真紅と桜色

 翌朝、サハウェイの執務室にマリンが行くと、サハウェイがその顔を見て訊ねてきた。

「……涙の理由を聞いてもいいのかしら?」

「え?」マリンは驚いてサハウェイを見て「あの……。これは、寝不足です」と、目の周りをなぞって言った。

「そう……。」

 娼館にいる女が涙で枕を濡らすのは珍しいことではない。しかし、マリンに対して特別な想いをいただきつつあったサハウェイは、しばらくマリンが部屋の片付けをするのを見守っていた。

「……もし体調が悪いなら、今日は休んでても良いんだけど?」とサハウェイが言う。

「……大丈夫です」

 サハウェイはそう、とだけ言った。

「そいういえば」とマリンが片づける手を止めて言った。「サハウェイさんが行商の方に注文なさっていた品が、今日のお昼に届くそうです」

「あらそう」サハウェイの声が弾んだ。「嬉しいわぁ、前から一着欲しかったのよ。あの毛皮のコート」

「サハウェイさんでもお持ちじゃなかったんですね」

「そりゃそうよ、戦後は取引が禁止された品なんだから」

「え、じゃあどうやって……。」

 そう訊ねるマリンに、サハウェイは意味深に赤い唇を歪めるだけだった。

 すると部屋の扉がノックされ、向こうから「ティムです」と声がした。

「入って」とサハウェイが言う。

 ティムが入室すると、マリンは男から顔を背けた。サハウェイはその様子にいち早く感づいた。

「おはようございます、サハウェイさん」とティムが言う。粗暴だが、サハウェイの前ではうやうやしい態度を崩すことのない男だった。

「おはよう、ティム」とサハウェイが言った。

「お~お~マリンちゃん、今日も可愛かね~」

 そう言うティムに、マリンは小さく会釈するだけだった。

 ティムはマリンの様子に含み笑いをすると、どかりと執務机の前にあるソファに座った。

「あの……サハウェイさん」とマリンが言う。

「なぁに?」

「私、郵便物を取りに行ってきます」

「あら? そんなの他の下男に任せればいいでしょ?」

「でも、いつも大人の人にお仕事任せるのも良くないと思うし……。」

「そう、じゃあ頼んだわね……。」

 そうしてマリンは部屋を出ていった。

「……もしかして、嫌われとるとですかね?」と、マリンが去った方を見てティムが言う。

「自分が子供に好かれるような男だと思うの?」

 ティムがいやぁと頭を掻いて言う。「けど、もうひとりの子供には好評ですけぇ」

「……みたいね」とサハウェイが言う。「たいしたものね、あんな子供を一人前の娼婦として仕上げちゃうんだから。初めて客を取らせたらどうなるか心配だったけど、これで一安心だわ」

「ま、伊達にを四十年もやっとりません。どないすればおなご,,,の心をくすぐるかは心得たもんですわ。男と女ちゅうても所詮はチン×とオメ×とですきに」

「言うわね。まるで世界中の女を落とせるようなみたいな自信だわ」

「必要とあればやれますよ。時間と条件さえ合えばですけど」

「そぉう。誰でもやれるというのなら、私相手でも同じことが言えるのかしら?」

「サハウェイさんですか? そりゃあ、アンタは特別な人じゃきい難しかですね」ティムは前のめりに座って言った。「けんど、もしお望みとあらば、優しゅうサハウェイさんの心を撫で回して、白い貝殻を開かせちゃりますよ」

「白い貝殻ですって?」と、サハウェイは口に手を当て笑った。

「ほじゃ、硬い殻に自分を隠しとるが、アンタにも中にゃあっこい身がプリプリとつまっちょるよ」

 ティムは左の手のひらを右の人差し指と中指でくすぐって意味深な笑いを浮かべた。

 自惚れは、老練な兵士の心さえも蝕み破滅を呼び込む。そしてそれは、すけこましにしても例外ではない。

「言うじゃない」

「言うたじゃないですか、男と女は所詮チン×とオメ×やっち。どんなに気取ってしな,,つくっても、ひんむきゃあなぁんも違いはありゃしません。裸になったら、後は俺の魔法のマラで一突きじゃ。今までこんマラで女も金も思いのままにしてきましたけぇ」と、ティムは自分の股間を手のひらで叩いた。

