生き残りし者

 ヒョードルはサハウェイが戻ってくるまでに、女たちを取り戻そうと街中を駆け回っていた。しかし、全てはサハウェイが街の地主、商人、影響力のある貴族や役人に手を回した後であり、ヒョードルは知らぬうちに孤立無援になっていた。

 暴力に訴えようにも、男手すら既に彼女の側についていたため、サハウェイの娼館に単身殴り込むことなど老齢のヒョードルには叶わないことだった。

 サハウェイの予想通り、ヒョードルは歯噛みをし、地団駄を踏み、頭をかきむしりながら街を徘徊し、夜がふける頃には彼の年齢は一気に10歳は年老いたかのように見えた。

 疲れ果てたヒョードルは自分の食堂で椅子にぐったりと座り込み、虚ろな顔で虚空を眺めていた。ふと、会合で食事をしていないことを思い出し、無駄とは分かってはいたが、「誰かぁ、誰かぁ……。」と声を張り上げた。もっとも、張り上げたといっても、老人のか弱くか細い声だった。 

 そんなヒョードルの声が響く食堂は、打ち捨てられて何年も経った廃墟のような静寂に包まれていた。

「誰も……おらんか……。」

「ヒョードルさん、どうなされましたか?」

 ヒョードルが諦めかけたその時、食堂の奥からリスカが出てきた。

「おぉ、お前……。」

「みんな出て行ってしまいましたね……。」

 リスカが力なく微笑んでみせる。

「お前は……出て行かなかったのか?」

「私は……サハウェイさんに恨まれてますから。彼女について行ったら何をされるか……。」

 リスカはヒョードルにサハウェイとヒィロとの仲を密告した娼婦だった。そういった経緯があって以来、サハウェイとは違う形でヒョードルに重宝されていた。

「そ、そうだったな……。しかし経緯はどうであれ嬉しいぞ。こんな年寄りでも、天は見放さなかったってことだ」

「一人ですけどね」

 リスカは苦笑して首を振る。

「一人でもお前なら百人力だ。お前ならサハウェイを超える事だってできる。俺は知ってるぞ、お前には前々から光るものがあったってな」

「調子いいですねぇ」

「よぉし、味方がいるって事が分かったら力が湧いてきた。リスカ、食事の用意をしてくれ」

「余り物のパイしかありませんが?」

「構わん。一ヶ月後には豪勢なディナーをお前と囲むんだ。それまでの辛抱さ」

 リスカは笑いながら台所の奥へと消えていった。

 しばらくして、ヒョードルの前に小さなパイが置かれた。余り物のはずだったが、手をつけた様子はなかった。

「おお、うまそうだな。お前が作ったのか?」

 フキンで手を擦りながらヒョードルがリスカに訊ねる。

「あ、いえ……貰い物です」

「……そうか? じゃあいただくとしよう」

 ヒョードルはパイの端を手で引きちぎると、中の具を挟んで口に運んだ。

「う~ん」

 ヒョードルは美味そうに目を閉じてパイを味わう。

「うまいじゃないか。お前もどうだ?」

「いえ……私は……もう食べましたから……。」

 リスカの様子を奇妙に思いながらヒョードルはパイを咀嚼する。

「ところで……。」口の中にパイを残したままでヒョードルはリスカに訊ねる。「このパイの具は……何なんだ? 妙に歯ごたえがあるが……。」

「ぞ、臓物のパイですわ……。」

 ヒョードルは臓物、と繰り返して頷いた。

 すると、聞き覚えのある声が食堂に響いた。

「いかがです? 私からの退職祝いのお味は?」

 食堂に入ってきたのはサハウェイだった。

 ヒョードルが「サハウェイ、貴様ぁ」と、口からパイをこぼしながら呻く。

 サハウェイは自分を睨むヒョードルを涼しげに笑いながら、テーブルを挟んでヒョードルの正面に座った。

「お前、どの面下げて俺の前に出てこれた?」

 サハウェイは愛撫するように自分の顔の半分を右手で撫でた。

「この面かしら? ちゃあんと覚えててね? 貴方が最後に見る顔なんだから」

「お前ひとりで俺を殺ろうってのか?」ヒョードルが嘲笑う。「舐められたもんだな。落ちぶれたとしても、雌一匹に殺られちまうほどヤワじゃないぞ」

 サハウェイは「そう……。」と、パイを見る。

 サハウェイの素振りで、ヒョードルは先のサハウェイの言葉を思い出す。

「……このパイは……お前が持ってきたのか?」

「そうよ。言ったでしょ、退職祝いだって」

 ヒョードルは口の中の物の感覚を確かめるように舌を動かす。

「いつかの懐妊祝いのお返しよ?」

 ヒョードルは口を動かすのをやめた。

「これは……何だ? 何が入ってる?」

「言ってるでしょ? 懐妊祝いのお返しだって」サハウェイはテーブルの上で頬杖をつき、真紅のルージュを塗った唇を歪めた。「貴方、あの時私に何を贈ってくれたかしら? あれ、大切に取っておいたのよ? で、それを細かく刻んでパイにしてみたの」

