お竜②

 その晩、鉄心は家に帰ると、妻に自分が跡目の候補に挙げられていることを告げた。

 夫の着物を脱がす手伝いをしながらその報告を聞いた妻のおとねは、夫にもまして無表情だった。しかし、鉄心はそれで良いと考えていた。武家の人間たるもの、滅多なことでは感情をあらわにしない。それが彼の考える侍の美徳だった。

 夕食が始まっても、彼の家族四人は無言だった。妻は仏頂面で膳をよそい、夫は食事の感想を一切口にすることなく、そして娘のおせんはそんな両親を察するかのように無言で夕食を食べていた。

「おせん、ごぼうが残っていますよ」

 娘の小鉢のごぼうは、母の言うようにほとんど手が付けられていなかった。

「ごぼうが嫌いなのですか?」

 ごぼうが嫌いというよりも、ごぼうが硬かった。子供のあごでは、食べるのに難儀する硬さだった。

「武家の娘が好き嫌いは良くありません。食べなさい」

 そう母に言われ、おせんは父を見た。鉄心もおとねの料理が下手であることは知っていた。しかし、男が台所に口を出すべきではなく、また娘のしつけは女の仕事という考えから、鉄心はその娘の視線を無視した。おせんは仕方なくごぼうを口に入れた。鉄心にも聞こえる大きさで、ごりりと音がした。

 咀嚼の音しかしない、鉄心の静かな家庭の食事風景だったが、その静寂が玄関が叩かれる音で打ち破られた。

 妻と娘が鉄心を見る。鉄心は立ち上がると、玄関に向かった。

 戸の前に立ち鉄心が言う。

「どなたかな、こんな夜分に?」

「おう、鉄心。俺だ」

「……元彌?」

 鉄心が戸を開けると、そこには元彌が立っていた。

「どうした元彌、こんな夜中に?」

 元彌はリザードマン亜竜人らしくない笑顔をつくり、右手に持った酒瓶をかかげた。

「どうしたもこうしたもあるか。お前の祝いじゃあないか」


 元彌は居間に通されるなり、朗らかな笑顔で鉄心の家族に挨拶をした。同じ大人の男でありながら、父とは正反対の気質の元彌に、おせんは思わず面を食らった。

「可愛いなぁ」元彌はおせんの隣に座ると、頭をなでた。「女の子は男親に似るというが、どうやら美人の奥方に似たようだな。良かった良かったっ」

「あの……元彌様、今日はいったい……?」と、おとねは何の遠慮もなく美人といわれたことに戸惑いながら訊ねた。

「なんと、聞いておられんのか? そなたの夫が、我らが道場の跡目になるという話を?」 

「ええ、聞いてはおりますが……。」

「元彌よ、師範代がおっしゃったのはあくまで候補ということだ」

「候補で十分ではないか。ではお前のほかに、誰かふさわしい者があの道場にいると? 俺か? やめてくれ、俺など柄ではない。国松師範にしても同じこと。だからこそ、先生は師範にお前に話をするよう命じたのだ」

 鉄心は、それに対して無表情で答えるだけだった。

「まま、いいではないか。おとね殿、盃を用意してくださらんか?」

 鉄心はおとねを見て小さくうなずいた。


 それからふたりは呑み続けた。一方的に元彌が話し、鉄心がそれに小さくうなずいたりうなずかなかったりという奇妙な呑みだったが、古くからの付き合いで、元彌はそれだけでも十分に鉄心と会話ができていた。

「お、ずいぶんと酔いが回ったようではないか?」

 はた目から見ると、亜竜人で、なおかつ表情の硬い鉄心の変化は分かりづらいものだったが、元彌は体の微妙な揺れや手の動き、あいづちの加減などで友の表情を読み取っていた。それは妻のおとねですら未だ分からないものだった。あの朴念仁が酔っている、その意外な夫の一面に、妻は驚かずにはいられなかった。

