scene㊳,狂気の館
その晩、モーリスとアライアスはバーでの音楽談義を終えた後、モーリスの誘いで彼の自宅での宅飲みとなった。モーリス家は先々代までは名家として興盛を誇っていたが、先代からは
そのため、そこそこの屋敷ではあるものの、モーリスの男手一人では維持することができず、何やら一見すると人の住んでいない幽霊屋敷のような趣があった。壁にはツタが絡み、小さな庭の木々はほったらかしで伸び放題になっていた。玄関の前の落ち葉も掃除されずに散らかったままだった。
「……で、アライアス君。君の見解だと、『悲愴の翼』と『郷愁』はジョン・スカーレットの中でもそこまでの曲ではなかったということかな?」
モーリスは杯にワインを注ぎ、居間のソファで酔っ払って寝転がるように体を預けるアライアスに手渡した。
「ありがとうございます」アライアスは受け取ったワインをひと飲みする。「いや、あくまで僕個人の感想ですよ。だって『悲愴の翼』は彼のキャリアの中でも最晩年の曲です。流石に才能が枯れていたとしか言い様がありません」
アライアスの正面に腰かけたモーリスが笑う。「ほほ~。言うねぇ」
「それに、同じくキャリア後半の『郷愁』も、途中から弟子が作曲していたらしいですからね。よくよく聴いてみれば、構成が本来の彼の作風とは違います」
「……なるほど」
モーリスは作ったような嘘くさい笑顔で杯のワインをひと飲みする。
「けれど、本当に来週の休みが今から楽しみですっ。ずっと前からチケットを取ろうと頑張ってましたからねっ。ヴィザ管弦楽団の演奏をジェフリーズのコンサートホールで聴けるなんて!」
酔いが回って、アライアスの声が大きくなり始めていた。
モーリスが慌ててアライアスの後ろの扉を気にしながら注意する。「すまないが、父が寝てるんだ。あまり声を大きくしないでくれるかな?」
「あ、すいません……。確か……モーリスさんのお父様はご病気だそうですね」
「ああ……そうだ」
「では男手ひとつで、お父様のお世話を……。」
「その話はよそう……。」話を切り替える様にモーリスが軽い口調で言う。「もう一本開けないか? 実はとっておきのがあるんだ」
「え、いいんですか?」
「もちろんじゃないか。私は今日すこぶる機嫌がいいんだ」
モーリスはソファから立ち上がり、台所のある部屋に去って行った。
部屋を見渡すアライアス。部屋には美術品や骨董品が並んでいたが、アライアスには特に部屋の隅にあるピアノが気になっていた。
アライアスは台所から杯をもって戻ってきたモーリスに訊ねる。「モーリスさん……あれは」
両手に杯を持ったモーリスが答える。「子供の頃、ピアノを習っていてね」
「へぇ~……聞いた話だと、とてもお上手だったらしいですね」
アライアスに言われ上機嫌になったモーリスは、「弾いてみよう」とピアノの前に座り、
「ただ……私は子供の頃に手を怪我してね。右手が昔ほど動かないんだ」
「そんな、無理はなさらないでください」
「いやいや、別に痛むわけじゃないさ」
記憶を探るように鍵盤をたたき始めるモーリス。最初はたどたどしかったが、やがてモーリスは勘を取り戻し流暢にピアノを奏で始めた。
思いのほかに上手い演奏だった。アライアスは酒に酔いながら、うっとりとソファに身を沈め音楽に聴き入っていた。
アライアスはふと、薬品の匂いがどこからか漂ってきていることに気付いた。アルコールのようだが、酒とは違っていた。
すると突然、モーリスの演奏が止まった。
何事かとアライアスがモーリスを見る。モーリスはまるで時間を停止されたように動かなくなっていた。
「……モーリスさん?」
「……ません」
「え?」
「申し訳ありません父上!」
アライアスはモーリスの様子に驚いてドアの方を見た。だが誰もリビングには入ってきてはいなかった。
「違います父上っ。ただ客人がどうしても私がピアノを弾いているのを見たいと……。」
モーリスは立ち上がり、まるでアライアスが見えていないかのように横切って部屋を出て行った。
酔いが醒めるほどにアライアスは困惑し、そして言い知れない不穏な感覚をおぼえ始めた。彼には、先まで骨董品に見えたインテリアの数々が、幽霊屋敷に捨てられた粗大ゴミのように見えてきていた。アライアスは屋敷から帰るためにコートハンガーにかけてある自分のコートを取った。
「……どうしたんだい、アライアス君?」
突然、モーリスがアライアスの背後に現れた。
「あ、モーリスさんっ」アライアスは悲鳴に近い声を上げた。
「まだ飲み終わってないじゃないか。もう少しゆっくりしていきたまえ……。」
「あ、いや……そろそろお暇しないと、お父様も起きてしまったようですし……。」
「父上が?」モーリスは不思議そうに扉の奥を見遣った。
「ええ……?」
「大丈夫さ。父上はぐっすり寝てるよ」
「いえ、やはりあまり長居しては申し訳ありません。帰りますよ、また明日──」
そこまで言って、アライアスはモーリスが自宅謹慎を命じられているのを思い出した。
アライアスは取り繕うように「では……。」と会釈すると、コートを纏って出口に向かった。
「そうか……、残念だ……。」
モーリスは腰間から金づちを取り出し、そして背後からアライアスの頭部に思いきりそれを振り下ろした。
──ゴッ!
