冬の雷

 男は呆けた顔で女を見ていた。そしてマリンとフロアの人々もまた、意味が分からず女を見ていた。

 男は首を神経質に首を回しながら女に言う。「え、何? 何言ってるの? 意味わかんないだけど?」

「お前さんが、買うはずだった、その娘を、私が、それよりも高値で買うんだよ。その娘は娼婦なんだろ? お前さんの言う誰かが私になるってことさ」

 女は小さなため息をついて微笑み、物分りの悪い子供に言い聞かせるように丁寧にゆっくりと言った。

「買うって……だって、お前女でしょっ」

「女はお断りって但し書きでもあるのかね?」と女は言った。「娼館じゃあ金のある奴が全てだろ? その袋の金貨すべて出そう。お前さんがそれよりも上乗せできるというなら、こちらとしてはもう何も言えんがね」

 男は回した首を反らして、女を見下すように言った。「女のお前が……娼婦買ってどうしようってのさ?」

 女が肩をすくめて言う。「んだよ。問題でも?」

 男はティムを見た。ティムは困惑してただ男を見るだけだった。

「ふ、ふざけないでよっ。マリンちゃんはぼくとお約束があるんだよっ?」

「じゃあこうしよう。金で決着がつかないのなら、この娘に選んでもらうのさ。客がふたりなら、後はこの娘次第だ」女は首を傾けて、男の陰に隠れているマリンに訊ねる。「どうするね? 娘さんドーター、この男と一夜を共にするかね? それとも、おばさんと一緒の方が良いかい?」

 女の金色の猫目を見て、マリンの体が意識を取り戻したかのようにぴくりと動いた。そして男の体をすり抜けて、マリンは女の背後についた。

「あ、ちょっ」

 男が慌てて手を伸ばす。

「予定は変更だ」と、女はかくまうように、自分の体でマリンを隠して言った。「気になるあの子はどんくさい、、、、、彼氏に辟易へきえきして、別の男とパーティーに出かけるとさ」

「“男”って、お前女でしょっ!」男は二人に迫り、手を伸ばしてマリンの手首を取った。「冗談はやめてよ、もうっ。ほらマリンちゃん、ぼくと行くよっ」

 マリンは虫の羽音のような、聞こえないほどの小さな悲鳴を上げて身をすくめた。

 女は自分の横で伸びている男の腕の、手首の少し上、筋肉が一番薄くなっている部分の側面を、圧迫するように掴んだ。

「いった!」男のうでに電流のような痛みが走った。男は手を引っ込め、手をさすりながら言う。「ちょ、何するの!?」

「手首を掴んだだけだ」女はあざけるように言った。「女の手で握られて、そんなに痛かったかね?」

「……お前いい加減にしろよ」と男が首を傾けて言う。男の目がすわり、甲高い声だが、その調子に暗い影が落ちはじめた。

「いい加減にするのはそっちだ。ふられたんだよ、お前さん。これ以上醜態しゅうたいさらさないほうが身のためだと思うがね」

「はぁ? 何それ? 脅してんのぉ?」と、男は首をくいくいと鶏のように前後左右に動かしながら言った。

「脅しじゃあない、親切な忠告だ。私はただそうなるってことを前もって教えてるだけだよ」そう言う女の声にも薄暗い影がさし始め、さらに瞳孔は猫のように細くなっていた。「それでも失せねぇってんなら覚悟できてんだろうな? テメェのタマタマがせり、、上がって喉の奥からごあいさつすることになるぜ」

「な!?」

「ちなみに今のは脅しだ」そう言って女は上唇を右上につり上げて牙をちらつかせた。

「こ、こいつ!」男は椅子に立てかけてあった剣を取って女に突きつけた。「もう許さないからね! 表に出て!」

「おや、良いのかい? を取っちまったらもう引き返せないぞ?」と、女は肩をすくめてわざとらしく困惑した。

「はぁん? もしかして怖気づいたのぉ? いまさら謝っても遅いんだからね! ぼくがジェントルマンなうちにとっとと消えろよ! でないと、もうどうなっても知らないから! 本当のホントだよ!?」

