scene56,ジュナタル
「アリア! アリア!」
少年のモーリスは花畑を走っていた。視線の先には初恋の相手がいた。
とても清々しい気分だった。天蓋には雲一つなく、サファイアのような蒼穹が広がり、足元には宝石をちりばめたかのような色とりどりの花が咲いている。そんな場所をモーリスは夢中で走っていた。まるで、すべてのしがらみから解き放たれたかのような、そんな心の自由があった。彼は今生まれて初めて自由に走っていたのかもしれない。それこそ、彼が敬愛するジョン・スカーレットが人生の最後に本当の自由を謳歌したかの如く。
花を巻き上げながらモーリスはアリアに追いついた。暑いような寒いような不思議な雰囲気の中、モーリスは全力で走っていたというのに汗ひとつかいてなかった。
「アリア! また会えたね! ずっと会いたかったんだよ!」
しかしモーリスが声をかけているのにアリアは振り向かない。
「……どうしたのアリア?」
「……フィリップ?」と、アリアが背を向けたままで言う。
「なぁに、アリア? こっちを向いてよ」
アリアが首だけ振り向いた。背の低いモーリスには伺いにくい表情だった。
「ずいぶん、遠くまで来てしまったわね……。」
「遠くまで? そりゃあそうかもしれないけれど、でもこれからはずっと一緒にいれるよ!」
「残念だけどフィリップ、それはできないの。……ごめんなさい」
そういってアリアはまた背を向けて歩き出してしまった。
「ちょ、アリア、待ってよ!」
追いかけようとするモーリスの足に何かが絡まった。花畑だというのに泥沼に生えるツタに足を取られたようだった。
「あれ?」足元を見たモーリスが悲鳴を上げる。「う、うわぁ!」
それはツタではなく、血まみれの内臓だった。そしてモーリスが尻もちをついた途端、花畑は一瞬にして消え去り、周囲は内臓が散らばった血の池の地獄に変わっていた。
モーリスは急いで立ち上がろうとするが、足に内臓が絡まり立ち上がる事が出来ない。
「アリア! 助けてアリア!」
去っていくアリアに必死にモーリスは声をかけるが、アリアは振り向きもせずに彼から離れていく。
「待ってよ! 置いてかないで!」
モーリスは肘を立て這いずってアリアに追いすがろうとするが、そんなモーリスの足首を何かが掴んだ。
モーリスが振り向くと、そこには父・エミールの姿があった。エミールは眼球の無い
「ち、父上!」
エミールは笑っていた。その口角は耳まで裂け、口の中はがらんどうのように空っぽで、さらにその奥には果てしない闇が広がっていた。
「息子よ、待っていたぞ……。さぁ共に行こう、不滅の時を」
「う、うわぁああああ!」
気がつくと、モーリスは元の河原にいた。正面には何かを話しているクロウとケリーの姿があった。
モーリスは下腹部を見る。やはり内臓は飛び出たままだった。
モーリスは内臓を戻そうと手でかき集め腹の中に押し込むが、内臓は再び音を立てて腹から飛び出した。
モーリスは空を見上げた。空にはうろこ雲がうっすらと広がっていた。頬を撫でる風が冷たかった。もうすぐ冬が来るのだろう。
「……アリア」
そう呟いて、モーリスは息絶えた。
何とか馬に乗れるほどに回復したケリーが言う。
「これから……地元の役所に行って応援を呼ぶわ……。」
「そうか……。」
「この体だから……戻ってくるのはすごく時間がかかると思うの。途中休みながら……。だから……。」
「分かったよ、ありがとう。さっきはきつい事を言ってすまなかったね。嫌味抜きでお前さんは大した役人だよ、本当さ」
ケリーは小さく頷くと、手綱を振るい馬を歩かせた。
そうは言われたものの、クロウはケリーに与えられた時間がそんなに長くない事を分かっていた。クロウはラガモルフの男に訊ねる。
「助かったよ。しかし驚いた、ここにはラガモルフはいないと聞いていたんだが?」
「そうなのか」と、ラガモルフの男が言う。
「どういう意味だ?」
「俺たちはここの住人じゃない。前にいたところがマナを失って住めなくなってね、新天地を探してたんだ」
「そう……なのか……。」
「それで、仲間と話したんだが、ここにはラガモルフはいないらしいがとても住みやすそうなんで、ここに俺たちの集落を作ることにしたんだ」
「じゃあ……。」
「ああ、これからここが俺たちの故郷になるのさ」
クロウは妙におかしな気分になり、疲れも相まって筋肉の緩んだ顔で微笑んだ。
「ところで、この土地には何か名前があるのかい?」
「え? 名前?」
「ああ、無いならそれでいいんだが──」
「ジュナタル」
そう言ったのはマテルだった。
「え?」
「ジュナタルだよ……ラガモルフの古い言葉で“過去のない場所”って意味なんだ」マテルの声がかすれていた。「父さんが……教えてくれたんだ」
「……“ジュナタル”、良い名前じゃないか」
それを聞いていた別のラガモルフも“ジュナタル”と口にし、ひとりひとりがこの新天地の名を口にした。
「よぉし、じゃあ俺たちはこのジュナタルに新しいラガモルフの故郷を作ろうっ」
マテルはジュナタルの名を口にする同族たちを見ながら、クロウに抱き着いて声を出さずに泣いていた。しかし幼子の涙の意味を知る者は誰もいなかった。
すべては虚構だった。しかし、真実だった。すべてが終わった絶望の果てに、新しい希望があった。そしてそれが、この旅の結末だった。
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