scene⑩,レグ
しばらくすると、店内の客に引っ張られレグが席を離れていった。客たちは何かにつけてレグに対して礼を述べており、その様子を見るだけで、レグの人望が厚いことが見て取れた。マテルはというと、腹を膨らませ女をはべらかし満足したようで、クロウの隣でウトウトと眠りにつき始めていた。しかしそんな状態でも、隙あらば幼子はクロウに体を預けようとしていた。クロウはそんなマテルを振り子のように避け続ける。
「アンタもレグの旦那に世話になってるクチかい?」
そこへ、クロウの隣にラウルフのクレイが座ってきた。
「ん? ああ、そうだね。彼のおかげで随分と助かってる」
「そうかそうか。……見ての通り、奴ァここの亜人の世話役でね、困ったときは大概の奴がレグを頼るんだ」クレイは談笑しているレグの姿を見ながら語る。「俺もなぁ、ここに来たばっかの時は右も左も分かんねぇ有様だったが、奴が同族を紹介してくれてね。おかげで、こう言っちゃなんだが寂しい思いはしないで済んでるよ」
「……そうか」
クロウもレグを見ながら杯を口に運んだ。レグは仲間たちから杯を渡され、酒をなみなみと注がれると、一気に飲むようにと促されていた。
クレイはクロウに顔を近づけて囁いた。「だがな……ここだけの話し、奴は何か裏がある男だぜ」
クロウは返事をせずに、横目でクレイを見る。
「ただ表を歩いて生きてきただけの奴が、あんなに要領の言い訳がねぇ。それに……たまにな、奴の表情が得体の知れないものになる時があるんだよ。下手すりゃあ人を殺したってこともあるかもな」
「……お前さん、人を殺した奴を見たことがあるのか?」
「ああ、何度だってある。そういう奴特有の臭いみたいなもんも知ってる。俺らラウルフは鼻が利くからな……。」
クレイは猟犬ぶった、鋭そうな目つきで哂ってみせる。クロウはそれに鼻笑いで答えた。
「なんだよ? 俺は真面目に言ってるんだぜ?」
「だとしたら、お前さんの鼻は信用ならないな。お前さんの目の前にいる女は、人を殺したことがあるんだぜ? それも一人や二人じゃない……。」
クレイは驚いてクロウを見る。
「恩人に後ろめたいところがあったとしても、心の奥にしまっとくもんだ。それとも、人間にはどこか汚点がないと安心できないか? まぁ確かに、そうでないと自分が惨めになってくるものな」
クレイは不快そうにクロウを睨みつける。「ムカつくアバズレだな。親切心で教えてやってるのになんだよその口のきき方は」
「お近づきの印にゴシップネタを提供してくれたのか? 私がさっきの踊り子みたく、黄色い悲鳴をあげて潤んだ瞳で見つめてくると思ったか? こんな傷持ちばかりの世の中で、前科が意味するところなんてそれくらいだ」
「アバスレよぉ、言っとくがな、俺だってそれなりの修羅場くぐってんだよ。あんまり舐めたこと言ってるとただじゃすまねぇぞアバズレ」
クレイは牙をむき出しにした。怒りを演出しているようだったが、様にならない虚勢は唇を釣り上げているだけにしかなっていなかった。怒りだと思っているのは本人だけだった。
「
「だったらどうするよ?」
「息を根元から止めるというのもひとつの解決策だね」
しばらく男はクロウを睨んだ。なじるかなぐるか、様々な行為を仮定している様子だった。だが、女の髪を引っ張るにも後ろ盾が必要な男だった。最後に再びクレイは「アバズレが……。」と、言い残し去っていった。
「……ねぇアバズレってなぁに?」と、ふたりの剣幕で目を覚ましたマテルが目をこすりながら言う。
「自分を下種で下劣だと表明したい時に使う手頃な宣言文だ。一度口にしたら引き返せない片道切符さ。使うんじゃないぞ」
幼子には大人の検を感じ取る特有の感性がある。マテルはとても素直に「うんわかった」と頷いた。
「いやすまないね。思った以上に飲んでしまった。まったくアイツらときたら……。」
帰りの山道、酔って足元もおぼつかないレグの代わりに、クロウは寝入ったマテルをおんぶしていた。山道では心地よい秋の風が木々を揺らし、虫の音と合わさって秋の音を奏でていた。
「慕われてるな……。」と、クロウが言う。
「気のいい奴らさ……。」レグは柔らかな笑顔で言う。
「流れ者ばかりのようだが、誰でも受け入れるのか? その……どう見てもお尋ね者みたいなのでも……。」
「そりゃアンタ、あまりにも酷いのは私だって警戒するさ、大人なんだからな。皆が煙たがるようなのを無理に連れて行きはせん。だが、こんな時代だ。誰にだって後ろめたいものはあるさ、いちいち気にしてられん」
クロウは思わず吹き出した。
「どうしたね?」
「いや、私も同じ事を言ったばかりだったんでね……。そうだな、あの戦争中も終わったあとも、誰しも何かを抱えてる。戦後生まれの私でもそれが分かるくらいに……。いろんな国で、まともには戻れない男たちをたくさん見てきたよ。戻ろうとしても、一度負った心の怪我は体の怪我並みに厄介でね。怪我をかばって別の怪我をして、結局道から外れた生き方しかできない奴らばかりだった……。」
レグを見ると、その顔は先ほどまでとは違うものになっていた。夜のわずかな月明かりを反射する黒い瞳は、何層もの色つきのガラスを重ね合わせたような、様々な感情を秘めていた。抑え難い悲しみや怒り、後悔を宿しているその瞳はクロウの知るものだった。まさに今語った、道から外れるしかなかった男たちと同じ瞳。クロウは、ふとクレイの言っていたことを思い出した。
レグが言う。「……諸国を回ったのかね?」
「……ああ。生まれはヘルメスだが、都合でいろんな国で厄介になったよ。……お前さんはずっとダニエルズに?」
「ん? ああ……そうだ。故郷もダニエルズだったな」
“だったな”という故郷を語るには妙な言い回しが引っかかった。
「そうか……。そういえば、マテルは亡くなられた奥さん似なのかな。毛並みといい、お前さんとはあまり似てないようだが」
「そうだな……確かに女房似かもしれん。だが、アンタはラガモルフの事はよく知らんだろう。一度に大勢産むし、毛並みも結構バラバラなんだよ。祖母似だったり叔父似だったりするもんさ」
「……なるほどね」
親子の小屋に着くと、クロウはマテルを寝かせレグに別れを告げた。
「それじゃあ、おやすみ。毎日世話になってばかりで悪いな、いつか返させてくれ」
「気にすることはない、私が好きでやってるんだ。アンタこそ良い夜を」
レグは壊れ物を扱うような、繊細で静かな声でそう告げた。しかしそれは、繊細であると同時に何かしらの重々しさのあるものだった。クロウはその言葉で、自分と彼とが過ごしたこの夜に、何か特別な価値があるように思えた。
だが一方でクロウはこうも思った。レグがこんなにも別れに含みを持たせるのは、“別れ”というものに何か特別な恐れがあるからではないかと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます