scene㉔─1,壁と爪

 その夜──ヘルメス領ランセル──

 ヘルメス領でも有数の都市として発展を始めている街の一角にディアゴスティーノのオフィスはあった。マホガニーの机に革張りのソファ、クリーム色の汚れのない壁紙、壁にはダーツのまとと雄々しく前足を上げた馬の油絵が飾ってあった。床には東方民族から仕入れた絨毯が敷かれており、人間の大商人でもそうそう真似できない、贅を尽くした空間だった。

 主であるディアゴスティーノは、そのマホガニー製の机の前に座り契約書にサインをしている最中だった。

 そんなディアゴスティーノに部下が恐縮しながら意見する。「社長、いいんですかい? こんな高値で。こんな土地、こっちがもっと強気に出りゃあもっと安く手に入ってましたぜ?」

 ディアゴスティーノはサインを終えると、万年筆にキャップをはめて部下を睨んだ。「良いんだよこれで。奴はこの先、土地を紹介する時にゃあ俺らに真っ先に情報を持ってくる。ワリのいい客って事でな。早い情報もらうための経費みてぇなもんよ」

「はぁ……。しかし……あの土地どうするんです?」

「何もしねぇ。持ってるだけだ」

「え?」

「他に売るんだよ」

「しかし、あんな土地どうやって?」

「あの土地沿いにある街道が、もうすぐ補修工事に入るってぇ情報が入ってきてる。要するに、これからあの周辺を何かに使うのさ。住宅地か商店街か知らねぇがな。で、そん時になったら今回の金に上乗せして売っ払うのよ。どう転ぼうが、間違いなく土地の価値は今より上がってる」

「なるほどぉ……。」

 至って普通のビジネスの会話をしているディアゴスティーノと部下だったが、オフィスの中央にある革張りのソファには二人のガラの悪い男たちが座っていた。片方の男は背が小さいものの眼光鋭く、鼻も鋭い鉤鼻をしていた。フェルプールだが、まるでハゲタカのような顔つきだった。もう片方の男はガタイは良いがいささか抜けた顔をしていた。女を見ているわけでもないのに、終始鼻の下が伸びているような顔つきだった。腕には添え木が当てられ三角巾で吊るしてあるので、どうやら骨折をしているようだった。その二人の男たちは、仕事の話をしているディアゴスティーノたちに終始睨みをきかせていた。場違いな自分たちの存在を何とかアピールしようと必死のようでもあった。

 ディアゴスティーノはサインした書類を部下に手渡す。「ほれ、すぐに野郎のところに持ってけ。奴は今負債で首が回んねぇ状態だ。俺らがこの値で買った証明が欲しくって、手ぐすね引いて待ってるだろうぜ」

「おお、ついでに恩も売れるってことですねぇ」

「分かってきたじゃねぇか」

 部下は書類を封筒に入れると、「では」と部屋をあとにした。

 ディアゴスティーノは疲れたように大きく深呼吸をする。そして両手を広げ体を男たちに向けた。

「待たせたな。じゃあ、こっちの商談も始めようか?」

「商談だぁ? 随分と気取った言い方なさるじゃねぇか、社長さんよぉ」

 余裕を見せるディアゴスティーノに、ハゲタカ似の男はメンチを切って応えた。しかし、そう威勢よくしたところで、オーダーメイドの青い光沢のスーツを着こなし髪を油で整え、ヒゲを剃り残しなくカミソリをあてがったディアゴスティーノに比べると、どう見ても貧乏な街のチンピラにしか見えない男は見劣りせざるを得なかった。まるでモルタルで舗装された壁に、爪を立て登ろうとする野良猫のように哀れな弱々しささえあった。

「金が動くものは何だってビジネスだ」

「ビジネスだと?」声を荒げ男は三角巾をした連れを指差す。「俺の弟分はよぉ、テメェんとこの若いのに腕を折られちまったんだ。ビジネスとか抜かしてんじゃねぇぞこのタコ!」

