贋金
その頃、ネス・ダニエルズは父の心配通り、使用人のエルフの女と屋敷内の人気のない場所へと向かっていた。しかし、確かに女癖の悪いネス・ダニエルズではあったが、今回に限ってはどちらかといえば女の方からの誘いだった。隙だらけの無防備な笑顔と甘えるような目つき、据え膳食わぬはとネスが声をかけると、女はここではまずいから、と彼を勝手知ったる屋敷の奥へと案内して行ったのである。多種多様な種族が住まいそして各々の文化があるこの国だが、エルフと人間は特に美的感覚が近く、さらに人間にとってはエルフは美しさの象徴でもあったため、ネスは女に導かれることに幾ばくの疑問があったものの、それを上回る、美しいエルフとの情事への期待で建物の奥へ奥へとついて行った。
「大丈夫かい? こんな奥まで」と、薄暗い室内を見渡しながらネスは言った。
「あら、怖いのですか? ダニエルズの次期領主ともあろう方が。存外可愛らしいのですね」と、女は蠱惑的な笑顔を浮かべた。先ほどの無邪気さとはうって変わっていた。
からかわれたにもかかわらず、ネスはその言葉に性器を撫でられたような愉悦を感じ、笑顔を隠すことができず口を緩めてしまった。
「いや、俺は大丈夫さ。だが、君もこんなところまで来てしまっては、ヘルメス候からお咎めがあるんじゃないのかい?」
「大丈夫ですよ。その時は貴方様が口をきいてくださるのでしょう?」
二人が入ったのは書斎だった。しかしただの書斎ではなく、図書館くらいはあろうかという大掛かりな場所だった。女は手にしていたランプに明かりを灯し、さらに室内の奥へと進んでいく。ランプに照らし出される女の顔は蠱惑的どころか怪しさすら感じさせた。ネスはてっきりここで事に及ぶのかと思ったが、女は本棚の奥に手を入れ何かを探し始めた。
「……何をしてるんだい?」
「周りに見つかるとことですから……。」
「ここまで来れば大丈夫だろう? 皆パーティーに夢中だ」
「実は私、声が大きいの」
「ほう……。」
堪えきれずにネスの顔がだらしない笑顔になった。
だが、その笑顔はすぐに消えた。娘が何かを探り当てると、本棚が音を立てて動き、その陰から地下へ続く階段が現れたのだ。召使としけこむにはあまりにも仰々しい仕掛けにネスは息を呑む。
「さあ……行きましょう」
そう言って階段を指し示す女の顔には、ランプの光で濃い陰影が浮かび上がっていた。ネスにはまるで、女が自分を地獄へと誘う悪魔のように見えた。
「ここって……まずいんじゃないのか?」
「ご心配は無用ですよ。私たち使用人にとっては公然の秘密ですから……。もしかして怖いのですか?」
ネスは素直に怖いと言いたかった。しかも自分はダニエルズ侯国の次期領主である、自分を狙わない者がいないとも限らない。だが、ここは何といってもヘルメス候の屋敷だ、そこまで大変なことは起こるまい。それに自分にだって武術の心得はある、女相手に何を心配するのか。ネスは階段を下る女の後をついていった。
階段を下りきると、そこには鉄と油の臭いが充満していた。女が照らすと、部屋には大きな機械が設置してあるようだった。どうやら何かを印刷する場所のようだ。
「……ここは?」
「さぁ? 私たちもよくは知りません。ただ、ここなら
そう言って女はネスの体に擦り寄り、胸元を掌で撫でさした。しかし、こう暗いとあってはムードも何も作りようがなく、何より細い絹糸のような美しい金髪と白い肌のエルフの姿を拝むことができない。ネスの気持ちは萎え始めてしまっていた。
「どうにもここじゃあ、気分が乗らないなぁ」
「そんなつれない事おっしゃらないで……。」
女が更にネスに体をなすりつけるように近づく。ネスはちょうど後ろにあったテーブルに腰を下ろし手をついた。すると、その手に何か紙の束のようなものが触れたのに気づいた。
「……なんだこれ?」
手にとってみると、それは札束だった。
「……こんな所に?」
さらに注意深く見るとテーブルの上には大量の札束が乱雑に積んであり、中には散らばっている紙幣さえあった。ここは金庫なのだろうか、しかしそれにしては整理されていない。ネスがランプを手に取り周囲を照らすと、奇妙なものが目に付いた。それはまだ切り分けられていない、刷り終えたばかりの紙幣だった。
「まさか……。」
ネスはさらに周囲を照らす。すると、まだ印刷さえされていない無地の印紙が別のテーブルに置いてあった。
「これは……とんでもないぞ」
印紙があり、原版があり、印刷機がある。偽札の製造。それがここにある物証の意味するところだった。
「なるほど……これがヘルメスの戦後好景期の正体か……。」
「ねえ、一体どうしましたの?」
「いや、何でもない……。わけじゃないんだが、ありがとう。とんでもないことになりそうだっ」
ネスはこの重大な事実をいち早く父に報告しなければと、女を置いて足早に大広間へと戻って行った。しかし彼は目の前の衝撃で、大事なことを見落としていた。そもそも何故この女が、自分をここに連れてきたかということに。
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