ままならぬこと
ミラはその後、客室で客を取っていた。そしてミラが仕事を終えて部屋を出ると、部屋の前ではマリンがタオルを持って待っていた。
「ちょっとマリン、アンタ外で待ってたの?」
「うんっ」
そう言って満面の笑みで返事をするマリン。客室でミラが何をやっていたかなど、まったく想像だにしていないような無垢な笑顔だった。
「まいったねぇ……。」
ミラは腰を曲げてマリンに言い聞かせる。
「いいかい? アンタはこんなところに来ちゃいけないよ。子供が見ていいもんじゃないんだ」
「……でも」
「でも……何だい?」
「私もここで働くんでしょ? だったらいつかは──」
「いつかのことなんて考えなくていいのっ」
ミラはありがとうと言うと、タオルを受け取り汗を拭った。
「……いつか、ここが旅籠屋だけでやれるようになったら、そん時はアタシらの仕事だって変わるさ」
少女は複雑な面持ちでミラの話を聞いていた。どうして仕事をした後に、ミラはこんなことを言うのだろう。自分に真似をするなというのなら、ミラは今の仕事に誇りを持っていないということなのだろうか。
その後、マリンはミラに頼まれ井戸で水を汲んでいた。少女には、さっきの出来事がまだ胸につかえていた。酒場で気丈に振舞っていたミラ、客をとった後の後ろめたい表情のミラ、子供のマリンには憧れの存在の相反する顔を理解することが難しかった。
水を汲み終わり、水瓶を持ち上げようと食いしばっていたマリンは、店の後方に広がる草むらから物音がすることに気づいた。
「……誰?」
息を飲むマリン。キツネなら良いのだけどと、暗闇の方向に目を凝らす。
しかし、茂みの中から現れたのは、キツネよりもはるかに大きい影だった。
「!?」
「あれ? 今日って、ミッキーが料理当番だったっけ?」
リタが訝しげにミッキーを見る。
「ち、違うわよ!」
「でも、アンタの作った料理がまだ残ってんよ」
そう言ってトリッシュが痛ましい様子で口を“へ”の字に曲げて鍋を指差した。
「あれ何? オムレツ? 何か妙にドロドロしてんだけど?」
「……プ、プティングだよ」
か細い声でミッキーが言うと、トリッシュとリタは「へ~~」と顔を見合わせた。
トリッシュが病人を慮るような、憐憫を込めた口調で言う。「アンタ、余り物をブチ込むクセやめなよ」
「アンタたち、駄弁ってる暇があったら持ち場に戻んな」
ミラが言うと女たちは「は~い」と酒場へ戻っていった。
「さて……。」
ミラの視線の先には、汚れた格好の女がいた。
「ま……何も言わなくても予想がつくけど……。」
女は上目遣いでミラを見る。
「あの……。」と、女が小さな声を震わせて言う。
「……何だい?」
「ここなら……かくまってくれるって聞いて……。」
ミラは赤い髪を掻きながらため息をつく。
「まったく……。どんな話を聞いたかしらないけど、噂が一人歩きしてるよ」
「でも、ここに逃げてきた娼婦もいるって……。」
「逃げてきたとか、かくまってるとかじゃなくてね、店を移りたいって女をこっちで引き受けてるだけ。それも厄介事にならないコをね」
それを聞くなり、女はきまずそうに俯いた。
「で、アンタは元々どこにいたの?」
「……イリア」
「イリアは分かるよ、ここだって外れだけどイリアなんだし」
女は何も言えなくなっていた。申し訳なさそうに、何度もミラを見ては目をそらすばかりだった。
「もしかして……。」と、ミラの後ろにいたクレアが口を出す。「アンタ、サハウェイの所の女じゃないでしょうね?」
女は小さく頷いた。
ミラとクレアは息を飲んだ。その名前を聞いただけで、
「ダメ……。」呟くとクレアはミラの袖を引っ張った。「絶対ダメっ、あの女と揉め事起こすなんて、絶対にヤバイって」