「喧嘩だ。ウチの若いのも鼻を折られた」

 実際はディアゴスティーノの部下は鼻血を出しただけだった。

「鼻と腕じゃあ被害が違うんだよ! どう落とし前つけてくれんだ! タコこらタコ!」

「分かってるよ。で、オメェの気持ちはいったいいくらで慰められる?」

「金じゃねぇんだよクライスラーさんよぉ!」

「金じゃない? じゃオメェは何でここに来たんだ?」

 チンピラは立ち上がって叫んだ。「メンツ潰されたからだろうがタコ!」

 ディアゴスティーノはうざったらしそうに腹の上で両手を組んだ。「ならオメェのメンツはどうやって挽回出来るんだ?」

「バンカ……何だぁ?」

「……メンツを取り戻したけりゃどうするって訊いてんのよ」

「潰されたメンツはメンツでしか取り戻せねぇよボケっ」

「もしかして、俺の腕の一本だとか言うんじゃあねぇよな」

「オメェの腕折ってどうなるよ! 今、ここで、侘び入れろ! 俺とコイツにすいませんでしたカルマンさん。私が悪う御座いましたってなぁ! 頭床に押し付けてよぉ!」

「……なんだ、それだけでいいのか?」

「なんだとぉ?」

 ディアゴスティーノが大きく手を二回叩いた。するとドアを開きディアゴスティーノの部下二人が、大きなカバンを三つ抱えて入室してきた。

「金を用意してたんだがな。カバン一杯の百ジル紙幣の束だ。だが……いらねぇってなら仕方がねぇ。俺が頭下げて今日は終わりだ。……おいお前ら、その金は金庫に戻しとけ」

 去っていく部下を見て、慌てて男・カルマンが猫なで声で待ったをかける。「ちょ、ちょっと待てよクライスラーさんよぉ。そっちが誠意見せる準備があったんなら、先に言ってくれよぉ。人が悪いぜぇ」

「何だぁ? オメェさっき金じゃあねぇって言ったじゃねぇか」

「いやいや、アンタがそこまで誠意を持ってくれてるとは思いもしなかったんだよ。勢いで突っ走っちまった。分かるだろ?」

 ディアゴスティーノはヘーゼル淡褐色の目を細めてカルマンを見た。取るに足らないものを見る、興醒めした目だった。

「そうかよ……だがオメェの弟分は手がそんなんだ、持って帰んのは骨が折れるだろう。ああ、もう骨は折れてるか。馬車を用意してある。そいつに準備させな」

 カルマンは舎弟に命令して、ディアゴスティーノの部下と一緒に表に出るよう指示した。

 その様子を見たディアゴスティーノは、「さてと」と椅子から立ち上がる。

「渡してやれ」

 ディアゴスティーノに言われ、部下がカルマンにカバンを手渡した。ディアゴスティーノが「落とすなよ」と言いながら渡したので、カルマンは両手でカバンを抱える状態になった。

「重いか?」ディアゴスティーノが訊く。

「たんまり入ってるじゃねぇか」カルマンが嬉しそうに答える。

「じゃあもう一つだ」

 ディアゴスティーノが命じると、部下はカバンの上にさらにカバンを乗せた。

「お、おいちょっと……。」

 重みでカルマンの膝が曲がった。

「落とすなよ。こんな大金、落としたらバチが当たるぜ」

「分かってるよ、分かってるけどよぉ……。」

「じゃあコイツも……。」ディアゴスティーノは残りのカバンを部下から受け取り、それを高く持ち上げて、さらにカルマンの抱えるカバンの上に積み重ねた。「持ってけや!」

「う、うおおおおおお!」

 三つのカバンの重みでカルマンは仰向けに倒れた。それどころか、のしかかったカバンの重みで動くことができなかった。

「ちょ、ちょっと何すんだテメェ、動けねぇじゃねぇか!」

 ディアゴスティーノはそんな男を蔑むように、ただ無言で見下し溜め息をついた。自分の吐いたゲロの上で寝息をかく、路上の酔っ払いのような、つまらなく、不潔で、だらしのない、矮小な俗物を見る目だった。

