最終章 ダスト・マイ・ブルーム

浮上

 暗く、静かで、そして澄んだ湖の底から水面を見上げる。太陽が風になびく旗みたいに水面で揺れていた。胎児のように丸まった体勢から、勢いよく水面みなもから顔を出す。かなり長く潜っていたと思ったのに、湖の周辺は潜る前と全く同じ景色だった。

 湖畔に戻り全身を振って水を切り、手ぬぐいで簡単に体を拭いていると、一斉に湖畔の木々が揺れた。夏の南風だったが、濡れた肌にはとても涼しかった。言いようのない火照りは少しは収まったようだ。あくまで、少しは。傷はまだ十分に痛む。

 服を着て元の場所に戻ると、ディアゴスティーノの馬車はまだ同じところにあった。馬車に蔦などはもちろん絡まっておらず、水浴びをする前となんら変わりはなかった。やはり時間はそう大して過ぎてはいなかったということだ。

 馬車に乗車すると、中ではディアゴスティーノが機嫌悪そうに煙草を加えていた。ディアゴスティーノは私を見ると残り少なくなったそれを窓から投げすてた。

「……先に帰っててくれと言ったろう?」

「……

 ため息をつく私を尻目に、ディアゴスティーノが客車の壁をたたいて御者に合図を送った。馬車は再び走り始めた。


「……あの野郎か?」ディアゴスティーノが軽く鼻を鳴らして言う。やはり生粋フェルプールだけあって鼻は良い。

「……だったら何だ?」

「……別に」

 私は馬車の外を見る。馬車はベンズ村に到着していた。

 視線だけをディアゴスティーノに向けて言う。「……もしかして、妙なこと考えていないよな?」 

「妙なこと? そりゃあ、オメェが考えてるとおりのことだよ」

 ディアゴスティーノの口調は重く、そして鋭くなっていた。

「あのなぁ、これは私の問題だ。私がケリをつける」

「オメェがケリをつけるだぁ?」ディアゴスティーノがせせら嗤って言った。「どうせオメェのことだ、泣き寝入りか、やるにしてもちょいと小突いて終わりって程度だろうが」

「……別に殺すほどのことじゃない」

「それを決めんのはオメェじゃあねぇのよ」

「……ディエゴ、もう一度言うぞ? 勘違いするなこれは私の問題だ。この生き方をした時からは覚悟の上だ。ケリは私がつける」

「……クロウよ、勘違いしてんのはオメェなんだよ。オメェと同じように俺にだって曲げられなぇ生き方がある、どれだけ時代が変わろうとな。血族が侮辱された、俺にはもう報復しか見えねぇ」そこにあったのは街の建物の最上階、陽のあたる窓際でそろばんを弾く商売人の目ではなかった。建物の影、白昼の死角で獲物を待ち構えて光るならず者のものだった。「言っとくがなぁクロウ。オメェが邪魔だてするってんなら、あだ?」


 フェルプールと人間たちは、同じ言葉を使うのに会話ができない場合がある。彼らの見えない尾っぽを踏んでしまった時などは特に。その尾っぽは譲ることのできない気高さでもあり、それを無くさなければならないのであればいっそのこと絶滅した方が良いとすら思っているような、フェルプールとはそんな面倒な種族なのだ。半分その血が流れている私にとっては、決して分からないことというわけでもないのだが。


「……勝手にしろよ」

「ああそうだ。勝手にやらせてもらう」

 どいつもこいつも勝手だよ、と私はつぶやいた。


 生家に着くと、家の前には何故かサマンサが待っていた。服装も、これまでのような動きやすく改造した修道服ではなく、普通に教会で見かけるような、首まで覆われた重苦しく動きにくいものだった。服装のせいで攻撃性が包み隠され、代わりに彼女の中にあった清純さと慎み深さが現れているようだった。

 サマンサは私を見るや、目を細め首を振り、人の家だというのに何の遠慮もなしに先に入っていった。私が躊躇していると、まるで自分が家の主であるかのように「お入りなさい」と入室を促す。どうやら変わっていたのは面構えだけだったようだ。


 部屋まで連れて行かれると、サマンサは全く声のトーンを変えることなく「ベッドに座って服を脱ぎなさい」と言った。

 私が面をくらっていると、サマンサがディアゴスティーノを一瞥した。ディアゴスティーノは肩をすくめて部屋の扉に手をかけた。

「……ディエゴ」と私が言う。

「俺ぁ相談したんじゃあねぇ。決断してんのよ」

 そう言い残し、ディアゴスティーノは部屋を出ていった。

「……何か?」

「いいや、シスターがあずかり知らないことさ」と私は言い、永遠にねと付け加えた。

 シスターは怪訝な顔をして一旦部屋を出ると、洗面器に水を張って戻ってきた。

「脱ぎなさいと言いましたでしょう」

 私は言われる通りに、彼女に背を向けてから上着を脱いだ。背中の傷を見たサマンサの息を飲む音が聞こえた。

「……全部です」

 私がサマンサを見ると、サマンサは眉ひとつ動かさない表情だった。私は仕方なくジーンズも脱いだ。

「……少し痛みます。我慢なさい」

 サマンサは私の背中にアルコールを染み込ませた脱脂綿をあてつけた。痛みで私の口から空気が漏れる。

 丁寧に私の背中を洗浄した後、サマンサは「そこに横におなりなさい」と枕元を指し示した。さっきからやたら命令口調なのは、私に遠慮をさせないための彼女なりの気遣いなのだろう。


