憧れ
それから間もなくして、マリンはミラの店「ドウターズ」で働き始めた。元々、母親が父親と共に物流の仕事を手伝っていた家庭だったため炊事は苦ではなく、マリンはすぐに適応することができていた。
両親を亡くしたショックは拭いきれなかったが、その悲しみを振り切るかのようにマリンは働き、同僚たちも少女の熱心さがその反動であることを察していたので、いち早く彼女を受け入れようと努めていた。
しかしマリンが仕事に精を出しているのは、何も悲しみの反動だけではなかった。
「よぉ、トカゲ臭ぇんだよ。ここは人間の国なんだ、オメェみたいなのはとっとと出ていけよ~」
ある日、店の隅で三味線を演奏をしていたお竜に酔っぱらいが絡んできた。お竜は五王国では滅多に見られないリザードマンだった。人間とかけ離れているどころか、フェルプールやワウルフのように哺乳類ですらない。そんな完全なるよそ者に嫌悪感を抱いている客は少なからずいたものの、騒ぎを起こさない礼節はわきまえていた。だがその日、その男は酔いが回ったか気が大きくなっていたようだった。
一部の客は苦笑いしながら騒ぎが収まるのを静観し、一部の客は不快そうな顔を浮かべながらも、それでもやはり静観していた。
「よぉ、聞いてんのかぁ? オメェみたいなのがいたら酒が不味くなるんだよぉ~」
男はなぁ? と周囲に同意を求めたが、周囲は気まずそうな表情で顔をそらした。
男はなおもお竜に悪態をつこうと迫るが、そこへミラが割って入ってきた。
「なぁアンちゃん、悪いけど出て行ってくんないかね?」
腰に手を当て胸を張り、自分よりも背の高い男を見下すように毅然とミラは構える。
ミラに詰られた酔っぱらいの顔は、より一層赤くなっていた。
「んだとぉ? テメェ、娼婦の分際で随分と偉そうな口叩くじゃねぇか?」
「体売ってようと気位くらいはあるもんでね、仲間侮辱されて黙ってるわけにはいかないし、アホ面相手に尻込みするほど臆病じゃないんだよ」
「何だよその態度は? 俺ぁ客だぜ? 何て態度とってんだよ?」
「客だからって神様にでもなったつもりかい? はした金落としてるだけのくせに、つけあがるんじゃないよ」
「こっのぉう……。」
酔っぱらいは持っていたグラスの酒をミラに浴びせかけた。
より一層険悪な雰囲気が店内に漂い始めていた。見かねた客の一人が、「いい加減にしろよ……。」と辛うじて酔っ払いに聞こえる声で呟いた。
「んな、何だとっ? 誰だ今のは!」
酔っぱらいは振り返って見渡すが、誰もが顔を背け該当の人物が分からない。酔っぱらいはそんな客たちを鼻で笑う。自分が強くなったかの如き錯覚をしていたのだ。
「……アチキよ」
声を上げたのはお竜だった。
「はぁ? 嘘つくなよ、どうして俺の前にいたお前が後ろから声を……。」
男が顔を戻すと、彼の正面にはいつの間にかお竜が立っていた。
「うぉ!?」
眼前のお竜に驚愕し、男は身をすくめた。
お竜は素早くそんな男の股間に手をやると、睾丸を遠慮なしに握り締めた。
「ひぃっ!」
睾丸を握られた痛みと恐怖で、酔っぱらいの体から力が抜ける。
「あ……あう……。」
「アンタ……ウチの親分に随分と失礼なことしてくれるわねぇ」
「や、やめろ、離せ……。」
お竜は股間を握ったまま自分の体を下に潜らせ、肩車※で持ち上げると男を投げ飛ばした。
(肩車:自分の肩に相手をうつ伏せの状態で乗せ、足と手を取り横に投げる柔道技。相手の股下に自分の首を潜らせて立って持ち上げる状態ではない)
「ぐぅあぁ!」
仰向けに倒れた男が体を返し顔を上げる。目の前には、お竜が抜いた刀の切っ先があった。
「ひいっ!」
男は尻餅の状態で後ずさる。リザードマンのお竜の表情は、本気なのか冗談なのか読み取りづらいため、それがより男の恐怖を煽った。
「お、おい、この亜人を止めさせろっ。なぁ頼むっ」
しかし周囲の客たちは冷ややかに苦笑いを男に向けるだけだった。
そんな中、ミラは剣を持っていた客を見つけるとその男に近づいていった。
