scene㊵,天使様
──クロウがジュナタルへ出発して二日目の夜。
「雨が降りそうだな。今晩の事を考えないと……。」
日が沈み始めた空を見上げクロウが言う。
秋の空は急に変わる。普段なら雨でも野宿をするクロウだったが、今は状況が違った。
「楽しみだなぁ、昨日はクロウと一緒にお外で寝たときはキャンプみたいだったから」と、クロウの前でロバにまたがるマテルが言った。
健気なマテルの頭を撫でるクロウ。しかし本人がそう言っても、幼子の体力を考えるならば雨をきちんと凌げる場所を探したかった。
ロバをやや早足で歩かせてしばらくすると、クロウは山あいに小さな村落を見つけた。
クロウは山を下って村に入り、周囲を見渡し村の様子を観察した。
村には三つのタイプがある。一つは古くからその土地に住まう人々が作る村で、長い間住んでいた愛着があるため、村の由来が失われた後でもそこに人々が住み続ける。二つ目は林業や農業など、その土地での仕事のために人が集まり形成される村落で、一つ目とほぼ同じだが、こちらの場合は土地に愛着がないので仕事がなくなると直ぐに住民が別の場所へ住処を移す。そしてもう一つが、何らかの理由で都市部に住めなくなった人々が、居住場所を求めて集まった場所だ。この場合、村人に逃亡中か、もしくは前科持ちの犯罪者が多いので注意しなければならなかった。さらに悪い場合は犯罪組織と繋がりがあることもある。交通の便も悪く、特に目だった産業のない集落にはこの傾向があった。
クロウは酒場を見つけると、ロバを杭にくくりつけ中に入った。その隣にはサラブレッド馬の三頭立ての馬車が停車していた。裕福な行商人が立ち寄っているらしい。
クロウが入ると、一斉に客と店員が彼女を見た。辺境の狭い村のため、よそ者が人目をつくのは仕方のないことだった。
クロウはカウンターに座ると、不審にこちらを見てくる女店主に酒とミルクを注文した。初老の女店主は無言で酒とミルクをクロウとマテルの前に差し出した。
クロウが訊ねる。「マダム、お伺いしたいことがあるんだが……。」
「何だい?」
内容を聞く前からうんざりしたように女店主は答える。煙草と酒のやりすぎなのか、酒やけしてドスの効いた声だった。年齢も初老ではあるが、一見すると年齢上に老けて見えるところもあった。
「この村で屋根を借りれるところはあるかい? 旅籠屋があれば助かるんだが……。」
「はぁ? こんなへんぴな村に、そんなところあるわきゃないだろう?」
「……そうか。では部屋を貸してくれそうなところは──」
「よそ者かい。それ飲んだらとっとと出て行きな」
クロウは口を歪めて小さく頷きグラスを持ち上げた。後ろでは、通りすがりの商人の一団が酒盛りで盛り上がっていた。
「黄金色の相談をしてくれるなら、こちらも顔色を変えるところだがね」
店主はそう言ってキセルに火をつけた。煙草ではない臭いがした。老けて見えるのはこれのせいだろう。
「ねぇ、おねえさん」両手でグラスを持つマテルが言う。
「……もしかして私のことかい?」
マテルはふふふと微笑んで言う。「他にいないでしょ?」
店主の表情が少しほころんだ。「何だい坊や? ミルクが美味しいのかい?」
しかしマテルは首を振った。店主の顔が真顔になった。
「悪かったね」
「だって僕、ミルクを頼んだはずなのに、おねえさんお酒を入れたでしょ?」
「そんなことあるわけないだろう。なぜそんなことを言うんだい?」
「え~おかしいなぁ。僕、おねえさんを見てるとクラクラするんだ。酒場でおじさんたちが言ってたよ、大人は好きになって欲しい人の飲み物に、こっそりお酒を入れるって」
