」

 いったい、いつから信頼を寄せていたはずの兄弟子にすら、この男はうそぶくようになったのか。あまつさえ、妻子の死をだしにするなど、以前の鉄心からは考えられなかった。千吉の不安はおおきくなるばかりだった。

 千吉は、稽古もほどほどに、と念を押した。千吉も恐ろしかったのだ。もしこれ以上とがめれば、鉄心は剣を抜いて自分に襲いかかるのではないかと。


 その晩、鉄心と千吉は松慶に酒の席に呼ばれていた。

 酒楼※の座敷に並んで座る千吉たちの前には、八重垣藩の家老の赤澤あかざわ朝陽ちょうようが座っていた。赤澤は八重垣藩の武術検分役を務めている男だった。

(酒楼:料理屋、料理茶屋)

 ここ数年、川端道場は藩の剣術指南役に幾度か推挙すいきょされていたものの、あと少しというところで他の道場にその座を奪われていた。今回の席は、『三羽烏』をようする事で以前にも増して名を知られるようになった川端道場の主・松慶が、この機を逃してはこの先の指南役の起用は不可能と踏んで、賄賂わいろを贈ってでも作り上げた押しの一手だった。この酒の席のための店も女も豪勢な食事も、松慶が妻の嫁入り道具を質に入れて作った金で用意したものだった。

 いつもなら、口が達者で年配者の好感を得やすい元彌を同席させるところだったが、様子のおかしい元彌は逃げるようにその誘いを断ってきた。加えて、噂に聞こえる鉄心にこそ会ってみたいという赤澤の要望から、千吉は無理に元彌を同席させる必要はないと判断していた。


「ほう、お主が高岡鉄心か。其処許そこもとの評判、城内にまでも聞こえておるぞ」

 自分の前に平伏する鉄心を前にして、赤澤は上機嫌に盃を呑みほした。

「面を上げい」

 鉄心は命じられるままに顔を上げた。

「ほほう、噂通り精悍な顔をしておる。なんとも絵になる若武者よ」

 あまりにも不愛想な鉄心を心配して、松慶は千吉に目配せをした。

 その視線に気づいた千吉が言う。「これ、鉄心。赤澤様に失礼であろう。何か返事の一つでもせぬか」

「良いではないか、儂が何も求めておらんのだ。それに侍たるもの、必要以上に口を開くものではない」

 赤澤は盃に酒を注いだ。

「どれ、ここで剣を振らせるわけにもいかぬ。お主の男の器をこれにて測らせてもらおうかのう」そう言って、赤澤は盃を鉄心に差し出した。

「はっ」

 鉄心はその盃を受け取ると、一気に酒を呑みほした。

「おうおう、気持ちの良い呑みっぷりよ。男というのは、やはりこうではなくてはな。……どれ」

 赤澤は次に、千吉に盃を差し出した。

「次はお主が呑め」

 川端道場の面々全員の目が見開かれた。

 千吉は酒が飲めなかった。下戸ではない、酒癖が恐ろしく悪かったのだ。呑んでしまうと、たちどころに抑えがきかなくなり、いかなる目上の者であっても無礼を働いてしまう恐れがあった。一度、酒の席で大きな失敗をしてからというもの、千吉は断酒を誓っていた。そしてそれは門弟たちも周知のことだった。

「あいや、しかし……。実は拙者、酒が呑めないのでして……。」

「なんじゃ、そのなりで下戸か? 酒樽ごと呑みほしそうな顔をしておるというのに」

 赤澤はからからと笑った。

「……しかし一杯くらいは良いだろう、こういう席であるぞ?」

「も、申し訳ありません……。」

 赤澤から笑顔が消えた。

「興がそげるわい……。」

 下戸程度の門弟ならば、松慶も無理に呑ませるところだったが、彼も千吉の酒癖の悪さを知っていた。そのため促すことができなかった。赤澤に見られても、松慶はただ戸惑うばかりだった。