 サマンサは、寝そべっている私の横で祈りを始めた。体の痛みが和らいでいくのが分かる。特に昨晩散々やられた箇所が。

「目を閉じて痛みが消えるところを、できることなら傷そのものが消える光景を想像することです」

「光栄だね、シスターに治療術ヒーリングを施してもらえるなんて。熱心な信者に対してや職務以外じゃあ使えないんじゃないのか?」

「神を信じ己の身を委ねるからこそ治療術ヒーリングに効果があるのです。無駄口を叩いでいる暇がおありでしたら、言われた通りになさい」

「アイアイサー」

 サマンサのため息が聞こえた。


 治療が終わると、サマンサは黙々と道具を片付け始めた。てっきりディアゴスティーノのように小言を言われるのかと思いつつ着替えたが、彼女は何も言おうとしない。

「……何かあったのかい?」

「何故です?」

「そりゃあ……服装がいつもと違うじゃないか」

 サマンサは無言で片付け続けていたが、途中で手が止まりうつむいたまま動かなくなった。

「……シスター?」

 サマンサが、少し顔を上げた。「……今朝、妹が亡くなりました」

「……え?」

 背中を向けたままでサマンサ話す。「グリーンヒルの近くの池で入水※しているのが早朝に見つかりました」

(入水:じゅすい、水中に飛び込んで自殺すること)

「……そうか」

 サマンサは机の上の彼女の手さげを手に取り、中から封筒を取り出して私に渡した。

「……これは?」

「……妹が、あなた宛に」


 封筒を開くと中には一枚の便箋が入っていた。

 サマンサを見るが、彼女は私の前に座り顔をそらしたままだった。

 

 『クロウさんへ


 この手紙を貴女が読んでいるということは、きっともう私がこの世にいないということでしょう。家族でもない貴女にこんな遺書のようなお手紙をお渡しするなんて迷惑かもしれません。けれど、今回の件には貴女も無関係ではないどころか、深く関わってしまっているので貴女にお手紙を残すことにしたのです。きっとイヴ様もそう望まれていることでしょうから。

 元々、今回のことが終わったら私は命を絶つ予定でした。理由は実に複雑です。ありていに申しますと、何よりまず罪悪感がありました。あの方の為に手を汚してしまったことには後悔はありません。闇市で毒を購入し、ロルフ様の食事にそれを盛って寝たきりにしたことに対しては、良心の呵責などはありませんでした。あの方はそれほどのことをやったのですから。けれど、イヴ様をも手にかけたことにはどうしても耐えられませんでした。

 貴女はもうお気づきでしょうが、ゴブリンを雇いイヴ様と貴女にけしかけたのは私なのです。彼らに試練の間を狙ってイヴ様を亡き者にするようにと。

 イヴ様はあの事件以来、私に砕身していただく一方で、ヘルメス家の後継者になろうという夢を本気で見始めていました。それは美しい夢でした。けれどあまりにも幼い夢です。いくら文武に優れていようとも、女であるイヴ様がヘルメス家の世継ぎになどなれるはずがありません。そしてその上で私を妻に迎えるなどなおさらです。慣習に偏見、私たちには戦わなければならない敵が多すぎました。私はただあの方がそばにいるだけで良かったのですが、あの方のあまりにもまっすぐな眼差しに私は心を打ち明けることができませんでした。そして、そのただそばにいて欲しいという私の些細な願いもいずれは叶わなくなります。あの方がいかに拒もうとも、いずれは良家の殿方との縁談を受け入れなければなりませんし、そうなった時には私はあの方の前から姿を消さなければなりません。それでもあの方はこう仰ってくださいました。たとえ後継者になれなくとも、またたとえ誰も私たちを理解しなくても、この世界のどこかに居場所を見つけてひっそりと隠れるように二人で生きていこうと。おかしいでしょう? そんなことあるわけないのに。

 愛しているからこそ殺さなければなりませんでした。私の愛が、あの方の愛が本物であるうちに。そして私たちは一番美しい時に終わるべきでもありました。ふたりが崇高であるうちに。時間はすべてを台無しにします。見果てぬ夢を見続ける中でふたりの愛を損ない、私たちを醜く老いさらばえさせ、そして醜く弱った私たちを世間は追い詰めていくことでしょう。本当に美しいものが何なのか、そしてそれがいつまでなのか分かっているのに、それでもそれを台無しにして時間が過ぎるのをただ待つなんて必要があるでしょうか?

 罪悪感はあります、けれど後悔はありません。クロウさん、同じ女の貴女でも私たちのことは理解できないのかもしれません。ただ知っていて欲しいのです。私はあの方との愛に殉じたのだと。世界には理解されない、しかし崇高な愛があったのだと。


 タバサ・カイル』


 本当に、勝手だな。どいつもこいつも。


「……愚かな娘です」サマンサが口を開いた。「聖職者としてはあのがやったことを認めるわけにはいきません。ですが、姉としては……。」

 サマンサは修道服の裾を握りしめ押し黙ってしまった。聖職者であることと家族であること、容易に妥協点を見つけられる生き方ではない。修道服で押さえ込んでいる相克が、今にも均衡を崩そうとしていた。それが彼女を余計に可憐に見せるのだが、この場で手を差し伸べることは彼女の最も望まぬところだろう。そのためにこそ、彼女は修道服で身を包んでいるのだから。


「……シスター」

「なんでしょう?」


「……ってのは何だい?」

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