scene①ー1,フィリップ少年

 モーリス家の夕食はいつも父・エミールと息子・フィリップの二人きりだった。モーリスの母は次男のお産の際に赤子と共に他界しており、食卓はさほど大きくもないにも関わらず、父一人子一人のためモーリスにはそこが広大に感じられた。また、エミールは亜人の女中が食事の席に同席することを快く思わず、配膳が済むと台所で待機するように命じていたため、ダイニングには二人が食事をする音だけが響いていた。

 子育てに一切かかわろうとしなかった昔気質の貴族のエミールは、妻を亡くしてからというもの、年頃の息子とどう接していいか分からず、何かを思っては息子を不機嫌そうに眺め、しかし言葉が出ずに、再び食事に手を付けることを繰り替えしていた。そしてそんな父の様子を察しているモーリスには、食事の時間が苦痛でたまらなかった。父がワインの瓶を上げるたびに、息子はこれ以上飲まないでくれとささやかに祈った。

 学校でもモーリスの居場所はなかった。音楽を好むモーリスは、周囲から女々しい奴だとあざけられ、性別確認と言いわれ下着をはぎ取られるいじめにあったり、父がアルコール依存症だという噂が狭い貴族間のコミュニティで広まってしまっていたため、いつも子供たちの輪から爪弾きにされていた。

 しかし、そんなモーリスの慰めがピアノとアリアだった。


「すごいわねぇ」

 ピアノの演奏を終えたモーリスを、ラウルフのアリアが拍手をして誉めたてた。

 モーリスは気取ったようにツンと鼻をあげ、「大したことないよ」と照れ隠しをする。

「フィリップはきっと将来はすばらしい音楽家になるわ」

 手を合わせ、アリアはうっとりとした微笑みをモーリスに向ける。

「……無理だよ」

「あらどうして?」

「父上が僕に音楽をやるなって言うんだ。あんなの貴族のやることじゃないからって……。」

「……そう。それなら、どうしてお父様は貴方にピアノを習わせたのかしら?」

「……母上が僕に教えてくれたんだ。でも……。」

 モーリスは無表情だったが、彼を良く知るアリアにはモーリスが悲しみに沈んでいるのが分かった。

「……ねぇフィリップ、私にもピアノを教えて」

 モーリスを慰めるようにアリアは隣に座った。

「あ、うん……。」

 モーリスの手の横に、白い毛でおおわれたアリアの細い指が置かれた。

「じゃあ、アリアは左手でこの鍵盤とこの鍵盤を交互に弾いて。僕が右手で合わせて曲を弾くから」

 モーリスはふたつの鍵盤を交互に弾き続けるアリアに合わせて連弾を始めた。

「すごい……。まるで私がピアノを弾いてるみたい」

 穏やかに音色に聞き入る、おろしたてのタオルのような真っ白な毛に覆われたアリアの横顔を、モーリスは形容し難い感情で見ていた。ラウルフの服装は全身が毛で覆われているため、人間と違い露出が多い。胸元と腹回りが露わになった肌着のような服装は、毛で覆われているもののボディラインが艶やかにくっきりと浮かんでいた。モーリスは、慕情と芽生えかけの異性への興味で、名状し難い不思議な感覚に見舞われていた。

「でも、何だか物悲しい曲ね……。」

「う、うん、これはジョン・スカーレットの『悲愴の翼』ていう曲なんだ。ずっと貴族の言いなりだった彼の、自由に行きたくても生きられなかった人生の物悲しさが出てるんだと思うよ」

「そう……。」

 アリアはモーリス家で雇われている女中の娘だった。住み込みで働く母に付き添う形でこの家にやってきて、今では歳の近いモーリスとは兄弟のような関係になっていた。殊、早くに母を亡くしたモーリスにとって、亜人で成長の早いアリアは姉でもあり母でもあるような存在だった。

