第五章 Holding Out For A Hero
三人目の女
その夜、フロリアンズでは今日もマリンが給仕の手伝いをしていた。しかし、今日はいつもに増して仕事に集中できなかった。ある客が彼女に事あるごとに視線を送ってきていたからだ。怖がる必要はない、自分はキャサリンよりも年下だし、なによりも、もうすぐこの店を去るのだから、男の視線もしばらくの辛抱なのだ。そう少女は自分に言い聞かせていた。
「マリンちゃ~ん」と、その男が手を振ってマリンを呼んだ。
いったい、いつの間に自分の名を知ったのだろう。それだけでマリンは身の毛のよだつ思いがした。
「はい、ご注文でしょうかお客様?」と、その客のテーブルに近寄ってマリンが言う。
「うん、隣に座ってぇ」と、男は厳つい顔に似合わない甲高い声で言った。
「は、はい……。」そう言ってマリンは男の隣に座った。
男はマリンの顔に迫って言う。「う~ん、最近ね、ぼく、マリンちゃんのことばっかり考えちゃって困ってるんだよ~」
「は?」
「昨日なんて、マリンちゃんがぼくの夢に出てきたんだよ? マリンちゃん、ぼくの夢にまで出てきて、いったい何をしたかったのぉ?」
「はぁ、いや、そう言われても……。」
マリンは悲鳴をあげそうになった。歳は40代前半で頭は完全に禿げ上がったスキンヘッドだった。白いタコのような男だった。鼻の下に真っ黒で密度の濃いヒゲを蓄えているのがより一層、男の顔を恐ろしく見せていた。そんな男が高い声で甘ったるい事を言っているのだから、子供でなくても恐怖を抱かずにはいられない。男はさらに下唇を突き出して、上目遣いでマリンを見る。
「ねぇねぇ、ぼくとマリンちゃんって、もしかして見えない糸で繋がってるのかなぁ」
男はマリンの手を握った。マリンは遠慮などなしに、身をよじって男の手を振りほどこうとする。
「ちょっと~怖がらないでっ。ぼくはマリンちゃんにぼくの気持ちを伝えたいんだよっ」
男ももじもじしながら体を揺すらせ、身悶えするようにマリンの手をさらに強く握った。
マリンは従業員に助けを求めようと周囲を見渡す。だが、彼らはマリンの窮地を見ぬふりをするばかりだった。一部の従業員など、客に彼女の様子を見ないよう促す者さえいた。
「もう、やめてくださいっ」
とうとう、マリンは強引に男の手を振りほどき、かけ足気味に調理場へと逃げていった。男はそんなマリンの後ろ姿を、視線の力で拘束するかのように凝視し続けていた。
外では激しく雨が降っていた。冬の乾燥地帯に降る雨だった。地面は氷のような冷たい泥でぬかるみ、泥は溝を作り雨水を流していた。こういった日には、概して人々は外出を避けるものだ。靴は汚れるし、馬車も車輪を地面にとられうまく走ることができない。
しかしそんな天気の下で、一台の馬車がイリアの街に到着した。
黒いレインコートに身を包んだ御者は、街の入口で馬車を止めると、客車に向かって声をかけた。
「おおい、お客さん。到着したよ」
客車の扉が開き、中から女が出てきた。
「予定より大幅に遅れて悪かったね、この雨だから地面がぬかるんでうまく走れんかったよ」と御者が言う。彼の帽子のつばが、雨つぶを弾き音を立てていた。
「とんでもない。馬車を走らせてくれただけで御の字だよ」
そう言って女は懐から小袋を取り出し、硬貨を一掴みすると御者に手わたした。
「料金はもらったはずだが?」と御者が言う。
「チップだ、受け取ってくれ」
そう言う女の声は、女特有の柔らかさがありながらも、独特の重みがあった。酒やけか、喉への痛打か、はたまた女の性格か、少なくとも可憐さとは無縁のものだった。
フードをかぶった女は一言礼をすると、御者に背を向けて街へ入っていった。