「刃を手にしといてごちゃごちゃ喋るな」

「むぅ!」

 男は「やってやる!」と言って店の出入り口へ、大股開きで歩いて行った。周りの客は、流石に女が決闘を代理人も立てずにやるわけがないだろうと思って見ていたが、女が何の躊躇ちゅうちょもなく男の後をついていくので、やにわに店内は騒がしくなった。


 外はあいかわらず雨が降りつづいていた。男は白光りする頭に雨粒を受けながら、店の前の道に仁王立ちした。

「おい! 早く出てこ──」

 男は、どうせ女は出てくることはないだろうとたか,,をくくりあおろうとしたが、ふり向くと既に女も店の外に出ていた。

「お前ぇ……。」

 女も雨に体中を打たれながら言う。「どうした? 何か計算違いでも起きたか?」

 睨み合う男と女。豪雨が視界を鈍くしたが、ふたりは目をそらすことなく、まばたきさえもせずにお互いを凝視し続けていた。  

 男が言う。「いまさら謝っても遅いんだからね……。」

 女も言う。「それはさっき聞いたよ」

 遠くで、雷が落ちる音がした。男は視線を女からそらさなかった。だが、意識はそちらに向いていた。女はというと、男から殺気が感じられないので音の方向へと顔を向けていた。

「……冬の雷は」そう言って、女は雷が落ちた方を目を細めて見た。「予兆なしで落ちるという。打たれた本人も気づかないまま、その命を奪い取ると……。」

 男は何も答えない。

「もし、剣を抜いたりしたら、切っ先に雷が落ちるかもな」

 男も落雷のした方へ顔を向けた。

「今日は……改めたほうが良いかもね」と男が言った。

「それが賢明だ。雷に怯えるのは恥じゃない」と女が言った。

 両者の肩から力が抜けた。男は濁った眼で女を見ると、しばらくその場にとどまった。女もやはり動こうとしない。男は来た方へ向き直り、店に戻ろう体を動かした。女は体の向きだけをゆっくりと変えた。

 はた目から見て、不自然な動きだった。決闘をするのかしないのか、店に戻るのかどうなのか、いまいち分からないふたりの動きに、やじ馬たちは興を削がれていった。

 男は女に背を向けて言った。「決闘は明日に持ち越しだからね」

 女が言う。「……そうだな」

 女がようやく一歩踏み出した。女の足袋たび状の靴が、泥を踏みしめる音がした。

 その音を聞いた瞬間、男の体中に殺意がみなぎった。


「なぁんちゃってぇ!」


 男は腰の鞘から剣を抜刀し、振り向きざまに女に袈裟切りで襲い掛かった。それに対し、女は足を滑らせたかのように体を左によろめかせた。すると、何故か男の動きがぴたりと止まり、男の喉が横一文字に切り裂かれ、男は喉から血を吹きだして倒れた。

 剣を抜いた瞬間、男は絶命した。予兆なく、意識する間もなく、その命を奪い取られていた。あたかも、女が語った冬の雷のように。


「……え?」

 やじ馬たちは、何が起こったのか分からなかった。

 男が不意打ちで女に襲いかかったのは分かる。だが、いったい女は何をしたのか。大多数が、大きく動いた男の動きに気を取られていたせいで、女の動きを見ていなかった。

 女を見ていた者も、辛うじて女が右手で刀を納刀したことを認識できただけだった。


 決闘の後、人々は怪奇現象をみたかのように口々に言い合った。ある者はあの女は神速で抜刀して男の喉を切り裂いたのだと言い、またある者はあの女は隠し武器を使用したのだと言った。


 やがてこの話は、伝えられていくうちに酒場の与太話にありがちな誇張や思い込みが混じり、ついには、あの女は抜刀せずに男の首を切ったのだと語られるようになっていった。

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