子どものけんか

 足早に戻ったマリンは、酒場のホールで給仕をしながらキャサリンが戻ってくるのを待った。そしてキャサリンが接客から戻ってくると、マリンは彼女の手を引いて手洗い場へと入っていった。


「……どうしたのよ?」と、トイレに入るなり、様子のおかしいマリンにキャサリンが訊ねる。

「あのね……キャサリン……。」

「……なぁに?」

「……。」

 うまく切り出せないマリンにうんざりするようにため息をつくと、マリンは手洗い場の鏡で化粧直しをし始めた。

「……娼婦になったんだよね」とマリンが言う。

「そうよ? どうしたの今さら? もしかして哀れんでるの?」

「そうじゃないよっ」

 キャサリンは、当たり前じゃないと言いたげにマリンを一瞥すると、再び鏡を見た。

「あのさ……初めての時、どうだった?」とマリンが訊ねる。

 キャサリンは目を丸くしてマリンを見て、そして笑顔を向けた。

「初めての時って……もしかして、あなたもそろそろかもしれないってこと?」

「あ、その……。」

「怖いんだ?」

「そりゃあ……。ほら、始めての人がどういう人かにもよるっていうし……。」

「そうだよねぇ~。まぁ、わたしは初めての時はお客さんじゃなかったから……。」と、キャサリンは愛しい相手を思い出して小さく微笑んだ。

「そう……なの?」と、初耳であるかのようにマリンは反応した。

「そ……。」

「……キャサリンの初めての人って……誰なの?」

「誰って……。」

 キャサリンはマリンを見た。答える様子はなく、意味深に微笑むばかりだった。

「もしかして……ティムさんとか?」

 キャサリンの微笑みが一瞬で消えた。

「……どうして?」

 キャサリンは、どうして“分かったの”と言うのをとどめた。

「えっと、その……何か……。他にそれっぽい人もいないというか……。」

「……そうよ、ティムさんよ。で、それがどうしたの?」と、妙に毅然とした様子でキャサリンは言う。 

「……どうして? キャサリン、ティムさんのこと迷惑がってたんじゃないの?」

「そんな大げさに考えなくてもいいわよ」とキャサリンが言う。「サハウェイさんに客を取るように言われて、どうしようもなかったの。けど、最初の男が見ず知らずのおっさんだってのは嫌だったから、しょうがなくね。一応、他の男に比べればあの人少しハンサムでしょ? ただそれだけよ、深い理由も感情もないから。ま、あの人はわたしが自分に惚れてるとか思って浮かれてるみたいだけど」

「……それだけの理由?」

「そうよ、仕方ないでしょ? 選択肢がなかったんだから」 

「そっか……そうだよね……。」と、マリンはほっと胸をなでおろした。

「わたしが本気であの男に惚れてると思ったんだ?」そう言って、キャサリンは眉間にシワを寄せ、呆れた笑いを浮かべた。

「そりゃあそうだよ~。何か最近、キャサリンてばティムさんのこと気にしてたみたいだし~」

「そんなわけないじゃん、勘ぐり過ぎだって~」

「そうだよね~、ティムさんのわけないもんね。あの人、すごいガラ悪いし女癖も悪そうだし」

「それ見たまんま~」

「だって酷いんだよ、私なんかこの前馬車の中であの人に髪さわられたんだから」

「……何ですって?」

 キャサリンの声が高く澄んだ。

 マリンの胸が、その声に刺されたように射すくめられた。

「……え?」

「何それ? どういうこと?」

「いや……だから……ティムさんが私のことを馬車で……。」

「馬車で何があったのよ? ねぇ?」

「えっと……、その、触ってきたり、いい女になるとかならないとか……。」

「何言ってんの? そんなのお世辞でしょ?」

「お世辞っていうか、お世辞にしてはちょっと……。」

「はぁ? 口説かれたとでも言いたいわけっ?」先ほどまで澄んでいたキャサリンの声は、突風が吹いた湖のように波立っていた。「へ~一人前に自分が口説かれるような女だと思ってんだぁ?」

「そ、そんなこと言ってないじゃない……。」

「あったりまえでしょぉ? からかわれただけよねぇ?」

「え……う、うん……そうだけど……。」

「そうだけど何よっ?」と、キャサリンはマリンに詰め寄った。 

「えっと、その……。」

 マリンはキャサリンの剣幕に一瞬で涙ぐんだ。見たこともない友の顔に、恐怖で足がすくみ、手が震えだしていた。

「あの人が、あんたみたいなションベン臭いガキを相手にするわけないじゃないっ」

「うん……うんそうだよね、そう思うよ……。」

「じゃあどうしてそんな話するのよっ?」

「え? あれ? どうしてだろ?」

 マリンの目からは涙がこぼれ落ちていた。怖いし恐ろしいし、何より悲しかった。この娼館でたったひとりの味方だと思っていた友達のはずだった。その彼女が、自分に敵意をむき出す存在になっていた。

「わたしにあてこすろうってのっ?」

「ち、違う、違うよ……。」

 キャサリンはますますマリンに詰め寄る。マリンは手洗い場の壁に追い詰められていた。

「サハウェイさんに贔屓ひいきにされてるからって調子に乗ってっ。前々から気に入らなかったのよっ」

「調子乗るなんて、そんなことないよっ」

「嘘つかないでっ。あんたがわたしを見下してることくらい気づいてるんだからっ」

「やめてよキャサリンっ。ねぇ、こんなことで喧嘩するのやめようよ、ね? 私たち友達でしょ?」

 キャサリンは友達? と言って鼻で笑った。

「娼館で友達とか本気で言ってんの? マジで気に入らない。ちょっと、あんた一発殴らせなさいよ」

「え?」

 殴らせろと許可を求めてきたものの、キャサリンはマリンが同意するまでもなく、「このっ、このっ」とグーを振り下ろして殴ってきた、一度ではなく何度も。女の手打ちの拳など、たいして痛くもなかったが、マリンは拳が当たるたびに小さな悲鳴を上げて身をすくめた。

 自分の制裁が効いたのか、それともただ勝手に悲しんで泣いているのか区別がつかなかったが、キャサリンはマリンの泣き声に満足すると、息を切らせて手洗い場を去っていった。

 残されたマリンは手洗い場のすみにうずくまって泣きじゃくっていた。親との死別で流して以来見せなかった、子供のような年相応の涙だった。温かい言葉一つでやむ涙だったが、今の彼女にはそんな庇護者は存在しなかった。

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