闇の中で育つもの
それからまもなく、ヒィロはヒョードルに命じられ隣の街に使いに出された。しかし、ヒィロは数日たっても娼館に帰ってくることはなかった。
強盗にあったのではないかと噂される中、サハウェイも気が気ではなかった。見初めた男だとはいえ、ヒィロの腕っ節が頼りないことは知っている。強盗にあえば、簡単に命を落としてしまうだろう。
そんな折り、ヒョードルが小包を抱えてサハウェイの部屋にやってきた。
「サハウェイ、俺の宝物よ、体調は大丈夫か」
妙な猫なで声をあげるヒョードルをサハウェイは訝しげに見る。
「え、ええ。問題ないわ」
「そうかぁ、問題ないかぁ」
ヒョードルは何の断りも入れずにベッドに腰掛けると、サハウェイに隣に座るよう促した。
わがままがきくとは言え、ヒョードルは自分の主人である。促されるままにサハウェイは彼の隣に座った。
「サハウェイよ、お前は俺の宝だ」
「……聞いたわ」
「ああ、そうだとも。俺はお前をひときわ大事に思ってる。他の娼婦を何人も犠牲にしてもお前を優先する。いや、事実そうしてきた。……だろう?」
「ええ……感謝してるわ」
それを聞くと、ヒョードルはそうかそうかと嬉しそうにサハウェイの肩に腕を回した。
「それを聞けただけでも俺は嬉しいぞ」
ヒョードルはサハウェイの肩を掴んで振り回し、そんな様子のおかしいヒョードルに、サハウェイは引きつった笑顔を向けていた。
「今日は……そんな俺の宝物に懐妊祝いをと思ってな」
ヒョードルは手にしていた小包をサハウェイの膝の上に置いた。
「あ、ありがとう……。」
不自然に力のこもった満面の笑みのヒョードルに萎縮するサハウェイ。一人になりたかったが、どうやら箱を開けるまで開放してくれるつもりはないらしい。ハサウェイは首を傾けて微笑んだ。
「……開けても?」
「もぉちろんだとも」
サハウェイは箱の包みを解き始める。
「サハウェイよ、俺はお前を何よりも大事にしてきた。生きた宝石だとさえ思ってた」
「……そう」
中から出てきたのは紐で縛られた箱だった。サハウェイは結わえてある紐を解く。
「だから、お前を傷つける奴は何者だろうと許せん。お前を俺から奪おうとする奴もな」
「ええ……。」
箱を開けるハサウェイ。中には何かが紙で包まれていた。
「それに……宝石が自分から俺の手から離れていこうというのもな」
「……。」
サハウェイの手が止まった。サハウェイは、ヒョードルが何を言わんとしているか察したのだ。
ヒョードルがサハウェイの耳に唇をこすりつけるようにして呟く。「ちょいとばかしおだてられた程度で、俺が優しくしてやってた程度で、自分がこの娼館の主だと勘違いしたか?」
口角の上がっていたヒョードルの口は、いつの間にか吹き出しそうな怒りを抑えるように歪み、犬歯をむき出しにして震えていた。
サハウェイの手は包み紙を摘んだまま止まっていた。
「……開けろ」
生唾を飲み込んでサハウェイが震える指で包み紙を開ける。
包み紙の中から現れたのは、切断された耳や鼻、そして男性性器だった。
か細い悲鳴を上げて手を離しそうになるハサウェイだったが、ヒョードルがその手首を抑えた。
「俺の宝物に手を出した不届きなモノだ。貧乏百姓から拾ってやったのに、その恩を忘れやがった。あ の ク ソ ガ キ め」
「あ……あ……。」
「誰だろうと、俺の物を奪う奴は許さん。俺が奪うのはいい。だが奪われるのは我慢ならん。奪うのならそいつの命ごと奪い取ってやる、例えそれがお前だろうとな……。」
サハウェイは
「お前の体も、骨の髄も、人生も、血の一滴に至るまで俺のものだ。……覚えておけ」
