お竜①
──八重垣藩、川端。
日出処でもっとも多くの道場を持ち、大勢の門弟を抱える陽明流だったため、印可を授かる武芸者は抜きんでるものがただでさえ多かったが、この川端道場の『川端の
「ちぇりゃああああ!」
道場でのかかり稽古中、門弟の一人が、『三羽烏』の
鉄心はそれを受け流すのではなく、力でねじ伏せるかのように受け止めた。
「せいっ! せいっ!」
なおも若き門弟は鉄心に打ち込む。そして、門下生がさらに大きくもう一撃加えようとしたところ、鉄心は合わせて上段を打ち込んだ。
「うお!?」
鉄心の剣の速さと気迫に押され、門弟は剣の勢いを止め受けにまわらざるを得なかった。
道場の隅で見学している門弟のひとりが友人にささやく。「高岡師範代の打ち込み、あれはキツイ……。」
「ああ、こちらが先に打ち込んでいても、師範代の圧に押されて打ち負けてしまう。だから、こちらとしては防御に徹するしかないのだが……。」と、もうひとりの門弟はうなずいて言った。
鉄心の打ち込みは強く、速く、止めどなかった。最初は型どおりの受けを続けていた門弟だったが、やがて棒切れをもって身を守る素人のように、体を丸め、許しを請うかの如く、小さな悲鳴を上げ始めた。
「反撃どころか、師範代は防御の隙すら与えてくれない……。」
門弟たちは師範の
千吉は困ったように腕を組むと、「それまで!」と声をかけた。
鉄心は離れたが、打ち込まれていた門弟は、体を丸めたままその場でうずくまっていた。
「鉄心よ」千吉が言う。「それでは稽古にならん」
「気迫に押され、習い覚えたことを忘れるのなら、それまでの男だったということ」と鉄心は言った。
「むぅ……。」
千吉が唸って『三羽烏』の
三羽烏と呼ばれる三人、国松千吉、高岡鉄心、加美乃元彌の中でも、鉄心は剣の腕が抜きんでていた。さらに、
「この道場を継がせるには、誰が適当か」
その日の晩、川端道場の道場主、
「難しい質問にてございます」松慶の前に正座する千吉はそう答えた。「剣の腕においては、疑うことなく鉄心でございましょう。鉄心を道場の跡目とすれば、この川端道場の名は、いっそう天下にその名を響き渡らせること間違いございません」
「それでもお主が“難しい”と言うのは如何な理由か?」
「確かに鉄心は剣の腕に優れております。しかし、師範として門弟を指導していく立場としては、鉄心は適当とは言い難いのです。老婆心ながら、仮に
「ふむ……。」
「加えて、鉄心は道場の代表として、八重垣様の御前で城勤めするにはいささか不器用すぎるかと。下手をすれば、殿の不興を買いかねません」
「では、お主は元彌が適任と申すか?」
「元彌は……やはり剣の腕に問題が。実力で劣る元彌を選ぶには、門弟の間に派閥を招きかねません」
「元彌も適任ではないというなら……いったい他に誰がいるというのか? まさか、
「あいや、そうではありません。これはあくまで現時点での話。もし先生がお時間をくだされば、拙者、鉄心に師範としての作法を教え、もしくは元彌の腕を鍛え上げ、跡目としてふさわしい男に仕立て上げたき所存でございます」
「そうか……。」
「現時点においては鉄心と元彌、それぞれ短所を抱えておりまする。もし先生がご決断なされば……。」
「お主の見立てでは、どちらの短所を埋めるのが易いか?」
「……鉄心に作法を叩き込むのは困難。そうであるからこその鉄心ゆえに。また、元彌を鉄心ほどに鍛え上げるのも困難。それほどまでにふたりには差がございます。恐れ多くも、この国松の見立てでは、もはやこれは賭けに近いかとも。しかし、お時間をいただければ、ふたりを指導し、どちらが短所を補うに能うかを見極めたく存じます」
「うむ……では其処許にふたりのことは任せよう」
「しかと承りて」
翌日、千吉は道場の上座で門弟たちの稽古の様子を見ていた。多くの門弟たちが元彌に稽古を頼んでいる。鉄心では一方的に叩きのめされるだけだということを知っているからだった。