 アリアがモーリスに顔を近づけて言う。「ねぇフィリップ、音楽学校に行けばいいじゃない?」

 モーリスは背をのけぞらし、まっすぐな瞳のアリアから目を背ける。「え? 音楽学校?」

「そう。寮に入っちゃえば自由にピアノが弾けるわ」

「でも……父上は許さないよ……。」

「お父様の前で弾いてみせるのよ」

「父上の前で?」

「そう。これだけ才能があるってことを見てもらえば、お父様もきっと考えが変わるわよ」

「そうかなぁ……。」

「そうに決まってるわ」

 二人が話していると、リビングの外の廊下からアリアの母が彼女を呼ぶ声がした。

「あ、行かないと。母さんと買い物に行く約束してたんだった」

 そう言ってアリアは立ち上がり、リビングから出て行った。

 モーリスもアリアについて行き、母娘おやこを玄関まで見送った。

「じゃあね、フィリップ。またピアノ教えてね」

 手を振るアリアを女中の母が「コラあんた“お坊ちゃま”でしょ!」と叱責する。

 去って行く二人をモーリスはいつまでも眺めていた。

 二人が笑顔なのはきっと楽しげな母娘の会話をしていて、アリアが僕の良い事を教えてあげてくれているのだ。少年のモーリスはそう信じていた。


 その晩、モーリスは父が帰ってくる時間が近づくとピアノの前に座った。そして、父が帰宅した様子を玄関の物音で知ると、一番得意としている曲を弾き始めた。

 音に気付いたエミールは、女中に上着を渡すと怪訝な表情でリビングへ向かった。リビングでは軽やかにピアノを奏でる息子の姿があった。

「……何をしている」

 モーリスが演奏をやめた。

「あ、父上……。母上の命日が近いので、懐かしんでピアノをと……。」

「……お前にはピアノを弾くのを禁じてたはずだが?」

 エミールの少し禿げ始め額が広くなった総白髪の頭は、普段はきっちりとオールバックに固められていたが、今日は飲んだ帰りのせいで所々が乱れていた。

「え、ええ……。けれど……。」

「けれど何だ? 口ごたえするのか!?」

 エミールは大股開きでモーリスに迫ってきた。近づいた父からはいつもより強烈な酒の臭いがしていた。

「聞いてください父上っ。僕に音楽を続けさせてほしいんですっ」

「何だと!?」

「僕には音楽が必要なんです。これが、僕と母上をつなぐ唯一の物なんです、お願いしますっ」

「そうか……あいつの……。」

 エミールが妻を思い出す姿は、一見して気持ちが落ち着いたように見えた。

「父上……。」

「あいつさえまともな体だったら……。」

 しかしエミールの口調は忌々しげに震えた。

「……え?」

「たった一人産んだだけで病などに倒れおって……。」

 青ざめていたかと思われたエミールの顔は、次第に赤く染まっていった。

「父上?」

 エミールは駆け出すように部屋を出て行った。廊下の向こうでは、酔っていたのと我を失いかけていたせいで、エミールが花瓶や置物にぶつかっている音が聞こえた。

 モーリスが不安で身を強張こわばらせていると、エミールが斧を庭の物置から引っ掴んで戻ってきた。

「ち、父上!?」

 エミールはピアノの前に仁王立ちになり斧を振り上げた。

「いつまでも未練たらしくこんなものを!」

 エミールがピアノの鍵盤に斧を振り下ろした。げんを叩く音と木材が破壊される音が、ない交ぜになってリビングに響いた。

「父上やめてください!」

 モーリスが父親を止めようと後ろから抱きつく。しかし、体の小さなモーリスは簡単にふり払われてしまった。

「いい加減にしろ! お前にはモーリス家の再興がかかってるんだ! 音楽などにうつつを抜かしてる暇などあるか! 父も私も貴族として、のだ! それが我がモーリス家だぞ! 軟弱なピアノなど許さん! ピアノを叩く暇があったら剣の腕でも磨け!」

 怒りにまかせてエミールは何度も斧を振り下ろした。ピアノはすぐに奏でることをやめ、ひたすらに木材がへし折れる音と衝撃音しかしなくなった。

 ボロボロに破壊されたピアノを指差しエミールが言う。「いいか! お前には音楽なんかない! 祖父が傾けたこの家を立て直すことだけを考えろ! いいな!」

 モーリスは破壊されたピアノの前で、涙すら流すことなく呆然と膝をついていた。父が壊したのはピアノではなかった。息子の拠り所であり、母との絆だった。父は男として鍛え上げるつもりだったのだろうが、ただ息子を去勢しただけだった。

 エミールはというと、暴れたことでより一層酔いのまわりが悪くなり、千鳥足で寝室へと入ると着替えもせずにベッドにうずくまり、やがて怒りが収まってくると息子への仕打ちの罪悪感で体を震わせた。

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