scene⑪,約束

 翌朝、クロウは暑さで目を覚ました。どうやら、残暑がぶり返したようだった。夜が冷えていたので、毛布をかけていたのが良くなかった。

 クロウは寝巻きを脱いで下着姿になり、部屋の隅のかめから杓で水をすくい一気に飲み干した。部屋の真ん中で伸びをしていると、部屋のドアを誰かが叩いた。小屋に近づくまでに物音を感じなかったので、クロウの体が一瞬硬直する。

「……誰だ?」

「僕だよ、マテルだよっ」

「どうしたこんなに早く? ちょっと待ってくれ、今下着姿なんだ」

 しかしそれを気にせず「大丈夫だよ、僕も下着だからっ」と、マテルがドアを動かし始める。

「……待ちなさい」


 クロウがドアを開けると、本当にマテルが下着姿で玄関の前に立っていた。

「おはようクロウッ」

「……本当に下着なんだね。あまりレディの前でその姿で現れるのはおすすめしないが……。」 

 遅れてレグが玄関の前にやってきた。「いや、すまない。実は川へ泳ぎに行こうとしててな。私はみっともないから服を着ろと言ったんだが、マテルときたら、どうせ濡れるんだからと……。」

「ねぇっ、クロウも一緒に行こうよっ。きっと気持ちいいよっ」

 クロウは右の眉毛を釣り上げて微笑む。「しばらく待ってて、準備をするから」


 川沿いに多く生息する、エノキやケヤキの森林を抜ける三人。木々は葉を落とし始め、山道は朝露で濡れた青葉の匂いが充満していた。森に入って間もなくすると、レグが耳を上下に動かした。

「下流でも良かったが、上流の方が水の流れが穏やかでね。それにマテルがそこで遊ぶのが好きなんだ」

 レグにはもう川のせせらぎが聞こえ始めていた。クロウも耳には自信があったが、さすがに兎獣人ラガモルフには後塵を拝するしかなかったようだ。

 森を抜けると、レグの言うように上流の光景が目に飛び込んできた。川下と違い、大きく滑らかな岩が川沿いに並んでいた。滑り台のようなその岩の上を清流が覆い、ガラスでコーティングしたような光を放っている。水は透明度が高く、クロウの腰ほどの深さの場所でも水底が目視できた。

 マテルが駆け出そうとしているのを察したレグが言う。「マテル、準備運動をキチンとするんだよ。体がびっくりして心臓に悪いし、手足がって溺れてしまうからね」

「はぁ~いっ」

 そう言うと、マテルは兎のようにその場でジャンプをし始めた。

「じゃあ、私は着替えてくるよ」と、クロウは茂みに入っていった。

 レグは「うむ」とそれに頷くと、岩場の浅瀬に足を下ろして水で顔を洗い始める。

 準備体操を終えたマテルが川に飛び込む。幼子はただ自分の動きで水しぶきが立つだけでも面白いようで、笑い声をあげながら飛び跳ねていた。

「……お待たせ」

 着替えを終えたクロウが茂みから出てくると、レグは驚いたように片眉を釣り上げてクロウを見た。クロウがサラシを胸に巻き、下がふんどしという、ほぼ裸の格好だったからだ。

 レグの視線に気づいたクロウが肩をすくめて言う。「別に、ここにはラガモルフしかいないだろう?」

「……まぁ、だがしかし……。」

 服を着ていると気づかなかったが、クロウの体はサラシを巻いている胸以外、ラガモルフのレグが見ても分かるくらいに、普通の女性とは違っていた。太ももは大腿直筋で、ふくらはぎは腓腹筋で盛り上がり、腹筋は割れ肩も硬い繊維のような筋肉で覆われている。背中を曲げると、荒縄のような広背筋が皮膚の下でうねるのが見えた。所々に刀傷や矢傷もある。それが服を着るだけで普通の女と変わらなくなるのだから、ちょっとした擬態のようですらあった。

 クロウの姿を見たマテルが川から戻り、「わぁいっ。クロウ、カッコイイ!」と、肌の露出の増えたクロウに飛びかかってきた。

 クロウは抱きつかれる前に、笑顔で飛んできたマテルの脇をキャッチする。そして自分も笑いながらマテルを振り回し、深さがちょうど良い場所に投げ捨てた。ポチャンと小さな音を立ててマテルが川に沈む。マテルは顔を水面から上げると「もういっかい!」と再びクロウに飛びかかってきた。三度それを繰り返すと、とうとうクロウも諦め、そのまま幼児の積極的なスキンシップを許すようになっていた。

 しばらくマテルと水遊びをしていたクロウだったが、レグが大きな岩の上に座ったままなのに気づいた。

「どうしたんだ? こんなに暑いんだ、こっちにきてお前さんも水を浴びればいいじゃないか?」

 しかしレグは「う、うむ……。」と、気まずそうに頷くだけだった。

「うん?」

 不思議そうにしているクロウにマテルが教える。「父さんはね、裸を見られるのが恥ずかしいんだっ」

 クロウは驚き目を見開いて苦笑する。「おいおい、今さら何いってる。お前さんが私に興味がないと言ったように、私だってお前さんの裸になんて興味がないぞ」

「いいじゃないか。マテルと二人で楽しんでくれ。私はここで日光浴でもしとくよ」

「こんなに暑いのに?」

 しかしレグは何も応えなかった。

 クロウとマテルはつまらなさそうにそんなレグを見ていたが、クロウはふと何かを思いつきマテルに耳打ちをした。


 レグが日陰に移動しウトウトとしていると、突然マテルがレグをたたき起こした。

「大変だよ父さん! クロウが溺れちゃったんだ!」

 寝ぼけ眼で呆けた様に口をだらしなく開いていたレグだったが、すぐに「そりゃ大変だっ」と、慌てて川へと走っていった。

 レグが岩を越えて川辺につくと、確かにクロウが川の中で手足をバタバタさせていた。

「助けてくれっ。足がった!」とクロウが叫ぶ。

「待ってろ!」レグは大急ぎで服を脱いで川に飛び込んだ。クロウの元までバタ足で泳ぐと「掴まりなさいっ」と手を伸ばす。

 クロウはニヤリと笑うとレグの手首を逆に掴んで立ち上がった。

「……え?」

「足がつくような場所で溺れるわけないだろう」

 レグの脇を抱えて持ち上げるクロウ。わぁいとマテルも岩の上から川に飛び込んできた。

「ちょっと待ちなさい、それは良くない考えだぞ……。」

 クロウは勢いをつけてレグを振り回す。「大丈夫、確認した。あそこはマテルも足がつく」

 そしてクロウはレグを放り投げた。水しぶきを上げてレグが川に沈む。

 クロウの言うように足がつく場所だったらしく、レグはすぐに立ち上がった。

「な、平気だろ?」

「……まったく」

 レグは体中を震わせて水を切った。水をきったあとも、ふっくらとしていた毛がボリュームを失い、レグの体のラインがくっきりと浮き出ていた。マテルがびしょ濡れの父親に駆け寄る。

「私だけ裸を見られるなんて不公平じゃないか。それに、やっぱり恥ずかしがる必要なんてない。立派な毛並みだぞ?」 

 マテルはびしょ濡れの父親に抱きついて登り、肩車の状態に持っていった。

「……マテルや、お前も噛んでたのかい」

「うん!」

「そうか……。そりゃっ」

 レグは自分から後ろに倒れこみ、マテルを肩車の状態から水面に落とした。


 大人ふたりは水遊びを終え、ひとり川岸で遊ぶマテルを見ていた。マテルはまだ体力が有り余っているらしく、追いつくはずもないのに川の魚を叫び声を上げては素手で捕まえようとしていた。マテルが飛び込むたびに、水しぶきが砕かれた宝石のように七色の光を放って光った。

「今日はすまなかったね」

「私だって十分楽しんだんだ。礼なんてよしてくれよ」

「マテルがあんなにはしゃいでるのは、お前さんと一緒だからだよ……。」

「可愛い子だね。……ちょいちょいが過ぎるが」

 マテルの女好きを承知のレグは、笑って小さく首を振った。

「前も言ったが、あの子には寂しい思いをさせてるからね……。」

 ふたりは無言で川を見る。幼子を含む、川辺の長閑で輝かしい光景に心を和ませていた。

 レグは上着のポケットに手を入れ中から一枚の地図を取り出した。地図を眺め、クロウにそれを差し出す。

 クロウが地図を手に取り言う。「……これは?」

「ダニエルズの地図だよ。隅に印があるだろう」

 確かに、それはダニエルズ侯国の地図で、カーギルやネスレといった主要都市とともに、端の方に後から書き加えられたような印があった。印の横には“ジュナタル”と書かれてある。

「“過去のない場所”という意味でね。そこが私らの故郷さ……。」

 クロウがレグを見る。

「良いところだった。こういう美しい川があって、その周りは秋になると紅葉で真っ赤に染るんだ。散った紅葉が川を流れると、水面が燃えるように赤く輝いてね……まるでこの世のものとは思えない美しい光景になるのさ。紅葉だけじゃない、リンゴやブドウといった秋の果物も川辺に生って……それはもう、詩でさえも表現できないような楽園なんだ……。多くのラガモルフが生活していて、そこでは飢えや貧困も差別もない。忘れがたい故郷だった……。」

「……素晴らしいところだね」クロウが地図を裏返すと、そこには滝の絵が描かれてあった。「……これは?」

「ん? ああ、それは故郷の滝だよ。でっかい滝でね、地元じゃあ知らない奴はいなかったね」

「そうか……。」

 クロウは地図をレグに返した。

「マテルが眠れずにグズつく時は、故郷の話をしてやってるんだよ。あの子はどんなおとぎ話よりも故郷の話が好きでね」レグは地図を上着のポケットに戻した。「……クロウよ、アンタに頼みがあるんだ」

「何だい?」

 レグは言いづらそうに言葉を詰まらせる。「その……もし、私に何か起こったら……あの子を故郷へ送り届けて欲しいんだ」

「おいおい、縁起でもないことを言うな」

「私は本気だよ。頼むよ、もしあの子がひとりで取り残されたと思うと、私は死んでも死にきれん。約束してくれ、きっとあの子を故郷に送り届けると」

「……分かったよ、約束する。だが、簡単に死んでしまうだの考えるのはよせよ。私らの稼業では、そういう奴こそ死神に好まれるって言われてる」

「私は本気だからね……。」そしてレグは念を押すように、頼むよと繰り返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る