「そうか、儂の酒が呑めぬと申すか……。」

「い、いえ、けっしてそのような……。」

「それならば剣術指南役の話、今日限りでなかったことにしてもよいのだが……。」

「赤澤様っ」と鉄心が口を開いた。

「なんだ?」

「兄弟子の不始末、この鉄心が償いもうす」

 そう言って、鉄心は膝をついた状態で赤澤の前にすり寄り、盃を受け取った。そして再びぐいと酒を呑みほした。

「ほほう、感心な弟弟子よのう。しかし……。」

「まるで水でございますな。もう一杯」

 鉄心は頭を下げて、赤澤に盃を突き出した。

「お、おう……。」

 赤澤が盃に酒を注ぐと、間髪入れずに鉄心はそれを呑みほす。

「なんという呑みっぷりか。爽快なことよ」

「酒とあれば拙者、日出処一と名高い蝶理湖の水でも飲め干せますぞ」そう言って、得意げに鉄心は着物の袖で口をぬぐった。

「ほう、言うわい。では……。」そう言って、赤澤は徳利を鉄心に突き出した。「これをすべて呑みほしてみよ」

 鉄心の表情が固まった。実際には鉄心もそこまで酒に強いわけではなかった。

「できるであろう? なにせ、蝶理湖の水も飲み干せるとぬかしおった貴様だ。これくらい造作ぞうさもないはず」

 固まっていた表情だったが、鉄心はすぐに口角を左右に広げ、大げさな作り笑いをした。

「もちろん」

 鉄心は徳利を受け取ると、口に当て徳利を逆さにして酒を呑みほした。そして残りの酒のしずくをしたたらせ、それを舌先で受け止めた。

「なんと、爽快を通り越して豪快ですらあるわっ」

 赤澤はその呑みっぷりならば見ているだけで肴になると、上機嫌に箸を取って料理を食べ始めた。

 その後、赤澤は両隣に芸者をはべらせ、酒と料理に舌づつみをうった。

 酔いの回った赤澤は、天下国家を大言壮語たいげんそうごで語り、自分の役職がいかに国の政治において大切か、そしてそれがどれほどまでに周囲に理解されていないかを愚痴り続けた。あまつさえ、こういった席に呼ばれるのも、実は苦労が絶えぬものだと、女の太ももに手を這わせながら延々としゃべり続けるのだった。

 川端道場の男たちは、そんな赤澤の話を真剣な面持ちでうなずきながら聞き続け、世辞やびへつらいを交えて赤澤をもてはやした。千吉は趣味で習い覚えた三味線を弾いて、その場を盛り上げるよう努めていた。


 赤澤が満足して酒楼から出ていくと、松慶と千吉は胸をなでおろし、鉄心はその場で崩れるように倒れた。

「鉄心っ、大丈夫かっ?」


 千吉は鉄心に肩を貸し、自宅まで歩き続けた。長い道のりだったため、途中の橋の上で千吉は鉄心を下ろし、川の風で涼んでいた。

「……国松師範」

「おお鉄心、気づいたか」

 鉄心は体を起こすと胡坐あぐらをかいた。

「今日はお前に助けられた。礼を言うぞ」

「何を……おっしゃいます」

「謙遜などしてくれるな。お前があそこで赤澤様の酒を進んで受け取らなければ、今頃どうなっていたことやら」

 鉄心は大きく呼吸をした。

「まったく……元彌がいてくれれば、ここまで大変では無かったろうに」

「元彌……ですか」

「そうだ。やつはうちの道場いちの上戸だからな。お前も一緒に呑んで、数回酔いつぶされたことがあろう。奴は言っておったからな、酒と女の扱いだけはお前には負けぬと」

「うちにまで押しかけて、酒を呑まされたこともありましたな……。」

「なんと、お前らそこまでの仲だったのか」

 鉄心は何も答えなかった。

「俺は嬉しいぞ。水と油であったお前らが、そうして仲睦なかむつまじくしているのを聞くとな。我らは同胞。川端道場を、ひいては八重垣藩を支える侍なのだから。最近はお前と元彌に不穏なものを感じてもいたが、杞憂きゆうであったということか」

 夜空を見上げながら感慨にふける千吉だったが、鉄心は全く別のことを考えていた。

──そうか、あの時から

「……国松師範」

「なんだ?」

「いままでありがとうございました」

「……どうした、急にかしこまって?」

「拙者、侍としての一分いちぶを見失わずに済みそうです」

「……どういう意味だ?」

 鉄心は立ち上がると、それではと言って、酒が入っていたとは思えないしっかりとした足取りで歩き始めた。

 去っていく鉄心の手が、刀の束に触れているのを千吉は見た。

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