scene㊺,狩り

 翌朝、クロウはリハビリのため松葉杖をついて庭を歩いて回っていた。

 屋敷の角の向こうから薪を切る音がしたのでそちらへ向かうと、そこでは上半身裸のギルが斧を振るい薪を叩き割っている最中だった。

 斧を振り上げ、そして振り下ろして薪を叩き割る度に、ギルの背筋が生き物のように大きくうねった。初老とは思えないたくましい体だった。ヘルメスの老剣士・ウォレスも屈強な体だったが、いびつなウォレスとは違い、ギルの体の筋肉のつき方はバランスが良かった。先の大戦では剣の戦いが少なくなったとはいえ、流石は戦士の一族。ネスでなくともこの男と正面から対峙するのは気が滅入るだろうとクロウは思った。

「……誰だ」

 ギルが振り向いた。

「おはようございます、ダニエルズ侯」クロウがうやうやしくお辞儀をする。

 ギルが首にかけた手ぬぐいで顔の汗を拭う。「お前は……。」

「精が出ますが……召使に任せないのですか?」

「なに、鍛錬の一環だ。やってみると中々具合が良い。剣だけではない、闘争に必要な筋肉が鍛えられる」

「……私の剣の師匠も、初めは私に薪割りを命じたものです」

「ほう……。」

 ギルの顔が少し柔らかくなった。こと、リザードマンの国にいたクロウにとっては、この国の人間は例え堅物であろうとも表情が豊かに見えた。

「ただ、師匠には敢えて刃が落ちた斧を渡されましたが」

「それで……薪が割れるのか?」と、興味深そうにギルが訊ねる。

「力ではなく速さ、刃の入れ方、それに薪の目を読めば、なまくらの斧でも薪を切れるものです」

「……誰に教わったのだ?」

「遠く、遥か東の国で……。」

「なるほど……あちらの国は、我々とは違う武術を持っていると聞く。ひとつ、お手並みを拝見といきたいところだが……。」

 クロウは杖をつく自分の体を広げて見せた。「この体では……。」

「そうだな……。」

 そこへネスがやってきた。

「父上っ。そのようなことは召使に……。」

「……最初から説明せねばならんか」

「え?」


 昼前にクロウとマテルはネスたちと一緒に狩りへと出かけた。

 後ろについてくるふたりに聞こえないようにケリーがネスに訊ねる。「何故あのふたりも?」

「ふたりきりが良かったかい?」

 ケリーがシラけたように睨んだ。

「なぁに、言ったろ? 俺の魅力を見せると」

 相変わらずのネスにため息をつくケリーだったが、それは呆れだけではなく苛立ちもあった。ネスは中々に食えない男だった。軽々しいようでも、その行動の裏にはいつも何かしらの意図があった。しかし、それを簡単に打ち明ける男でもない。最後には分かるので黙って見ていろということなのだろうが、彼の場合、効果を狙うというよりも、ただのイタズラ心に近いものがあった。

 ネスはクロウたちの方を振り向いて言う。「昨日は鳥だったが、今日は鹿を獲ろうともってね」

 クロウと馬に同乗するマテルが顔を上げて訊く。「鹿……? 殺しちゃうの?」

「まぁ……狩りだからね」と、ネスが気まずそうに答える。

「ネス様、やはり子供を連れて行くのは……。」と、心配したケリーが言う。

 クロウが言う。「どちらにせよ私はこの体だ。山に入ったら着いていくのは難しい。この子と獲物が獲れるのを待ってるよ」

 ケリーはネスの顔を伺った。ネスは特に何の感想もない顔をしていた。

 その後、森の前の原っぱまでやってくると、一行はシートを広げ狩りの前の昼食をとった。ネスとケリーは、バスケットにいれたハムとチーズのサンドウィッチとゆで卵、ソーセージ、リンゴを取り出し、そして瓶の葡萄酒を用意した。

 流石は貴族様、野外の昼飯一つにしても豪勢だ、と感心しながらクロウは並べられた食事を見る。マテルはいつものように、嬉しそうにその場を飛び跳ねていた。

 食事が終わるとクロウとマテルは森の前の原っぱで待機をし、ネスとケリーは森へ入って行った。

 森に入りクロウたちの姿が見えなくなってから、ケリーがネスに気になっている事を質問する。「ネス様……。」

 前を歩くネスが言う。「何だい?」

「あの怪我です。彼女が狩りには付き合えないことは分かっておられたのでは?」

「まぁ……そうだな」

「ではどうして? しかも彼らを置いて行くなんてっ」

「逃げると思ってるのかい?」

「え?」

「彼女は俺が役人だって知ってる。もし彼女が逃亡犯なら、この機に逃げようと思うだろうね。おあつらえ向きに馬があるんだから」

「分かりません。全てを承知の上でなぜそんなことを?」

「さぁてね……賭けてみないかい?」

「賭け、ですか?」

「俺たちが戻ってきた時に、彼女たちがまだあそこで待ってるかどうか、だよ」

「ネス様は彼女が待ってるとお思いなんですか?」

「待ってるかもしれないし、逃げてるかもしれないな」

 ケリーは腹立たしげにため息をついた。「何が楽しいんですか? 逃げられたらどうなさるおつもりです?」

「別に、元々出会う予定のなかった客だ。いなくなったらいなくなったらさ」ネスはケリーの方を振り向いた。「それにケリー、君は賭けの妙味ってもんが分かってないよ。大事なのは勝つか負けるかじゃない、素敵な結果を思い描いて楽しむことさ。あくまで賭け金はそれを盛り上げる材料なんだ」

「分かりたくもありません……。」

 ネスは突然立ち止まり、口を人差し指で抑えた。ネスの視線の方向には傷が付けられた木があった。鹿の縄張りを見つけたようだ。

 ネスは背中にかけていたクロスボウをケリーに差し出す。「やるかい?」

「私は結構です」

「最近のクロスボウは改良が進んでるんだぜ? ラガモルフでも弦が引けるくらいにね」

「そういう問題じゃありません。が好きになれないだけです」

 ケリーに微笑んでいたネスだったが、奥に進むにつれて笑顔が消えていった。動きは慎重に、呼吸すらも小さく一定のリズムを崩さないよう気を配っていた。そして遠くの高所を見つめ目を細めると、腰の矢筒からの矢を取り出し、静かに弓を引いて構えた。

 ケリーがネスの視線の先を追う。しばらくネスが何を見ているのか分からなかったが、目を凝らすとそこには草を喰んでいる一頭の牡鹿の姿があった。風景に溶け込んでいたらしい。

 遠い上に、ケリーが知る限りネスの矢には毒などは塗っていないはずだった。果たして仕留めることができるのだろうか。ケリーは鹿の苦しみを思うと胸が痛んだ。そして、マテルを連れてこなかったのは正解だったなとも思った。

 ネスはまだ弓を最大限に引いていなかった。鹿がさらに接近するのを待つつもりなのだ。鹿の方が高所にいるために、臭いが届いていないようで、鹿はまだネスたちに気づいていない。

 ネスが振り向かずに囁く。「……鹿は足音には鈍感だ。他の生き物も足音を立てるから。だが、自然界にない音には敏感でね。弓を引く音とか……。」

 ネスはゆっくりと、音がしないように弓を引いた。ゆっくりと引くにも弦の状態を維持するにもかなりの筋力がいるはずだったが、ネスの腕は微動だにしていない。

 鹿が少しづつふたりに近づいてきた。ネスの背中が無言の圧力で、ケリーに身を潜め動きを止めるように迫る。ケリーはほとんど息を止めているような僅かな呼吸に専念した。

 鹿が弓の間合いに入ると、ネスの目から一切の表情が消えた。

──コホン

 ネスが甲高い咳をする。草を喰んでいた鹿が反応して顔を上げ身を翻そうと体の向きを変えた。

 その瞬間、ネスが矢を放った。

 矢は、鹿の左の前足の少し上の所に刺さった。心臓だった。

 鹿は背を猫のように曲げて飛び跳ねると、その場から駆け出しネスから逃げようとする。しかし、数メートル走ったところで立ち止まり、崩れるようにしてその場に倒れた。

 ネスは全く表情を変えずに立ち上がり、鹿の方へと歩いて行った。そしてしばらく鹿を見ると、矢を抜いて膝まづき、小さく祈りを捧げた。

「……苦しんだんでしょうか」と、ネスに追いついたケリーが言う。

「心臓を射った。苦しんだとしても一瞬だ……。」

 ケリーがそうですか、と安心したように呟いた。

「だが、苦しめなかった何てのは狩る側の欺瞞だがね。鹿が死んだことには変わりない……。」

「……私はそうは思いません」

「そうかい?」

「例え欺瞞であっても、人の苦しみを慮ることには意味があります。やがてネス様がこの国を統治するならば尚更に。人の苦しみを知らずに剣を振るう王になど、民はついていきません」

 ネスはケリーに振り向いて微笑んだ。微笑んでいたが、取り繕うような空疎な笑顔だった。


 ネスは鹿を背負い山の下の村に下りていった。その村は獣害に悩まされており、ネスはささやかな手伝いとして鹿を狩っていたのだった。獲物の鹿を村の住人に渡すと、ふたりは馬を待たせてある原っぱまで戻って行った。

「おお、お帰り。思ったより早かったんだな。日が暮れるかと思ったよ」

 クロウたちはまだ原っぱにいた。マテルと草花で冠を作ったり人形を作ったりして暇つぶしをしていたようだった。ケリーは少し驚いてネスを見る。

「ねぇ、鹿はどうしたの?」とマテルが訊ねる。

 クロウがマテルの耳元で囁く。「マテル、あんまりそういうことを訊くのは良くない。鹿がいないということは、獲れなかったって事だ」

「……鹿は獲れたさ」

 ネスは馬に吊るしてある、鹿の後ろ足を指差した。

「あれぇ、足だけ?」不思議そうにマテルが言う。

 クロウが皮肉めいた笑いを浮かべる。「不思議だな、足が木に生ってるわけはないのに」

「下の村に分け与えたんだよ……。」

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