一方の鉄心の周りにも、とりまきは少ないながらもいた。門弟の中でも特に腕の立つ彼らは克己心が強いため、例え鉄心に叩きのめされようとも、鉄心から逃げることは武士の恥として鉄心の周りに集まり、そしてそうしない他の門弟を見下す傾向にあった。
道場の様子から、僅かながら垣間見える派閥に、千吉は改めて先行きの不安を感じるのだった。
その後、千吉は元彌を道場の客間に呼び出した。
「国松師範、何用でしょうか?」と元彌は訊ねた。
「……うむ、実は道場の跡目についてなのだが──」
「それはもう、鉄心に決まりに相違ありませんな」
「……そうか?」
「あたりまえではありませんか。この道場ならず、川端、ひいては諸国に声の聞こえる彼奴ならば、跡目に選ばれても誰も異論はございますまい」
「そうか……。」
「して師範。拙者を呼び出したのは?」
「うむ、その鉄心のことなのだが、剣の腕には疑いようのないものの、いささか無骨過ぎぬかと思うてな」
「はは~」そう言って元彌は腕を組んだ。「いや、師範の仰られる事ももっとも。彼奴は三年片頬などと称賛されておりますが、道場を任せるには口下手といってよいでしょう。特に、城に呼ばれでもしたら、どのような無作法を働くやら……。」
千吉は元彌を見た。目の前にいるこの男は、確かに腕に加えて弁もたつ。だが、そうであるがゆえに、男らしくないと彼を毛嫌いする者も多かった。特に、鉄心の取り巻きに至っては、彼を蹴落とし、自分こそが川端の三羽烏に加わろうと息巻く者さえいた。もちろん、剣の腕は優れているのだが、その軟派な気質が、剣にも影響を与えていると軽んじられているのだった。
実際は、三羽烏の中では他でもない千吉が、他の二人に対して後れを取っていた。それでも千吉が三羽烏であることに誰も異論を口にしないのは、彼が年長者であるということ。そして鉄心と元彌という相反する気質の侍が、反目することなく同じ道場で稽古に励んでいるのは、この千吉の存在あってのものだと、師のみならず、すべての門弟が認めているからであった。そして、それは鉄心と元彌も同じだった。
「鉄心に作法を教え込むのは、お前も至難だと思うか?」
「彼奴に跡目の候補であることを伝え、城勤めの作法を知らなければ話が立ち消えになる、ということを念押せば、あるいは彼奴にも焦りがでるかと……。」
「ふむ……時に、元彌よ。お前は鉄心を越えたいと思ったことはないか?」
「鉄心をですか?」元彌は鼻から強く息を吹いた。「そんな野心、とうの昔に捨てもうした。彼奴は
「そうだな……。」
元彌は千吉の表情と声色を注意深く観察していた。
「お主が一心不乱に剣の道に専念したとしても、おそらく鉄心は常にその先を行くだろう……。」
ほんの少し沈黙した後、元彌は目を少し見開き口角をゆがめた。
「国松師範、もしかしてそれがしを跡目の候補にお考えか?」
「あいや、そこまでとは……。」
「
「うむ……。」
「今申したように、某にはそのような野心はござらん。師範のお察しの通り、彼奴にはうんざりするほど力の差を入門してより見せつけられもうした。できることなら、川端から離れ、どこか遠くの地でひっそりと小さな道場でも営もうかと考えておったところです」
「そこまで……。」
「もし、国松師範がこの道場の行く末を案じておられるならば、鉄心に跡目を継がせ、師範が鉄心を支えれば、うまく物事が回るのではありませんかな」
「それではまるで、
「あいや、けっしてそのような意味では……。」
「まったく……お主にはもう少し野心たるものがあったと思っていたが」
「足ることを知る、それもまた武士の作法にてございます」
「まっこと、口が立つわい」
その後、千吉は鉄心に跡目の件を告げた。
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