妙な女だと御者は思った。声もそうだが、後ろ姿にも癖があった。これだけの雨で地面がぬかるんでいながら、女は泥に足を取られることもなく、まっすぐに街の方へと歩いていく。まるで、女の体重が見た目よりも遥かに重く、さらに靴底に鋲が張ってあるかのような、しっかりとした足取りだった。
遠くで雷が落ち、御者は体をびくりと
一方の女は、まっすぐに
女がフロリアンズに入店すると、中にいる人間の数人が彼女を見て、そしてすぐに不愉快そうに目をそらした。みすぼらしいこげ茶色のマントを身に包み、デニム生地のボトムスの足元は泥で汚れ、髪はところどころ松の葉のように飛び跳ねている。そのいでたちから、客や従業員は物乞いの女が入店してきたのだと思った。
女はまっすぐにカウンターまでいった。そしてカウンターに座るとバーテンを呼びつけた。バーテンは物乞いに何かをねだられると思い、つっけんどんな態度で、見下すように女を見た。
「何のようだ?」
「この店で一番上等の火酒をくれ」
そう言って女は懐から小袋を取り出し、カウンターの上に置いた。ずちゃりと重量感のある音がした。バーテンは片眉を釣り上げると、女に背を向けて棚から酒瓶を取り出し、女の前に瓶とグラスを用意した。
「二杯いただこう」と女は言った。
バーテンは
女はひとつを手に取ると、バーテンに言った。
「もう一杯はお前さんに」
バーテンは目を丸くすると、微笑んで残りのひとつのグラスを手に取った。そしてグラスを掲げると、ぐいと酒をひとのみした。
酒を口にするふたり。ふたりはうっすらと目を閉じ、口の中で酒を泳がせ、そしてこくりと音を立てて酒を喉に通した。
鼻腔に酒の香りを吹きぬかせてバーテンが言う。「いい酒だ……。これこそが良い酒というものだね。他のものが、まがい物どころかなぐさみ物に思えちまうくらいに」
「まるで燻製の煙だ。重くて息がつまりそうになる」満足げに女が言う。「なのに後味にどこか甘みがある。まだ少し青みのあるリンゴのような……煙たかったはずの口の中が、今ではもうその甘みのおかげで瑞々しい……。」
バーテンは酒を語る女を興味深そうに見る。
「何だか、ねえちゃんのことが好きになれそうだね」
「こんな
「なんなりと」そう言って、バーテンは首を傾げた。
女は酒の味をぬぐい去るかのように、口のなかを下で舐めてからバーテンに言った。「この店の経営者は、サハウェイという女で間違いないかい?」
「ああ、そうだね」
「そうか……。」女は確認するようにうなずいた。「もし、彼女に面を通したかったら、誰に声をかければいいんだろう?」
バーテンの笑顔が苦笑いに変わり、そして気まずそうに人差し指で顎を掻いた。
「酒をおごってもらっといて申し訳ねぇが、色の良い返事はできねぇぜねえちゃん。サハウェイさんは生え抜きの女しか使わねぇ。それに、
それに対して、女が気まずそうに首を傾けた。
「違うよ、
そう言って、女はコートの左腰の部分をめくり、差してあった得物を左手で撫でさした。
バーテンはしばらく女の言っている意味が分からなかったが、その意図を理解すると、より一層苦笑いを強め首を振った。
「いやいやいやいや、冗談言っちゃあいけねえよ、ねえちゃんみてぇな娘っこが用心棒なんて──」
そこまで言うと、バーテンは女の手を見て口をつぐんだ。
女がグラスを持つ手──爪は厚く、指の関節は節だった老木のように膨れている。その手には幼子の頭を撫でる優しさもなければ、縫い物をする柔らかさもなかった。拳を固めるための手であり、刃を握るための手だった。その手には、
さらにバーテンは女の腕を通り、肩へと目をやっていく。着やせして気づかなかったが、肩も厚みがあり華奢さなどは見られない。一見して手入れを
バーテンは女の顔を見た。金色の瞳が輝くその顔は、目鼻立ちは繊細で、眉毛も密度がありながらも細く緩やかなカーブを描いており、女のものであるには間違いないものの、うっすらと頬や鼻の上には向こう傷が走っていた。柔和な元の顔が、貫禄で上塗りされているようだった。