 ヒョードルはパイをちぎって手で中身を確認した。パイの中には、毛のついた肉片が混じっていた。

「うぉ……おぇぇ……。」

 ヒョードルは嗚咽を上げながら口に指を突っ込んだ。自分が何を口にしていたか理解したのだ。

「いつも男のアレを口に含んでる私たちだけど、食べるのは経験ないわね。……どう?」

「お、お……おうぇ……おぼっ……こほっ……。」

 息を荒げながら、さらに重要なことにヒョードルは気づく。

「お前……知ってたの……か?」

 ヒョードルに睨まれたリスカは肩をすくめて答える。

「仕方ないじゃないですか。言うこと聞かないと、サハウェイさん許してくれないって言うんですもん」

「き、き、き、貴様らぁ!」

 立ち上がろうとするヒョードルだったが、うまく体に力が入らなかった。ヒョードルはテーブルの上に突っ伏すように倒れた。

「お……おご?」

「……当たり前でしょ。パイに混ぜたのがイチモツだけだと思った?」

「かはっ……かはっ……。」

 テーブルの上で痙攣しているヒョードルを見下すようにサハウェイが立ち上がる。

「安心して、死ぬほどの毒じゃないわ」

 サハウェイはテーブルを周り、ヒョードルの後ろに立った。

「でも、安心してってのは違うわね。ただ毒で死なないってだけだから……。」

 サハウェイは懐から銀色に鋭く光るナイフを取り出し、そしてヒョードルの髪を鷲掴みにして椅子の上で仰け反らした。

 苦しげにヒョードルが言う。「ザ、ザハヴェイ、お前……俺に受けた恩を忘れたのか? お前には殊さら目をかけてやったというのに……。」

「恩は返したわ。十分に稼がせてあげたでしょう? でも……。」サハウェイはヒョードルの耳に唇をこすりつける様にして囁いた。「仇は返してないわ……。」

「うぐ……ぐ……や、やめろ……。」

 サハウェイは恍惚とした表情を浮かべ、ヒョードルの耳を甘噛みするようにしてさらに囁く。

「ねぇ……どんな気分? 奪われることが耐え難い貴方が……今まさに全てを奪われようとしているのよ? ねぇ聞かせて? 呻き声でもいいから、ねぇ?」

「はぐぉ、はぐぉ……た、たひゅ……。」

「ダメよ聞こえないわ」

「たひゅ、たひゅ……。」

「もっと大きな声ではっきりと。頑張って、ご主人様」

「た……た……たすけて」

「だぁめっ」

 サハウェイはヒョードルの首を真一文字に切り裂いた。ヒョードルの首から赤黒い血が吹き出し、血はテーブルの上のパイをラズベリーソースのように彩った。

「娼館の主がイチモツ食って死ぬなんて、何か示唆的よね。そう思わない?」と、サハウェイは微かに痙攣して椅子に深く座るヒョードルを眺めながらリスカに訊ねる。

 リスカは何も言えずに固まっていた。殺すことは予想していたが、本当に殺害現場を見てしまったリスカは、ただただサハウェイに恐怖するだけだった。

 サハウェイが言う。「……じゃあ、テーブルを片付けて」

「……え?」

「当然でしょ? このままでほっとけっての? 腐るわよ?」

「で、でも……私が?」

「私にやらせる気? これは命令よ」

「は……はい」

 リスカはサハウェイの言われるままに片付けを始めた。血の飛び散った食器やフキンを手に取ったため、リスカの服や手には血液が付着した。

 サハウェイはそれを確認すると、「じゃあ後はよろしく」と娼館から出て行った。

 娼館の外には役人たちが控えていた。

 役人にサハウェイが告げる。

「ヒョードルを殺した犯人が中にいるわ。服に血が付いてるし、血のついた凶器も持ってるから間違いないわね」

