ふたつの過去

 サマンサと別れたあと、私はマルコムの店に足を運んだ。店ではいつものように黒い肌の男がピアノを弾き、女が歌を歌い、そして酔っぱらいたちはそれを聞いているのか分からない様子で世間話で盛り上がっていた。誰かの家に子供が生まれた、女房の飯がまずい、義理の両親が病気をした、以前にも聞いたような話が別の人間を通して話される。まるで同じ台本を持ち回りで諳んじているようだった。

 やかましい方が却って頭が静かに回転することもある。私はその喧騒を背景に酒を飲んでいた。店主おすすめのその火酒は蒸留所が海の近くにあったらしく、潮の香りがほのかにする気の利いた逸品だった。にしんの酢漬けと合わせると特に味わいが深くなる。残った酢漬けの汁をパンにつけてほおばり、火酒を一気に飲み干してから熱いため息を吐き出した。

 空のグラスを脇に置き、煙草を取り出し爪でマッチをこすって火をつける。サマンサから煙草を咎められ家では吸えなかった反動で、普段より大きく煙を吸ってから一斉に吐き出した。白い煙がカウンターの向こうに座る店主の姿をおぼろげにした。


 ロラン、イブ・ヘルメスはヘルメス候国の領主、アイザック・ヘルメスのとして生を受けた。幼い頃から淑女としての教育を受けた彼女だったが、彼女が興味を示したのは人形遊びではなく男の子たちと野を駆け回ることであり、得意としていたのはテーブルマナーや楽器の演奏ではなく、法術や剣術の稽古だった。得意というのは、女が真似事をするにはというレベルではなく、純粋に他の兄弟を上回るほどで、特に法術に関しては霊廟で老賢者の法術を破って見せたのが何よりの証拠と言えるだろう。鍛錬したら鍛錬した分だけ技量が上がる、というのが剣術を教えたウォレスと法術の教師の言葉だった。

 そしてどういった理由かは不明だが、彼女は双子の兄のロルフに対しては幼少の頃より露骨ではないものの敵対心を抱いていたという。だがロルフには何故自分が妹に嫌われるのか、まったく身に覚えがなかった。まるで男達が意図しないところで彼女を傷つけ続けていたかのように、彼女はいつも壁を作り自分の心の奥を覗かせることはなかった。

 そのロルフとの壁があったせいで、二人が成長するにつれ軋轢は大きくなっていった。成長に際限のないイヴに対し、限りの見えるロルフ、ただでさえ女に負けているということで複雑な感情が生まれるのが避けられないにもかかわらず、以前からのひずみがより彼の妹に対する憎悪を育てていった。さらには、父・アイザック・ヘルメスの、「女に負けている息子」に対する眼差しは日に日に厳しくなり、まさに不穏の禍を広げる燃料は投下されるばかりであった。

 そんな差がつけられるロルフが唯一、純白のシーツのように完璧な妹に見つけた一点のシミ、それが彼女の性的な嗜好だった。イヴは男装を趣味として好むのではなく、あたかも中身が男であるかのように当然の如く男装を選んだ。まるで、現世に受肉した体ではない神がイデアとして与えたもうた、自分の本来の姿に近づけるように。さらには女性に対する眼差しも、男が女を見るように、甘く恍惚とした光が奥底にあったという。ロルフはそんな妹を変人であるかのように非難することで何とか自分の体面を保とうとした。エルフたちは宗教上の理由で同性愛を禁忌していたので(ただし、教典には明確に同性愛を否定している箇所はない)、彼女のそういった気質は格好の攻撃材料だったのだ。

 螺旋を下っていくかのように二人の関係は悪化する一方だった。そしてそれは屋敷に使える侍女の娘、タバサ・カイルをきっかけに終局地点を見ることになる。元々は幼馴染程度だったイヴとタバサの関係は、しかし二人が成長するにつれより大きく深いものになっていった。それは幼馴染の淡い友情というには

濃厚過ぎた。タバサの姉サマンサ・カイルが、自身は男との恋愛を経験していなかったにもかかわらず、二人の感情が恋なのだと確信できるほどに。

 常に自分の上を行く妹に対し何とかして一矢報いたい、そんな日頃からの鬱憤で、悪魔の囁きのような閃きに簡単にロルフは心を乗せられてしまったらしい。悪魔は彼に、タバサを標的にした悪戯を思いつかせてしまった。それは、タバサを男のモノにすることで、男ぶったイヴに自分との差を、正真正銘の男とは何であるかを見せつけようというものだった。イヴには劣るものの、ロルフも名門の家柄だけあってエルフの中でも特に美丈夫であり、さらに武人の父の血を引いているため体つきも逞しかった。既に多くの名家から縁談を持ち込まれるほどで、自惚れとはいえロルフにも少しの自信があったのだ。

 だが、その自信は娘の無下な態度で打ち砕かれた。ロルフからのオペラの鑑賞の誘いを断り、タバサは以前からのイヴとの約束だった山での山菜採りを選んだ。平民の侍女の娘を、貴族でさえ鑑賞の容易ではない高価なオペラに誘い断られ、あまつさえ女との山菜採りを優先される。砕かれ踏みにじられたプライドは代償を求めた。それも、陰湿で邪悪な代償を。

 二人が山菜採りに出かけた日、ロルフはカルヴァンをはじめとする悪友たちと共謀し、二人が山奥まで来るのを待ち構えた。友人たちに賊を演じさせ二人を襲わせて、イヴが苦戦しているところをロルフが助けると見せかけ突如裏切り、タバサを人質に取りイヴを封じるという子供じみた作戦だったが、不幸にもロルフを信頼しきっていたタバサは、簡単にロルフの策にはまりイヴは男達に拘束されてしまった。

 男達は捉えられたイヴの前でタバサをはずかしめ、ロルフは積年の恨みを晴らしたかに思えた。しかしロルフの復讐は彼の想像以上、また必要以上の結果をもたらした。タバサがロルフの子を孕んでしまったのだ。

 だがヘルメス候が息子と侍女との落胤を認めるはずもなかった。彼はお抱えの医師にタバサの体から赤子を削り取るよう命じたのだ。だが、男達がえぐったのは娘の体だけではなかった。心もまた、修復不可能なまでに傷つけていた。

 侍女の娘であるタバサが、裕福な家の者ではなければ世話になることのできないグリーンヒルで療養していたのはそういった経緯があった。レインメーカーとはいえ、まだ人の心の残っているヘルメス候はせめてもの贖罪にと、また息子の罪を見て見ぬふりをするための厄介払いとして、入院の書類にサインをしたのだ。


 整理すると、大まかな流れは同じだが決定的な所がロランから聞かされていた話と違っていた。しかし、それでもやはり私にはロランが嘘をついているとはどうしても考えられなかった。体を重ね合わせた故の情というわけではない。彼からは、私を騙そうとこちらの様子を伺いながら物事を天秤にかけている感じはしなかった。ロランは自分の胸の奥にある魂の片鱗をぶつけていた。少なくとも彼の言葉にはそれを感じた。では何故、話が食い違うのだろうか。

 ロランは嘘をついてない。しかし、シスターも嘘をついてはいない。まるで、男にまたがり嬌声を上げるタバサと、男に押さえつけられ悲鳴を上げるタバサ、その両方が間違いのない過去として同時に存在するようだった。私は再び大きくため息をついた。物思いにふけすぎていたせいで、一回吸っただけの煙草の半分以上が灰になってしまっていた。

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