クレアは目の前にいる女に気を使うことができないほど焦っていた。
「いや、もうちょい話を聞いてみないと……。」
「何言ってるの? 他の奴らならともかく、あのサハウェイだよ? アンタ、来月には崖から落ちてるかもしれないよ?」
「そんなこと……。」
「ホールデンのとっつぁんがどうなったか覚えてないわけないよね?」
クレアの声はより一層せっぱ詰まりだしていた。
「あれは……事故だって言うし」
「……それ、本気じゃないよね?」
口ごもるミラ、俯いている女を見ると、顔には治りかけてはいるがうっすらと痣が浮かんでいた。
「まさか……それ、サハウェイにやられたの?」
そのミラの問いに対して、女は首を振った。
「客に……やられたの。でも……私があの客はもう嫌だって言ったら……、サハウェイさん、アンタはそういう客を取るしかウチには貢献できないからって……。」
「そりゃお気の毒。まぁ娼婦だもんね、そういうこともあるさ」
しかし、クレアは厄介事を何とかあしらいたいようだった。あえて冷淡に努めて女を突き放そうとする。
涙を流す女を気の毒そうに見るミラだったが、ふと炊事場の入口に気配を感じた。
「……誰?」
ミラが近づくと、そこにいたのは隠れて様子を見ているマリンだった。
「マリン……。アンタも持ち場に戻りなさい」
「……ねぇ、ミラ姉」
「何だい?」
心配そうに女を伺いながらマリンが言う。「その人、どうなるの?」
「どうなるって……。」
「可哀想だよ」
「そりゃあ……。」
「子供は黙っときなっ」と、クレアがキツい目でマリンを睨んだ。
「ちょっと、クレア……。」
「ミラ、アンタ前に言ったよね? もし危ないのが来るようだったら飯を食わせて追い出すって」
「あ、ああ……そうだね」
「今がその時じゃないの?」
「う、うん……。」
ミラは再びマリンを見る。自分を尊敬し、信頼しきっている少女の眼差しだった。
「ちょいと……話をつけてくるよ」
ミラがそう言うと、マリンは瞳を輝かせて微笑んだ。
「ちょっと!」
「大丈夫だって」力ない笑顔でミラは微笑んだ。「アタシに考えがあるから、ね?」
ミラは自分の執務用の部屋がある二階に上がると棚から金貨を取り出し、そして夜も深かったが、護衛のお竜を連れだってサハウェイの店へと馬車を走らせていった。
ミラは店に戻ると、逃げてきた女は自分の店で引き取ることになったと従業員たちに告げた。
女たちはミラの手腕に感心していた。トリッシュたちはさすがミラ姉と喜び、マリンはより一層憧れの眼差しで彼女を見ていた。
クレアだけが、友人の笑顔に影があることに気づいていた。
──サハウェイの店
「ブランデーばお持ちしました」
サハウェイの執務室に部下が酒を運んできた。
「ありがとう……。」
サハウェイは窓際で夜の景色を眺めていた。イリアの外れの山の麓に、小さく光る灯りがあった。サハウェイはその灯りを、捉えた獲物のように細めて凝視していた。
部下はショットグラスにブランデーを注ぐと、グラスを窓際のサハウェイのところまで持っていく。
「……どぞ」
サハウェイはグラスを受け取ると窓の外を眺めたままブランデーをひと飲みし、心地よさそうに火酒が喉を通る感覚を楽しみ口を歪めた。
「……何や嬉しそうですね」と、部下がサハウェイに訊ねる。
「……そう?」
「ええ、あの娘ん来てから……。」
「そうね……。」
サハウェイは残りのブランデーを一気に口に含み飲み干して言った。
「とっても可愛い後輩ができたんだもの。嬉しくもなるわ……。」
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