 役人たちは顔を見合わせて頷くと、一斉に娼館に入っていった。

 娼館を背にして颯爽と歩くサハウェイ。真っ赤な唇を釣り上げて彼女は独り言つ。

「許してあげるって言ったのは嘘じゃないわ。アナタも殺すつもりだったんだもの」



 半年後、自分が主となった娼館の前で、サハウェイはガロを待っていた。

 つばの広い真っ白な帽子をかぶり、真っ白なワンピース身を包んだ彼女は、自身の真白い肌と、さらに真夏の陽炎と相まって、白昼に現れた幽霊のようだった。そんな彼女の傍らでは、背の高い使用人の男が彼女に陽が当たらないよう、真っ白な日傘で彼女に日陰を作っていた。

 ガロの馬車が娼館の前に到着すると、遠くから仕入れられた少女たちが荷台から下ろされた。

「新しい子達ね」

「ああ……。」と、ガロが答える。

 サハウェイに笑顔を向けられた少女たちは、娼館の主が女だということを知り、ほんの少し胸を撫で下ろした。どんな厳つい毛むくじゃらの男が待っているか、馬車の中で気が気ではなかったのだ。

 サハウェイはガロに渡されたリストに目を走らせる。リストには新しく仕入れてきた少女たちの情報が記されていた。名前、年齢、出身地、だがそれはもうここに来た時点でどうでも良かった。名前も、出身地も、彼女たちの過去はここから新しいものに変わる。年齢は初潮が来たかそうでないかの問題でしかない。

 サハウェイは、器量の良い少女のひとりが処女だということをリストから知ると、日傘をさしている男に囁いた。

「この娘には今晩から客をつけて。高く売れるわ」

「いいので? その……。」

 いきなり客を付けられた男性経験の無い女が、悲嘆のあまり自殺するというのは珍しいケースではなかった。

「構わないわよ、私だってそこから這い上がったんだから。これからこの世界で生きていくなら、それくらいタフじゃなきゃあ」

「はい……ところで、昨晩客の顔に噛み付いた娼婦の処遇はどうしますか?」

「ああ、あの娘ね。伸びしろがないのに置いててあげたってのに、トラブルまで起こすんだもの、いらないわ。安値で辺境にでも売ってちょうだい」

「……分かりました」

 サハウェイは去っていく使用人から日傘を受け取った。

 ガロが言う。「ずいぶんと、繁盛しているようだな」

「そりゃあ女ですもの。同じ女の扱いは心得てるわ」

「辺境へ売り飛ばすのもか?」

「リサイクルよ、得する人間の方が多いわ。それに、自分の運命の舵取りもできないような、そんな子にかける情けなんてないもの」

「……そうか」

「……何か言いたげね?」

「なに、あまり急速に事を進めすぎると周りに敵を作るんじゃないかと思ってな……。」

「あら、心配してくれてるの? それならもっといい子たちを私のところによこしてよ。もっと大きくなれば誰も私に逆らえなくなるわ」

「……なぜそこまで急ぐ? 何が目的だ?」

「目的? ……私はただ羊として何十年も生きるより、虎として一日を生きたいだけよ」

 サハウェイは紺碧の空に手を伸ばした。娼館の小部屋から見た空に比べると、目も眩むような広さだった。夏の日差しが白い肌を焼いたが、それでもサハウェイはその向こうへ手を伸ばそうとする。


 過去を奪われ、愛する者との今を奪われ、ふたりで築くはずだった未来を奪われた。

 何の因果もなく、神の気まぐれとでもいうように理不尽に。

 サハウェイは確信する。


 ならば自分には世界を踏みにじる権利があると。

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