scene㊼,リマッチ
ダニエルズ家の別荘に戻った四人は各々の部屋で夜を過ごしていた。ケリーは就寝の準備を、マテルは既に寝つき、クロウは台所から火酒を拝借して晩酌をしていた。そして今夜も、クロウの耳は訓練所の方からの音を聞きつけた。
「……今日は防具をつけるのだな」
防具のあご紐を結びながらネスが言う。「父上もお願いします」
「私は必要ない」
「いえ……。」ネスは父をまっすぐに見て言う。「そうでなければ、私も存分に打ち込めません」
ギルも息子を見返す。そして少し沈黙したあと、「……そうか」と防具を着用した。
リングの中央に立つふたり。クロウは吹き抜けになってる上の階からふたりの様子を伺っていた。
ふたりが構える。ギルは昨日と同じ構えだったが、ネスは昨日とは逆の左構えになっていた。
怪訝な顔で自分を見るギルにネスが口角を上げて言う。「間違いじゃあありませんよ、父上」
無言で踏み出すギル。
右のジャブで押し返すネス。昨日とは違い、思い切りのあるネスのジャブはより正確にギルの頭部を捉えた。また、利き手を利用した突きの為、より圧力をもってギルを押し出し返す事も出来ていた。
しかし、それでもギルはじわりじわりと間合いを詰めてくる。そんなギルに、ネスは突きどころか掌で押し返すように父の頭を押さえた。そして闘牛士のように軽やかに身を翻し、ロープを背負わないように立ち回る。さらにネスの構えはいつの間にか左構えから右構えに変わっていたせいでギルは目測を誤り、さらにネスの小刻みなジャブと右のボディを喰らう羽目になっていた。そんなこれまでとは違うネスの立ち回りに、ギルは中々間合いを詰める事が出来ないようだった。
──思った通りだな……。
階上で見守るクロウが思う。昼間ネスにアドバイスした立ち回りにこの左構えがあった。ギルは姿勢が低いために、主に相手の下半身を見ながら間合いを測っている。そのため、相手が構えを変えると足の位置が変わり、距離感を上手くつかむ事が出来ないのだ。
しかしそこは歴戦の戦士、最初は難儀していたものの、すぐにギルはネスの動きに対応し始めた。そして昨日と同じく、次第にネスはロープを背負わざる得なくなっていた。
上半身を振りながらのギルの強烈な左右のフック。例え当たらずとも、十分な圧力のあるパンチだった。振り回すだけでネスは追い詰められ、防御の上からでも体を吹き飛ばされ、とうとうロープ際に追い詰められた。
──今だ
ネスはいつもの構えに戻った。左手を前に出し、右手を自分の顎に、前に出た左足に重心を置く構え。
そしてネスは苦し紛れのような左、左、右、と基本の攻撃を繰り出した。右を打つ瞬間、いつも以上に左手を下げながら。
──待ちに待った息子の馴染みの癖。散々じらされた後、この餌に食いつかずにいられるか?
ギルは右のフックを繰り出す。防具がある事を見越しての、確実に相手を仕止める一撃だった。
だがネスは上半身を反らし、そのギルの右拳を避けながら、左のフックを繰り出した。ギルの筋肉の伸びきった右のわき腹に、ネスの拳が突き刺さった。
「ぐぅっ」
小さく呻いて、ギルは膝を付く勢いで体を丸めこんだ。会心のカウンターで呼吸ができず、動くこともままならないようだった。
ネスは自分のやったことに自分自身でも信じられないように驚き、父の脇腹に刺さった左拳をしばらく見ていた。そして我に返り父に語りかける。
「……父上、王たる者、肚は鍛えておかなければなりませんよ」
ネスは、父の返事のような呻き声を聞いた気がした。
だが次の瞬間、ギルは肺に残されたほんのわずかな空気で体中の筋肉を駆動させ、ネスの腹にボディアッパーを叩き込んだ。
「ごぶぁあ!!」
ネスの体が、ゴブリンの顎を砕くギルの拳で浮かび上がり、そしてネスは両膝と顔面を同時に床にぶつけて倒れ込んだ。
「……王たる者、敵の息が続く限り油断をしてはならん」
ギルは倒れているネスをしばらく見ていた。声をかけようか肩に手を置こうか迷っているギルの様子に、クロウは不器用な親なのだなと苦笑いをする。
「……お前を初めて男だと、私の前に立ちはだかる敵だと思った。私に恐怖を与える、打ち砕くべき敵だとな……。」
結局出てきたのは、相変わらずの重々しい言葉だった。ギルは体を冷やすなよ、と言い残して訓練場を去って行った。
ギルが去った後、クロウは階下に降りてネスの元へ行った。
「……大丈夫か王子様?」
「か……ふぅ」
立ち上がれないネスにクロウが手を貸そうとすると、ネスは手を振ってそれを拒否した。
「お……王たる者……立つ時は、独りで立たなければ……。」
ネスはロープを掴んで何とか一人で立ち上がった。
「……無理をするなよ」
「……見たか?」
「え?」
「あの親父に一発打ち込んでやったぞ」口を涎で光らせながらネスが得意げに笑った。
クロウも微笑んだ。「ああ、大したもんだ。最後に油断しなければ合格点だったがね」
