去る者

 しかし、その後ミラはホールデンの部屋に呼ばれたものの、もう二度とするなと念を押されただけだった。ミラとしても、特に自分の売上に関わるものでもないので、小言を言われないに越したことはなかった。


 その代わり、ミラは再び書類整理を命じられた。前回と違い、仕事をしている自分を見張るように見ているホールデンにミラは落ち着かない心持ちだった。

 ホールデンが言う。「お前……字が読めたのか?」

「え? ああ、生まれ育った村に酔狂な教師崩れの人がいて、寺子屋やってたんだよ」ミラは書類を片付けながら答える。「ウチは男兄弟多かったから、家の手伝いばかりやらされることもなかったし、苗植えや収穫がない時の農民なんて、基本暇だからね。ちょくちょく字とか簡単な計算とか習ってたよ」

「……そうか」

 すると、部屋の扉がノックする音がした。

「誰だ?」

「アリシアよ」と、扉の向こうから声がした。

 ホールデンはミラを一瞥した後、扉の向こうに言った。「入れ」

 アリシアが入ってくると、ホールデンは改まるように座り直してから「なんだ?」と訊ねた。しかしホールデンのその様子からは、アリシアがどういう用件で来たか察しをつけていたようだった。

 アリシアはミラを見て言う。「……人払いをして」

「ずいぶん偉くなったもんだな……。ミラ、外せ」

 ミラもアリシアの様子から何事かを察したので、彼女を一瞥することなく無言で部屋を出ていった。

 ミラが退室するとホールデンが言った。「何の用だ、アリシア?」

「……察しはついてんだろ」

 ホールデンは机の上で腕を組んだ。

「……お前の転売のことだな」

「あんまりじゃないのさ、冗談だろう? 何だってアタイを──」

「とぼけるな。気づいとらんと思ったか? お前、ここ数ヶ月ろくすっぽ客なんてとってなかったろ?」

「そりゃあ、そうだけど……アタイはこの店でどれだけ客をとってきたと思ってんだい」

「アリシアよ、お前は歳だ。こればかりはどうしようもない。確かにお前はこの店で頑張ってくれたよ。だがな、どんなに努力したって40過ぎの娼婦なんざ、よほど安くして客をとるか、特別な趣味の男をみつけるしかあるまい。しかし、そのためだけにお前を置いておくわけにもいかん」

「へっ、それでアタイを転売ってことかい。まるで家畜扱いじゃないのさ」

「恨み節はよそでやってくれ。今さら言う事でもないだろ」

「ああそうだね、パルマの時だってアンタは冷徹だったよ。何の情の一欠片ひとかけらも持ち合わせてないアンタだもんね」

「ワシが……。」ホールデンの目が据わった。「寛容なうちに言葉を選べよ」

 アリシアはさらに何かを言おうとしたようだったが、目の前のホールデンに怒りを向けたところでどうしようもなく、自嘲しながら目を細め窓の外を見た。

「……蝶よ花よと言われてたのが昨日の事のようなのに、気づいたらもうババアかい……。男を絡め取る手練手管てれんてくだはいくらでも伸びたのに、肝心の体がもうお払い箱とはね……。」

「……アリシア、お前とは長い付き合いだから言わせてもらうぜ」ホールデンが口調を改めて言う。「ここの稼ぎ頭だったお前なら、自分の身を買い取る金なんてとうに貯まってたはずだ。それなのに酒や男で使い果たしやがって。つまらん男に貢ぐくらいなら、どうして自由を買ってやり直そうと思わなかった?」

「はんっ、やり直すときたかい。それでコツコツ貯めて、いざ自由になった時にババアになっちまってたら、いったいその先どうやって生きていけばいいんだいっ? だいたいねぇアンタから見ればつまんない男に見えたかもしれないけど、アタイだって身受けしてくれる男を探すのに必死だったんだよっ。上手くいけば、若い時に自由になれたんだっ。好き勝手言わないでおくれよっ」

「そいつぁ言いっこなしだぜアリシアよっ。娼婦の中にはなぁ、引退した後だって身を立ててまっとうに生きてる奴だっているんだぜっ? なぜ遠回りでも地道に努力しなかったっ?」

「遠回りだって? 若い女にっ、ババアになってからの自由なんてのがっ、そんなものが心の支えになるわけないだろっ?」アリシアの目尻に涙が浮かんでいた。「そんな人生に……何の意味があるってのさ。十五の時にここに来て、初めての男は好いた相手じゃなくて見ず知らずの客だった。それからずっとだよ、アタイはこんな生き方しか知らないんだ……。」

 ホールデンは小さく「バカヤロウが……。」と呟き、しばらく思案して沈黙した。

「……お前さえよければ、娼婦以外でウチの仕事を手伝わせてやってもいいんだが?」

「よしとくれよ……。アタイを縛り付けた娼館のために、今さら働く気になんてなるわけないだろ」

「そうかい、じゃあ好きにしろよ」

 アリシアは踵を返して部屋を出ていった。部屋を出ると、扉の前にはミラがいた。アリシアはミラを一瞥だけすると、そのまま去っていった。

 ミラはホールデンの部屋に戻ると、再び書類の整理をし始めた。作業が終わる間、ミラもホールデンも無言のままだった。


 翌日、ミラは金を持ってホールデンの部屋を訪れた。

 金貨の詰まった袋をズチャリとホールデンの机に置いてミラが言う。「自分を買い戻させてもらうわ」

「……どうしたんだ、この金は?」と、ホールデンが訊ねる。

「……パルマからもらったのさ」

「パルマが……。しかしどうして急に? この金があったのなら、もう少し早くここを出られただろう?」

「……このお金は使うつもりはなかったよ。でも、アタシも早くここを出なきゃあと思ってね」

 ホールデンは、昨日のアリシアとの会話を聞かれたのだと思った。

「そうか……。お前にはもうちょっと稼いでもらいたかったが、金があるならワシとしては何も言う資格はない」

「じゃあ、荷造りをして出て行くわね」

 部屋から出ていこうとするミラだったが、そんなミラにホールデンが声をかける。「ミラよ、パルマの事でワシを恨んでるか?」

「え? 恨むって……何を?」

、お前に客をつけたのはワシだ」

「……。」

「確かに、パルマの気持ちも分からんでもない。だが、早く客をつければ、若いうちに金を稼いで自分を買い取ることだってできる。何よりここは娼館だからな、経営者としてお前だけに情をかけるわけにもいかん。それに……ふっ切らなきゃならんこともある」

「……どういう意味?」

「いや……こっちの話だ」

「……そう。ま、別にアンタを恨んでなんかないよ」

「……そうか?」

「魚は川の流れを恨みゃしないからね」

「……なるほど。じゃあワシも、その魚とやらか」

「誰だってそうだろ? 流される以外に、生き方なんてないんだ」

「……確かにな。ところでお前、行くあてはあるのか?」

「それは……。」

「もしあてがないのなら、ワシのところで働いてみんか?」

「アンタのところで? 下働きなら他のところを探そうと思うんだけど」

「いや、下働きじゃあない。お前、ワシの秘書をやらんか?」

「秘書? たいそうなお仕事じゃない。アタシなんかに務まると思うの?」

「別に、この間まで出入りしとった下働きの男だって、大した技量があったわけじゃない。お前は読み書きも計算もできるし、何より資料に目を通しただけで金の流れが把握できるようだ。倹約の知恵もあると見える」

「買いかぶりすぎだよ」

「まぁそう言うな。ワシは女を見る目は確かだと思っとる。どうだ、試しにやってみんか?」

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