「……伊達で言ってるわけじゃあ……なさそうだね」と、バーテンは言った。
女は片頬を上げた。
「……だが、仮にねえちゃんの腕が立つとしても、やっぱり色の良い返事はできねぇな。あいにく、用心棒の方も間に合ってるんだ」
「なるほど……。ちなみに、どういうやつだね? その用心棒というのは」
「聞いたことねぇか? “
「ハウンドとかいう通り名の男のことかい?」
「そう、そいつよ。サハウェイさんは奴の事を信頼してる。何より腕が立つ。幾度もサハウェイさんの窮地を救ってるんだ。後釜になるにゃあ、よほどの事がねぇ限り無理だろうな。奴が病気か事故でおっ死んじまうくらいの事がね」
「そうか……。」
女はしばらく酒を飲み、煙草をふかし物憂げな雰囲気で周囲を見渡していた。しかし、そのゆったりとたゆたう空気を、少女の叫びがかき消した。
「やめてください!」
女がその方向を見ると、トイレに続く出入り口が乱暴に開き、男に手首を掴まれている少女が出てきた。
「待ってよ、静かにしてって! もぅ!」
男が慌てながら少女の手を強引に引っ張る。少女はその手に噛みつき、男がひるんだすきにフロアの方へと走って行った。
客も給仕の人間も、フロアの中央に立つ少女を見た。少女も大人たちを見渡す。
次にフロアの人間が見たのはフロアの隅のテーブルに座るティムだった。しかし、ティムは気むずかしい顔をした後、仲間とわざとらしく談笑を始めた。
その様子を見て、人々は気まずそうに少女から顔をそむけた。
「マリンちゃん! どうして逃げるの!?」
男は大きな体を揺らしながら少女に近づく。極度の猫背のため分かりにくかったが、男の
少女に迫り男が言う。「ちょっと! ぼくはふたりきりでお話をしようって言っただけだよ!」
「言ってるじゃないですか! 私、仕事中だって!」
「だったらこれも仕事だよ!」
「……え?」
「ぼくはマリンちゃんを買ったの! ちゃんとお店には話を通してるんだからね!?」
「うそ……だって……。」
マリンはティムを見た。ティムはあえてマリンを見ないように努めているようだった。途端にマリンは自分の体から力が抜けていくのを感じた。とつぜん床の底が抜け、自分の体が落下していくようだった。
「大丈夫っ。ぼくがマリンちゃんを守るから。大切にするよ、ねっ?」
マリンは目じりに涙をためながら力なく首を振る。男はそんなマリンの手首を掴んで強引に引き寄せ抱きしめた。
「マリンちゃんだって娼婦なんでしょ? だったらいつかは誰かとこういうことになるはずだったんだから。そのいつかが今日で、誰かがぼくだったってことだよ?」男はマリンに覆いかぶさるように抱きついて囁いた。「あんまりぃ、ぼくを怒らせないでね? ね?」
マリンは男を見上げた。男の口調はまだ穏やかだったが、目はもう笑っていなかった。かつて命を奪われかけた少女だった。マリンはこういう目をする大人の男が次に自分にどういう仕打ちをするかを知っていた。
「さ、行こうか?」
少女の思考と感情が、力と同じように体から去って行った。事態が迫ればやがて感覚すらもなくなるだろう。捕食されている動物のような目でマリンは男を見ていた。
「……ん?」
すると、マリンが見上げている男の眉間に皺がよって動きが止まった。男の頭の上には、硬貨の入った小袋が乗せられていた。
男が振り向くと、背後にはカウンターで飲んでいた女が立っていた。
頭からずり落ちた小袋を受け止めて男は言った。「何? 何なのお前?」
「その娘……。」と女が言う。「私が買った」
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