「悪いんだけどお兄さん、この剣貸してくんない?」
ハキハキと微笑むミラに気圧されて、男は思わず「お、おお……。」と剣を差し出した。
「ありがと」
客から剣を受け取ると、ミラは尻餅を付いている酔っぱらいにその剣を放り投げた。
剣を受け取った男が困惑してミラを見る。「……え?」
腰に手を当て胸を張り、大きく息を吸ってからミラが男に言い放つ。
「テメェが蒔いた種だろ、男ならテメェの力で乗り越えてみなっ」
ミラがそう言うと客たちはやにわに騒ぎ出し、「決闘だ!」と煽り始めた。
「そ、そんなぁ」
男は周囲に様子に押され、引くに引けなくなり泣きを見せ始めていた。
「決闘ってんなら……。」お竜は切っ先をさらに男に突きつける。「ここでアンタを殺っちまっても、お咎めなしってことかしら?」
「く、くそぉ!」
男は覚悟を決めて柄を握り、鞘から剣を引き抜こうとした。
「あれ? クソッ! クソ!」
だが、男がいくら力を込めても剣は抜けない。
「や~だ、なにアンタ剣の抜き方も知らないのぉ?」
迫るお竜から逃げようと、男は尻を床にこすりつけながら後ずさる。
「ち、違う、剣が抜けないんだっ」悲鳴のような声で男が言い訳をする。
「あらあら、自分で抜き方も忘れちゃったのぉ? どうしようもないインポ野郎ねぇ」
お竜は琥珀色の瞳を光らせ、喉を鳴らして笑った。
「ちっきしょう!」
男は立ち上がった。そして抜けない剣を諦めて、男は鞘ごと剣を大きく振り回しお竜を殴りつけた。
しかし、お竜はその一撃を避けることさえもせず、首で受け止めた。
「……え?」
予想外の結果に青ざめる男。打ち据えた感触も人間を殴った時とは異なっていた。肉は硬く、さらに鱗は打撃を弾くように強固だった。
「ちょっと~、これ貴方の全力~?」
そしてお竜は首の力だけでギリギリと剣を押し戻した。
「あ……あ」
男の剣を持つ手が震える。まるで、鞘がお竜の首にひっついているかのように動かすことができないようだった。
「ま、この程度じゃ剣を抜けても、アチシの首を斬れなかったでしょうね」
お竜は相手の剣を握って力づくで奪うと、鞘と柄の境目を調べた。
「あらあら、この剣、留め金がしてあるじゃない。アンタ、そんな事も気づかなかったのぉ?」
「そ、そんなぁ……。」
「ほ~んと、焦った童貞みたいに無様ね……。」
お竜は喉を鳴らして笑うと、テーブルの上の酒瓶に手を伸ばし、その瓶で男の頭を強かに打った。
「いでぇ!」
そして男が膝まづくと、その頭に酒瓶を置いた。
「え……え?」
男は困惑して頭の瓶を触ろうとする。
「動くな、えれぇ事になるぞ」
急に、お竜の口調が変わった。琥珀色の瞳も亜人ではなく、ドラゴンの如く凶暴に輝いていた。男はその瞳に射すくめられ動けなくなった。
お竜は男を前に、静かに下段に構えた。
「な、何をする気だ?」
しかしお竜は何も答えない。
そしてお竜はピンと天高く刀を振り上げると、男の頭上に刀を振り下ろした。
「ひぃ!」
男がビクンと体を痙攣させる。周囲の客は、男が脳天をかち割られたのかと思い、小さく呻き目をつむった。
しかしお竜の刀は男の頭上の紙一重で止まっていた。頭上の酒瓶を縦に両断し、その上で男には怪我一つ追わせてはいなかった。
割れた酒瓶からは酒が溢れ出し、男の顔と肩を濡らしていた。
「あ……あ……。」
男は頭の冷たさが自分の血なのだと勘違いし再び尻餅をついた。股下を、酒とは別の液体で濡らしながら。
そんな腰を抜かし呆けている男に、勝ち誇ったミラが腰を折って迫る。
「じゃ、アタシにふっかけた酒と、今アンタがかぶってる酒の代金、両方払ってもらうからね?」
男は歯噛みしながらも、渋々酒代を払って店を出ていった。
迷惑な酔客を撃退したミラたちの手腕に、店の客たちは歓声を上げて褒め称えた。
女の従業員たちをまとめあげ男の客から喝采されるそんなミラは、幼いマリンの目には憧れの存在として映るようになっていた。
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