店主は唖然としてマテルを見てからクロウに視線をやった。クロウは無言で目をそらす。
店主はカウンターから前のめりにマテルに迫った。「驚いた子だね。お前さん、こんなババアを口説いてどうしようってのかい? 何が目的だい? お菓子が欲しいのかね?」
「うううん。だって天使様を大切にするのは当たり前のことでしょ?」
「天使? このババアがお前さんには天使に見えるのかい」
「父さんが本で読み聞かせてくれたんだよ。女の人は皆生まれる前は天国の天使だったんだって。でも、地上にいる間はそれを忘れちゃうんだ。だからね、女の人は歳に関係なく天使なんだよ」マテルは「知らなかった?」と、微笑んだ。
店主は最初は静かに笑っていたが、やがて堪えきれなくなり声を出して笑い、ハンカチで涙を拭った。
「大した坊やだ。末恐ろしいよ」店主はクロウを見た。「アンタの連れかい?」
「ああ、まぁ……。」
「この店の斜向かいに、二階建ての建物があったろう。あそこがこの村唯一の旅籠屋さ。ただ、廃業してるはずだよ。店主がヤク中でね。まぁ、この坊や連れて頭下げりゃあ、煙で曇った奴の頭でも情が湧くかもね」
「ありがとうおねえさんっ」
店主はどういたしまして、と手を軽く振った。
ふたりが旅籠屋に入ると、そこはやはり酒場の店主の言うように廃業しているらしく、人気がなかった。
「失礼っ、誰かいないかい? 宿を借りたいんだがっ」
クロウは声を上げて室内の奥まで声をかけたが、返事が全くなかった。
「おーいっ、誰か……。」
「何の用だ?」
旅籠屋の主人と思しき男は建物の奥からではなく、外から入ってきた。酒を飲んだ帰りらしく、目は充血し吐息は酒臭かった。しかし、クロウの鼻は主人の吐く息から酒以外の臭いを嗅ぎとった。
「表の看板……見えなかったか?」
「あ、ああ? そこに旅籠屋と書いてあったから来たんだ……。」
「あんなボロの看板で営業してるわけねぇだろって事だよ。帰れっ」
主人は、まったくよぉとぶつくさ言いながら部屋の奥へ行こうとした。
「ちょっと待ってくれ。空いてるなら部屋の一つでも貸してくれないか? 子供連れで雨に降られて難儀してるんだ」
「ああ? 知ったこっちゃあねぇよ」
そして主人は部屋の奥へ入っていった。
クロウは仕方なく、村にあった廃屋を見つけ、そこで一夜を過ごすことにした。
クロウが建物の隅で寝床を整えると、ちょうど雨が降り始めた。かなり強い雨で、屋根が破れているあばら家だったせいで雨漏りがひどかった。雨漏りが室内の水たまりに落ち、ピチョリピチョリと音を立てる。うるさいのでクロウは水たまりの上に木材を置いて音を消した。
「しばらくの辛抱だ。屋根があるところで寝れるだけ感謝しよう」
ふたりは毛布に包まり身を寄せ合って体を温めた。
「眠れそうかい?」
「うん……大丈夫──」
すると突然、雷が鳴った。耳が敏感なクロウの体がこわばった。
「……近いな」
「クロウ、びっくりした?」
「ん? ああ少しね」
「ふふふ、クロウの体ビクってなってたよ」
「雷が平気な奴は勇敢なんじゃない、鈍感なんだ。平気なフリをしたって誰も褒めやしないぞ」
「うん……じゃあ僕、正直に言うね」
「……どうした?」
クロウは濡れたマテルのズボンを豪雨で洗った。ふと斜向かいの酒場を見ると、遠方から来たらしい客たちが入店していた。この村は行商の中継地点という訳でもなさそうだったし、仮にそうだとしたら、旅籠屋が廃業しているというのも妙だった。クロウはマテルのズボンを洗い終わると、彼らに見つからぬよう陰に隠れながらマテルのもとへ戻った。
クロウたちが身を寄せ合ってしばらくすると、誰かが声をかけてきた。
──誰だ?