ヒョードルはサハウェイの髪を鷲掴みにする。
「わ゛がっだ゛な゛ら゛べん゛じ゛を゛じ゛ろ゛」
「……は……はい」
ヒョードルは髪を掴んだ状態からサハウェイをベッドに叩きつけると、「二度と妙な気を起こすな」と言い残し部屋を出ていった。
サハウェイは箱を落とすと、床に倒れこんで泣き声を上げ続けた。さめざめしい雨のような声が部屋に響いていた。
その後、ヒョードルは薬師を連れサハウェイの部屋に再び訪れた。薬師は怪しげな真っ黒い頭巾で顔を覆っていた。それは調剤の実験の失敗でただれた顔を隠すためのものだった。
ヒョードルは薬師が用意した丸薬を何の説明もなく飲むように命令する。
「……大丈夫だ。毒じゃあない」
もはや抵抗することは無意味だと悟ったサハウェイは、言われるままにその丸薬を飲み込んだ。
薬を飲んでからまもなく、サハウェイは激しい腹痛に見舞われた。ベッドの上でのたうちまわるそんなサハウェイを、ヒョードルと薬師は感情のない顔で眺め続けていた。
ヒョードルが薬師に耳打ちする。「大丈夫なんだろうな?」
「比較的安全な薬です。しかし、何事にも絶対はありません。処方する前に申しましたが、万が一というのは起こりうるものです」薬師の声は、顔と同じく実験の後遺症で焼け
「その為にお前を呼んだんだぞ」
「心得ております。緊急時に飲ませる薬もまた用意してありますが──」
サハウェイが苦痛で叫び声を上げた。
「それでも、もしもの事は了承の上で私をお呼びになったのだと……。」
「黙れ! コイツがおっ死んじまったら、お前も薬の実験台で殺してやる!」
「そんな……。」
叫ぶというよりも、喚くようにサハウェイが声を上げるようになった頃、彼女の肌着の股の部分が赤く血に染まり始めた。
「……呼べ」
ヒョードルに命令されて薬師は部屋を出ていき、そしてすぐに産婆を連れて戻って来た。
「……仕事だ」
入室した産婆は、状況を見るなり首を振った。
「まったく……ヒョードルさんも酷いことなさいます……。」
「うるさい! 金払ってんだっ。とっとと仕事にかかれ!」
ため息をついて産婆はサハウェイの隣に中座し、何事かを呟いた。サハウェイは汗と涙でベショベショになった顔でそれに頷く。
それから数時間、四人入れば足の踏み場もなくなる狭い部屋で、女ふたりの命を賭した戦いが続いていた。
産婆の働きもあって、サハウェイ自身は命を落とすことなくお産を終えた。死産だった。もとい、そのための薬だった。
命を削るようなお産のせいで、意識が朦朧としていたサハウェイは天井を眺めながらヒョードルたちの会話を聞いていた。
──残念ですが、一命はとりとめましたが……この体ではもう子供は……。
──好都合だ
──なんと酷い……。私はもうこれで引き上げます。もう二度とこんなことには呼ばないでくださいな。子供を殺すのは私らの仕事じゃあありません
全員が去った後、サハウェイは人生で最後から二番目の涙を流した。
「ごめんね……。」
泣き顔も作らず、声も掠れず、涙だけが流れていた。
「ごめん……。貴方のくれたもの……何も残せなかった……。」
サハウェイは体力の残っていない全身を震わせ、声なき声で咆吼した。憎しみも洗い去るほどに涙を流し続けた。やがて悲しみの果て、怒りの果て、そして憎しみの果てに、サハウェイの心は彼女の肌のように真っ白に凍りついていた。
娼館の小さな一室で、ふたりの愛の結晶は失われた。
代わりに産声を上げたのは、吹雪を内に秘めた怪物だった。
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