「可愛いやつでしょう?」

 からりと笑う元彌に、おとねは困惑してうなずくばかりだった。

「なぁ鉄心、改めて次期当主おめでとう」

 鉄心は下を向いて小さく首を振った。

「でも嬉しいのだろう、若先生?」

 鉄心は下を向いて小さくうなずいた。

 再び元彌はおとねを見て笑った。「ね、可愛いやつでしょう?」

 思わずおとねも口を当てて微笑んだ。

「ようし、こうなってしまっては女性の力では運べまい。俺にも酔わせてしまった責任がある」元彌は鉄心の肩を組んだ。「俺が寝室まで運んでやろう」

 鉄心はただうめくだけだった。


 鉄心を布団に寝かせると、元彌とおとねは寝息を立てる鉄心を奇妙な面持ちで見ていた。

「……おとねどの」と、改まって元彌が言う。

「はい?」

「察しの通り、こやつは朴念仁と呼ばれている。しかし、今見たように、本当は人並みに人の心を持っている男です。こやつと結婚して、戸惑うこともありましょう。しかし、けっして墓石に嫁いだなどと思わないでくだされ。友からの頼みでございます」

「そんな、墓石などは……。」

 元彌は嬉しそうにうなずいた。「ならばよいのです。何せこの男、どうも周囲から誤解されやすいたちであるが故」

「ええ、きっとそうなのでしょう……。」

「もし、何かこやつのことで困ったことがあらば、なんなりと相談してくだされ。拙者、すぐにでも駆け付けましょうぞ」そう言って、元彌はおとねの手を握った。


 それからというもの、鉄心と元彌の関係はより親密なものとなった。特に、元彌が鉄心の家に行くようになってから、妻も娘もずいぶんと明るくなったのだと、鉄心にしては珍しく表情を崩しながら千吉に語るようになっていた。

 そんなふたりの様子を見ながら、千吉は自分の懸念が杞憂だと思い始めていた。我らは同じ頂を志す同胞、何を心配することなどがあろうか。心の迷いはまっすぐな剣の道が正すもの、派閥や作法など、助け合い補い合えば良いではないか。

 千吉は、松慶に鉄心こそがこの道場にふさわしき男だと進言した。


 しかし、以前にあった道場内の派閥が過去のものになったと、そう誰もが肌で感じるようになり、川端道場の未来の安泰を見るようになった頃、あってはならない悲劇が起きた。

「高岡師範代、大変です!」

 稽古以外での大声を控えなければならない道場で、若い門弟が道場に入るなりそう叫んだ。

「どうした騒がしい」と千吉が言う。

「師範代の……師範代のご自宅が!」

 一斉に門下生たちは鉄心を見た。


 鉄心は馬に乗ることも忘れ、駆け足で自宅に戻った。彼が見たのは、業火を上げて炎上する彼の家だった。

「なんたること……。」

 鉄心は近くにいた火消しの男に、妻子の安否を訊ねた。しかし、火消しはそれどころではないとそれを突っぱねた。炎がこれ以上燃え広がらないように、周囲の家を取り壊しにかからなければならなかった。日出処の建物はほぼ木造であるため、いったん火が上がると、すぐに一帯を巻き込むからだ。

 鉄心は、次に周囲の野次馬に妻子の安否を訊ねたが、彼らはただ首を振るばかりだった。

「鉄心!」

 鉄心が振り向くと、そこには元彌の姿があった。

「元彌……どうしてここに?」

「所用で近くに来ておってな。遠くから煙が見え、それがお前の家の近くだったから、こうして来てみたのだが。まさかと思ったが……。」そう言って、元彌は周囲を見渡した。「その、奥方は……。」

 鉄心は再び炎上する自宅を見た。そして、火消しの用意していた水の入った桶を頭からかぶると、炎の中に飛び込もうとした。

「何をしている鉄心、死ぬ気か!?」慌てて元彌は鉄心を抑えた。

「妻と娘が!」

「落ち着け、すでに逃げているかもしれんだろう!?」

「ではどこに!?」

「もしかしたら、出かけているのかもしれん!」

「確かか!?」

「いや、それは……。」

 ふたりが話していると、建物はさらに大きな音を立て燃え上がり、音を立てて崩壊し平たく潰れた。潰れざまに、火の粉と熱風が鉄心と元彌に向かって吹きすさんだ。

「……そう祈るしかあるまい」と元彌は言った。

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