「おい、ホールデン! ホールデン!」男は出来るだけの大声で舎弟の名を呼んだ。だが、胸が圧迫されて十分な声を出すことができなかった。

「無駄だ。今頃オメェの弟分は俺んとこの若いのが寝かしつけてる。残念なことに目を覚ますことはねぇがな」

 カルマンは目を見開いてディアゴスティーノを見上げた。ディアゴスティーノの手にはいつの間にかナイフが握られていた。

「え? おい、嘘だろ?」

「……なぁチンピラ。会話するってぇ時にはよ、何に気をつけなきゃあならんか分かるか?」

「な、何言ってんだっ?」

「テメェの言いたいことだけ言って聞いてもらおうってんなら、そりゃあガキのやることよ……。会話する時にはよ、常に相手の目的と行動原理を探らなきゃあなんねぇ。相手が何故そんなことを言うのか、何を求めてるのか、それが分かりゃあ自ずと自分のやるべきことが見えてくるもんよ」

 ディアゴスティーノはカルマンの顔の前で屈んだ。

「オメェの行動原理は何だった? 目的は何だった? あん?」

 カルマンは無言で呼吸を乱しながらディアゴスティーノを見上げる。鼻息があまりにも強かったせいで、鼻の穴から鼻水が吹き出していた。

「教えてやるよ、オメェの行動原理は意地で、目的も意地だった。だがよ、そんな曖昧なもんぶらさげた結果がこのざまよ。俺の手のひらで泳がされ、金に目がくらんでお陀仏だ。何の得にもならねぇ。それどころかすべてを失う。分かるか? いい年こいて意地を張って生きるなんざぁ馬鹿のすることよ」

 ディアゴスティーノはカルマンの顎の下にナイフを突き立てた。先端が刺さり、男の皮膚から血が流れ始める。

「で、オメェは俺の行動原理は何だと思う? こうして今オメェをぶっ殺そうとしてる俺の目的は何だ? 分かるか?」牙をむき出しにするディアゴスティーノのヘーゼルの瞳が、緑と茶色に濁っていた。

「ひぃっ、ひぃっ」

 男はナイフがこれ以上皮膚を切り裂かないよう、小さく首を振る。

「俺の行動原理、それはな……。」ディアゴスティーノはさらにナイフに力を込めた。「意地に決まってんだるぉがっ! こぉんのドサンピンがぁああああああああ!」

「ぃいやめてぇええええええええええええええ!」

 カルマンは目に涙を溜めて絶叫した。

 死ぬ、そうカルマンが直感した直後、ディアゴスティーノはナイフを引っ込めた。

「だからもう……取引は終わりだ。俺の気も済んだ。意地を通せたからな」

 ディアゴスティーノが立ち上がり部下に目配せをする。部下がカルマンにのしかかっているカバンをどけたが、カルマンはすぐに起き上がることができなかった。放心していた。すでに自分が死んでいるように感じていた。

 ディアゴスティーノはカバンの中から札束を一束取り出してカルマンに手渡した。

「ポケットに入るだけにしとけ。テメェが持てる以上のもん望んでんじゃねぇよ」

 カルマンは上体を起こすと、激しく頷いて札束を上着のポケットにしまった。

「アニキィ用意できましたよぉ」

 そこへ、カルマンの舎弟が間抜けた声を上げて戻ってきた。死んでいなかった舎弟を見て、カルマンは呼吸を乱すほどに安堵する。

「……ホールデン」

「あれ? アニキなにやってんすか?」

 男は立ち上がり泣きそうな声で言う。「帰るぞ」

「え? あれ? でもカバンは?」

「いいから帰るぞ!」

 そうして二人のチンピラは早歩きでディアゴスティーノの会社から出ていった。

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