「手厳しいね……。」
ネスは足をよろめかせながらロープから手を離し、足を引きずり自分の部屋に戻って行った。孤独で、しかし頼もしいその後ろ姿に、クロウは未来の王の背中を見た気がした。
クロウは酒の残りを飲もうと台所に戻った。しかし台所の前のダイニングには、ひとりで晩酌をしているギルの姿があった。ギルは息子の成長を目の当たりにした喜びと、若輩者に不覚を取った悔しさを押さえ込みながら、無理に造った無表情で杯を傾けていた。
「失礼しましたダニエルズ侯、改めます」
クロウは酒を飲むのをやめ部屋に戻ろうとするが、ギルがそれを引きとめる。「よい、飲みに来たのだろう」
「畏れ多くも、ダニエルズ侯の御前で酒を飲むなど」
「私が構わんと言っている」
うんざりするほど重い男だった。この男の子供でないことを心底クロウは改めて感謝した。
クロウが台所に行こうとすると、またギルが言う。
「酒ならここにある」
クロウはギルと同じテーブルに座らざるを得なくなった。
席に着く前に、クロウは酒瓶を取りギルに酌をしようとする。だが、ギルは杯の飲み口に手を添えた。結構、という意味だ。
クロウは自分の杯に酒を注いだ。そして一口、二口、と飲んだが、やはり旨くなかった。それどころか息が詰まりそうになっていた。
静寂を破ったのはギルだった。
「あれはお前の入れ知恵か?」
クロウはギルを見る。
「息子のあの戦法、お前が口を出したのだろう」
「……ええ、その通りです、閣下」
ギルは杯を上げ酒を飲み、しばらく口の中で酒の味を楽しみながら沈黙してからクロウに問いかけた。
「……愚息をどう思う?」
ギルはクロウをじっと見る。追い詰められた獣のように、クロウは目をそらす事が出来なかった。
「どう、と申されますと?」
「世間での評判を知っておろう。女とみれば、誰彼かまわず声をかけ手を出す“腰砕け”だとな」
「……ダニエルズ侯、確かにそういう噂も耳にします。しかし、私はこうも思うのです。あの方は種族身分問わず、価値のある者に心惹かれるのだと」
ギルは表情を変えずに鼻で笑った。「ふん、物は言いようだな」
「畏れながら閣下、私は諸国を放浪する中、多くの貴族を見てきました。中には身分が違うというだけで、種族が違うというだけで全く見向きをしない貴族もいます。言葉などなおさら顧みることはありません。しかし、ネス様はこんな下賤の私の意見に耳を傾け、そしてそれに意味があると分かれば即座に実行に移しました。結果は訓練所で見た通りです」
ギルが大きく呼吸をした。表情は険しく、口は軽く曲げられていた。
「それに……昼間狩りに出かけた際、私は分を弁えずネス様に率直に意見を申してしまいました。しかし、あの方はそんな私の言葉でも機嫌を損ねることなく、民の言葉として聞き入れてくださいました。……ダニエルズ侯、長くこの国を平和に治めた閣下からすれば、御子息は未熟に見えるかもしれません。しかし、ネス様は曇りなき瞳で物を見る、支配者としての資質を十分に携えた方です。ネス様はネス様なりに法の下の平等を実現できるのではと」
「法の下の平等、か。本来、征服民族である我らが支配の正当性を得るために作り出した方便のようなものだ。だが、理念は理念、我々はそれを拠りどころに生きてきた」
ギルは残った杯の酒を一気に飲み干した。
「……息子の才能は親である私が一番良く知っている。確かに、奴は自分の名も知らぬ民を愛することができる男だ。強い光を持っているといっていい。しかし、その光が失われることもある」
「失われる……とは?」
「私は息子に学士院で法学を修めるよう忠告した。だが、奴はそれに反発して刑部での職に就いた。私が危険な仕事に自分を着かせたくないという親心を働かせたと思ったのだ。だが違う。私が懸念したのは、罪を犯す民を見続けることで、奴から民を愛する心が失われ、猜疑心から民を管理すべきものだと考えるようになってしまうことだ。……私のようにな」
「しかし、そればかりは経験してみない事には……。」
「歩き方を覚える前から走り出せばどうなるか、結果は分かりきってる」
「怪我をして覚えることもあります。若さとはそういうものです」
「あるいは戦士なら、もしくは商売人ならばそれで良い。転んだ時に流れるのは己の血か金だ。だが、王が転ぶ時はそうはいかん。流れるのは民の血なのだ」
クロウは返答に困った。国を治める人間の悩みになど、一体誰が適切な助言を与える事が出来るだろうか。
「閣下……もう少しご子息を信じてはいかがでしょうか、としか言いようがありません」
ギルは杯を見た。中身は既に空だった。
「……少し、飲み過ぎたようだな。私はもう寝る」
ギルは立ち上がり、ダイニングから去って行った。
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