アライアスは頭から鈍い音を立て廊下に激しく倒れた。
うつ伏せの状態から四つん這いで起き上がり、顔を上げてアライアスはモーリスを振り返る。
「あ……が……モ、モーリス……さん?」
「……部長に私の事をチクったのは君だな?」
「な……何を?」
「とぼけるな。あの日の晩の事を、部長とあの“腰砕け”のバカ息子に密告しただろう」
「そんな……違います」
頭に異変を感じたアライアスは、掌で額を拭った。手にはべっとりと鮮血がついていた。小さく悲鳴を上げ、アライアスはモーリスから逃げようと
「誰か……助けて……。」
「逃がさんぞっ」
そんなアライアスの背中に再びモーリスが金づちを振り下ろした。
「ひぃ!」
背後に打撃を受けたアライアスは、身を守ろうと仰向けに体を丸めた。
金槌を振り上げモーリスが怒鳴る。「言え! 正直に全部だ!」
「ぼ、僕じゃありませんっ! 本当です!」
「嘘つけ! じゃあ誰だっていうんだ!」
「ヴィ、ヴィロンさんですよ! 病院に入院している!」
「……なに?」
「ヴィロンさんがネス室長に問い詰められて……。」
「嘘をつくな!」
「本当です! そして……ラガモルフの子供が証人になるからと……。」
ラガモルフの件に関してはアライアスは知るはずのないことだった。彼は酒場での検挙の後、亜人たちを連行するために帰されている。
「馬鹿な……。」
すると突然、モーリスが何かに呼びつけられたように後ろを振り向いた。
「大丈夫です父上! 客人が転んだだけです!」
「……え?」
「心配なさらないでください! 何も問題はありません!」モーリスはドタドタと足音を立てながら、アライアスを置いて屋敷の奥へ消えていった。
アライアスは唖然としていたが、今がチャンスだと再び
「もう少し……もう少し……。」
アライアスは息を切らせながらも、ついに玄関の扉に手をかけた。玄関を開けると外の冷たい空気が頬を撫で、アライアスは死の追っ手から何とか逃げられそうだと希望に目を輝かせる。
空気を吸い込みアライアスは声を上げた。「だ……誰か……っ」
だが助けを叫ぼうとした瞬間、アライアスは足を引っ張られ、ズルズルと室内へと引きずり込まれていった。
「ひぃっ! やめてくださいモーリスさん!」
「ヴィザ管弦楽団に行くって言ってみろ!」
モーリスは金づちを振り下ろし、アライアスの頭を強打した。骨が砕ける鈍い音が室内に響いた。
「やめ、やめて……。たひゅけて……。」
「何がスカーレットの才能が枯れていただ! お前なんかに何が分かる!」
さらに殴打を繰り返すモーリス。何度も打ち付けるけていると、次第にアライアスは抵抗する力を失い、まともに金づちでの殴打を顔面に食らい始め、やがて若く精悍だった若者の顔は、顔の骨が砕け人相確認が出来ないほど変形していた。
思う存分殴打し終わると、モーリスは息を切らせてさらにアライアスを屋敷の奥へと引きずり込んでいった。
「分かってます、父上……。今行きますよ……。」
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