第2部 生者に約束を、然らずば死者に花束を

scene㉘,ある夜

 モーリスは洗面所の鏡で自分の顔を眺めていた。見惚れていた。完全な顔だった。少なくともモーリスにとっては。モーリスは自分の顔をより近づいて見るために、流しの淵に両手をつけ、前のめりに鏡に顔を近づける。

 一週間ごとにハサミを当て、彫刻のように固く整った亜麻色の髪。筋の通った鼻。切れ長の燃えるように黒い瞳。シミ一つ見当たらない肌。肌に関しては、カミソリをあてる前はしっかりと蒸したタオルで下準備をし、髭を剃った後はアロエから精製した美容液で肌に栄養を与えることを怠らないこだわりだ。

 うっとりと鏡の中の自分に恋をしているように、モーリスは鏡を見つめる。

 すみずみまでアイロンをあて糊のきいたシャツの上から、肩、そして胸元へと手を這わせる。そこには農作業や工事現場の人夫のように不自然ではない、均整のとれた弾力のある筋肉が備わっていた。モーリスはその筋肉に指を沈み込ませながら、惚ける乙女のように頬を赤らめため息をついた。本当ならば、今すぐシャツを脱いでシックスパックに割れた腹筋を確認し、ひじを曲げ上腕二頭筋の隆起ぶりを確認したいところだったが、残念ながら今は取引の最中だった。

 フィリップ。まったく、お前はなんて奴なんだ。なんて……。

 モーリスは鏡のいい自分に何かを念押ししようとしたが、自分を形容する言葉が思い浮かばず、仕方なく自分をなだめるように首を振った。

 名残惜しくもう一度鏡を見てから、モーリスはかけていたジャケットを羽織り客間へと戻った。


「待たせた」

 モーリスが戻ると、テーブルにはすでに食事が並べられていた。

 食前酒のシェリー酒。ヘルメス領からはるばる運んできたものだ。ヘルメスは今混乱の最中にあったが、国として混乱している今の方がかえって物資が運びやすかった。

 ラビオリのスープ。前日から下ごしらえをしたブイヤベースに一つ一つこの店手作りのラビオリを入れてある。素材そのものが宙を漂っているような、香ばしい匂いが食欲を誘った。

 オークスのヒレ肉のステーキ。フォアグラの乗ったミディアムレアの赤身肉には、この店自慢のラズベリーソースがエンブレムを描くように添えられている。どんな安物のナイフでも簡単に刃が通るだろう。

 テーブルの真ん中にはまるまる一匹のニシンを使用したパイ。焼きたてだったので、表面が艶やかに光沢を帯びている。

 メニューを見て満足げに座るモーリスだったが、丸テーブルを挟んだ彼の向かいにいる男は、豪勢な馳走があるというのにあまり嬉しそうではなかった。というよりも、そもそもその男はこういった店にふさわしくないどころか、来たくもないのに無理やり連れてこられたかのようだった。

 服装はドレスコードを知らされていなかったのだろう、粗末なダボダボのチュニックにシミの浮かんだベストで、髭に剃刀はあてられておらず、頭には自前の脂でべたついた長髪が後ろに撫でつけられている。褐色の顔はロクに洗顔もされていないので、夜だというのに薄らと目脂めやにがこびりついていた。

 少しも料理に期待することなく男が言う。「……悠長ゆうちょうに晩餐会やりに来たんじゃねぇんだぞ」

 男のこのセリフが何よりの彼の立ち位置を物語っていた。

「商談の席だ。客人をもてなすのは当然だよ」と、モーリスは手で真っ白なテーブルクロスの上の料理を指し示して言った。

「……ヤクのな」

 男がそう言うと、モーリスはしっ、と言うように手のひらを突きだして続きを言うのをやめさせた。

 モーリスは手で制した状態のままで、フロアの隅にいるピアノ演奏者に目配せをする。演奏者はその合図にうなずくと演奏を始めた。男はうんざりしたように天井を見上げ、ため息をついた。