刀に手を伸ばすクロウだったが、声の主は旅籠屋の主人だった。
「おお、もう寝てしまってかい?」
主人の声はさっきとうって変わって朗らかだった。ただし、不自然なほどに。
「……何か用かい?」
「いやぁ、さっきは酒に酔って不機嫌だったが、よくよく考えたら子供連れのレディを追い払うのはちと悪いことをしたなと思ってね。掃除をしてない汚い部屋だが一応空いてるんだ。こんな雨漏りのする所より良いだろう。どうだね?」
普段なら胡散臭さから断るクロウだったが、今日は事情が違っていた。不審に思いながらも主人の誘いを受けることにした。
確かに、案内された部屋は長いこと掃除をされていないようなところだった。しかし、雨をしのげるに越したことはない。クロウはベッドの埃を払うとそこにマテルを寝かせた。マテルはすぐに寝付いたが、クロウは主人の様子が気になり壁を背中にしてあぐらの状態で浅い睡眠をとることにした。
ふたりが寝始めて半刻ほど過ぎたところで、クロウの猫耳が意志を持ったかのようにピクリと動いた。クロウは目を覚まし、用心深く窓際から体を隠すように外を見た。
外では数人の男たちが旅籠屋を取り囲んでいた。旅籠屋の主人が男たちを案内している。どうやら悪い予感が当たったようだ。ここの住人たちはヤクの売人たちと繋がっている、ならず者の集団だった。
「……クソ」
クロウはマテルを起こす。
「……ん? どうしたの?」
マテルが目をこすりながら身を起こした。
「しー……。」
クロウが人差し指で口を抑える。
クロウが小声で言う。「今から私が下に降りると大きな音がする。そして……その音を聞いて外にいる男たちが全員旅籠屋に入ったら、屋根伝いに下に降りて酒場の前に停まっている三頭だての馬車に乗り込むんだ。気づかれないようこっそりとな……。」
マテルは頷いた。
クロウはマテルの頭を撫でると、刀を取って部屋を出ていった。
しばらくすると、クロウの言うように、叫び声と物が倒れる音が下から響いてきた。
「ぐぅぁあ!」
「こぉんのやろう!」
「うぉおおおお!」
マテルが窓から外を見ると、外で待機していた男たちがクロウを仕止めるために旅籠屋に入っていくのが見えた。
マテルは窓を開けると、言われたとおりに窓から外に出て屋根伝いに下へ降りようと試みた。だが雨で足を滑らせステンと転び、さらに屋根の一部が腐食していたせいで、マテルは屋根を破って室内に落ちてしまった。マテルは天井か落下し、建物の
「うわわわわわわ!」
マテルはクロウと斬り合っている男のひとりの顔に落ちた。
「マテル!」
「あ! 何だこれ!?」突如視界を遮られた男が狼狽する。「ぐぇ!」
クロウはその隙に男の胴体を横薙ぎで切り裂いた。
「ラガモルフのガキだ! 捕まえろ!」
マテルはテーブルから食器棚に飛び移った。男の一人がそんなマテルを下から手を伸ばして捕まえようとする。マテルがその手から逃げようと食器棚の上で暴れたので、大きな鍋が棚の上から男の頭に落ちてきた。鍋は男の頭にすっぽりとはまった。
「お、おおい!? ……ぎゃぁ!」
そしてまたクロウがその男の胴を横薙ぎで切り裂く。
「クソ! ガキはまだほっとけ!」
クロウを取り囲む三人の男たち。クロウは牽制していたが、すぐにでも敵の体勢が整えば一斉に攻撃される。そうなってしまったら傷を負うのは避けられそうになかった。
その間に、マテルは外に出ようと食器棚から古びた真鍮製のシャンデリアに飛び乗った。しかし、シャンデリアはマテルの体重さえも支えきれないくらいに老朽化しており、マテルが飛び乗るや否やメシメシと音を立ててクロウたちの頭上に落下した。クロウの体はシャンデリアの隙間から綺麗に通り抜けたが、男たちは各々、シャンデリアの隙間に首や肩がはまり身動きが取れなくなってしまった。
動けない男があまりの偶然に思わず引きつった笑みを漏らして言う。「それはないんじゃない?」
クロウは微笑み返し、取り囲んでいた三人を切り伏せた。
室内の男たちを始末すると、クロウはマテルを抱きかかえて外に飛び出た。
「馬車に行けと言ったろ?」
「落ちちゃったんだよぉ」
ふたりは行商人の一団が使っていた三頭立ての馬車に乗り込んだ。クロウが手綱を振るうと、馬の鳴き声に気づいた行商人の主が酒場から飛び出してきた。
「お、お前! 何してるんだ! それはワシの馬車だぞ!」
「おお! 良い馬だね! ちょいと借りてくよ!」
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