「まぁ……。」

 サハウェイは真っ赤なルージュのられた唇を歪めて微笑み、目の前の女全てが射程範囲のティムは、サハウェイをいつでも口説き落としてやるぞとばかりに、うすら笑いを浮かべて見つめていた。

 笑い合うふたり。しかし、サハウェイの微笑が一瞬でかき消えた。


「ブラッドリーそいつを殺しなさい」


 ティムの背後にはいつの間にかブラッドリーが立っていた。

「え……? ぐ、ぐぶぅ!?」

 ブラッドリーはティムが振り向く間もなく彼を裸絞はだかじめにした。中肉中背ちゅうにくちゅうぜいのティムは、長身のブラッドリーに首を絞められ、座った状態から力づくで持ち上げられ宙吊りにされていた。ティムの足が、絞首刑こうしゅけいに処された罪人の如く、くうをばたばたと彷徨さまよった。

「あ……が……ご……。」

 ブラッドリーの太い腕にめられ、首の動脈からの血液が断たれたことにより、ティムの顔が紫に変色していった。耐えられずにティムの口から泡上の唾液がれ始める。

 サハウェイが、陽炎かげろうごとくゆらりと立ち上がった。

「たかが小娘ひとりを籠絡ろうらくしたで……。」

 サハウェイが机から立ち上がった。

「世間と自分との評価の折り合いがついていない、自己評価ばかりが高い思春期の小娘の隙をついたで」

 サハウェイは吊られているティムの正面に立った。

「世界のはしつかんだとでも?」

「ふぐっ、ふぐぅっ」

 美しく白い、そして端正たんせいなサハウェイの顔の真正面にある中年男の顔は、膨らみ、歪み、そして変色していた。

 サハウェイは銀色のナイフをふところから取り出した。それをティムに存分に見せつけてから股間にあてがう。

「魔法のマラなら、この状況をなんとかできないのかしら? 金も女も思いのままにできたけど、命はどうにもできないの? だったら無用の長物ちょうぶつね。ここで切り落としてあげましょうか?」

 ティムは残された力を使って首を振った。目は既に白目をむいている。

 サハウェイは左右の親指をティムの両目の下に突っ込み、指を眼窩がんかにずぷりと押し込んで白目を無理やり下げさせた。ティムのかすむ目には、白い狂気と赤い憎悪が映り込んだ。

「白い貝殻ですって? 貴方に私の中に何が入っているか分かるとでもいうの?」サハウェイは赤い瞳を燃え上がらせて言う。「ふたつの最愛を同時に失うことがどういうことか、貴方に分かる? 貴方には想像も及ばないでしょうね、世界中を憎んでも憎み切れない愛のことなど」

 サハウェイがブラッドリーに目配めくばせをすると、ブラッドリーはティムを解放した。ティムは床に倒れ、白目をむきながら息を切らしていた。

「二度と……。」とサハウェイは言った。「私の上に自分がいるなどと思い上がらないでちょうだい。あの小娘の事で、貴方の事を自分で思っているほどに評価などしていないのだから」