 モーリスは聞き惚れているかのように目を閉じて訊ねる。「……ジョン・スカーレットを?」 

「ああ? なんだそりゃ? 新しいドラッグか?」ピアノの音色に反発するように、男がだみ声で答える。

 モーリスは目を開いた。「ジョン・スカーレット……。今から100年前、宮廷音楽がもっとも盛んだった時期に活躍した作曲家だ……。手がけたオペラ、交響曲は実に100曲以上にのぼる。しかし、彼の人生で作曲したほとんどが、王侯貴族からの依頼で作られたものばかりだった。いや、依頼なんて生易しいものじゃない。囚われて、命令されるかのようにジョン・スカーレットは彼らが気に入る曲を書き続けた。もし貴族の要望に反するものを作れば途端に首に縄がかかったんだ」モーリスはピアノの方を見て続ける。「いま演奏してるのは、晩年に彼が作曲したピアノソナタだ。囚われ続け、意にそぐわないものを作り続けたジョン・スカーレット……。ようやく自由になれた時、その時にはもう彼の手からは才能は失われていた。貴族たちも用済みだからこそ彼を解放したんだ。しかし解放されたあと、彼は体に残った最後の才能をふり絞って、このピアノソナタ第10番作品70『悲愴の翼』を書きあげた。彼の不遇の人生そのものを歌い上げるかのような悲壮感に満ちている曲だが、その悲壮感はどこまでも透き通り、そしてあまりにも美しい……。」

 まったく興味のない男はとうに白けていた。それでもモーリスは、隣には自分の話しに聞き惚れている貴婦人がいるかのように満足げに話を終えた。

「それで……商談は進めていいのか?」男が改めて問う。

「もちろん」モーリスはナプキンを首にかけた。

「で、このシマでブツを捌くのにアンタにゃいくら払えばいい? 要するに、ブロード一家はいくら払ってたかってことだ」

 シェリー酒を一口飲んでからモーリスは言う。「奴らがいくら払ってたかなんてどうでもいい。ロウズ、問題は君がいくら払えるかだ」

「しかし……。」

 男・ロウズは困惑する。例え役人の後ろ盾があったとしても、相手の縄張りを強引に奪ってしまったならば余計な争いの火種になりかねない。

「どっちにしてもブロード一家はこの取引から外すつもりだった。時間の問題だったのさ」

「……奴らが何かやらかしたのか?」

「なに、この国では表も裏も人間が仕切るべきだと考えてるだけだよ。いつまでも、亜人どもに好き勝手させるわけにはいかない」

「……ヤクの売買でもか? 別に亜人どものシマなんて大したことないだろう。たかだか全体の一割程度だ」

「一割? 一割だからなんだ? 問題がないとでも言いたいのか?」モーリスは食前酒の入ったグラスを掲げた。「このグラスに毒が、それこそ一割程度入っていたとしよう。それだけでも十分に致死量だ。違うか?」

「ああ、まあそうだが……。」ロウズは目の前の役人が異常なまでの執念で、取締りと称し、亜人を殺していることを思い出した。

「ロウズ、断っておくが私は差別主義者レイシストなのではない。現実主義者リアリストなんだよ。奴らはこの新しい経済の仕組みを支えられる存在ではないんだ。何よりまず寿命が違う。我々に比べ遥かに短命なアイツらは、学ぶ時間も少なければ蓄財できる時間も少ない。結果どうなる? 必然的に生産できるものに差ができ、生活水準にも差ができる。そんな奴らを我々の社会に迎え入れるということは、我々の経済活動の足を引っ張ることになるんだ。引いては社会の発展も遅れる。ロウズ、社会全体のことを考えるなら、奴らを排除するのは仕方のない事なんだよ。屠殺するのが哀れだからと荷車を豚に引かせるのが博愛か? 狼にも羊にも草を食わせるのが平等か? 違う。そんなものは欺瞞だよ。私は冷静に、理性的に社会を分析してるに過ぎない」

 得意気に語るモーリスに対して、ロウズは「そうか」とやはり大して興味もないように返事をした。ロウズも亜人たちに偏見はあるとはいえ、ここまで徹底的に言われると居心地の悪さを感じずにはいられなかった。裏稼業の彼とて、仕事の結果として亜人を手にかけることはあるものの、亜人という理由で彼らを手にかけることはなかった。

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