 ティムは呼吸を整えながらサハウェイをあおぎ見た。

「……反抗的な目ね? 私、裏切者に関しては容赦ようしゃしないの。その芽があったらすぐにでもむくらいにね」

 ティムは慌てて目を反らした。

「貴方の粗暴そぼうさも品の無さもすべて許してあげたのは、私の手足でいる限りの話よ。私は私にしか興味ないの。くれぐれも変な気は起こさないようにね」

 サハウェイは執務机に戻ると、「出ていきなさい。今日は私が呼ばない限り、私の前に現れないで」とティムに告げた。

 ティムは体をよろめかせながら出ていった。背中が入室した時と比べ、ひとまわり小さくなったように見えた。雨の日の野良犬を思わせる背中だった。

 ティムが出ていくと、サハウェイはブラッドリーに訊ねた。「あの男、どう思う?」

「……あまり感心できる男ではありません」

「あら、貴方もそう思うの?」

「まったく……。」と、ブラッドリーが首を小さく振って言う。「あの歳になっても妻をめとらず子ももうけないというのは、どこかが欠落している証拠です」

「……そうかもしれないわね」と、サハウェイは気の抜けた声で言った。

 サハウェイは広い部屋を見渡した。だだっ広い室内は孤独感を浮き彫りにする。ブラッドリーという圧倒的暴力を味方にしていながらも、彼女は独りだった。

「……小間使いをするようで申し訳ないけど」サハウェイはブラッドリーに言う。「マリンを呼んできてちょうだい」


 ブラッドリーが部屋を出て行ってしばらくすると、マリンがひとりで戻ってきた。部屋に入ってきたマリンはすぐに室内を見わたす。

「あの男はいないわよ」とサハウェイは言った。マリンは恐縮するように頭をさげた。

 サハウェイは執務机の椅子から立ちあがると、ソファに座った。そして靴を脱いで足をのばすとマリンに言った。「マニキュアをぬってくれないかしら?」

「は、はいっ」

 マリンは早歩きで化粧棚の方へ行くと、棚から小瓶をとり出した。しかし、しばらく小瓶を持ってなにかを考えると、もうひとつ小瓶を持ってサハウェイのもとへ行った。

「ちょっとそれ……。」とサハウェイが言う。マリンが持っていたのはいつもの真紅のマニキュアと淡い桜色のマニキュアだった。

「実は、赤が切らしてしまってるみたいで」

「あら本当? いやねぇ、切らさないように言ってあるのだけど……。」

「だから今日はこっちにしようかと……。」と言って、マリンは桜色の小瓶のふたを開けた。

「ちょっと待って。それ子供っぽくない?」

「サハウェイさんが子供っぽい?」そう言ってマリンは笑った。「あなたをそんな目で見る人がこの街に?」

「まぁ、それもそうね……。」


 マリンは丁寧にサハウェイの手と足の指に塗料をぬった。硬質な指は、薄桃色の塗料のせいで、乱暴にあつかうと破けてしまいそうな薄い花びらのようになった。サハウェイは、そんな弱々しくなった自分の一部を不満げに見ていた。

 塗料をぬり終わったマリンが言う。「じゃあこちらも……。」

 そう言ってマリンが取り出したのはマニキュアと同じ色の口紅だった。

「ちょっと、口紅までピンクにする気?」

「合わせないと」

「そうかもしれないけど……。それくらいは自分でやるわ」

 サハウェイはマリンから口紅を取った。マリンは用意していた手鏡をサハウェイの顔の前に出す。

 

 サハウェイは口紅を塗り終わると、怪訝な顔で自分の顔を様々な角度からながめた。

「お似合いです」とマリンは言った。

「本当にそう思うの?」

「もちろん、まるで花びらみたいです」

「私がなりたいのは花じゃあないわ」

「でも、見てるだけでいい香りがしそうですよ。いいじゃないですか、サハウェイさんだって、たまには花の気持ちでお過ごしになられたら」

「実を結ばない花だけれどね」

「実を結ぶばかりが花の役割じゃありませんよ」

「あら、じゃあなんだって言うの?」

「花は、花であるだけで心が弾むものです。花だってそう思ってます」

「貴女、花になったことあるの?」

「ないけど……きっとそうに決まってます」

「そう……。」

「そろそろ開店の準備を手伝わないと」そう言ってマリンは立ち上がった。

「もうそんな時間かしらね。ありがとう」

 マリンはお辞儀をすると部屋を出ていった。


 マリンが去ったあと、サハウェイはソファに寝そべり、少女にピンクにぬられた爪を眺めていた。

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