ビフォア・ファントム㉟祈り

 その頃、シーナは暗闇に染まった獣道を手探りで下っていた。田舎育ちだけあって山は慣れているものの、追っ手を心配し灯りを使わなかったせいで何度も転び、山を下りきった後は服は泥に汚れるどころか所々破け、体は軽い擦り傷と切り傷だらけになってしまっていた。

 シーナは山を下っていた時から目印にしていた民家の明かりまでたどり着くと、光の漏れる窓の影からこっそりと中の様子を伺った。どうやら、この家に住んでいるのは老夫婦の二人だけのようだった。

 シーナがもう少し中の様子を見ようとした時、民家の扉が開き、水を汲むために桶を手にした老婆が出てきた。

 鉢合わせになり見つめ合うシーナと老婆。彼らが的なのか味方なのかも分からなかったが、シーナは賭けに出た。

「おばあさん、お願いだよ。かくまって!」

 シーナは生まれて初めて手を組んで神に祈る所作を人間に対して取った。実際その時の彼女にとっては、目の前のこの老婆が願いを聞き入れてくれれば、その後の人生で一切神が願いを聞き入れてくれなくとも良い思うほどに必死の願いだった。

 服は汚れて破れ、傷の目立つ二十にも満たない女の願い。普通の老人ならば心が動かされそうなものである。老婆は山の向こう、娼館の方を見てから何かを察し、シーナに自宅に入るように促した。

 部屋の暖炉の前にはロッキングチェアでパイプをふかしてくつろいでいる老人がいた。彼は妻に連れられて入室してきたシーナを見て驚いたようだった。

「おや、婆さん。そのはなんだい」

「……迷ったんですって」

 老人と違い、老婆は淡々と言う。

「迷った……。」

「さああんた、そこに座りなさいな」と、老婆はシーナに台所のテーブルに座るよう言って、そして彼女の服装を見て悲しげに目を細めた。

「何も言わなくてもわかるよ。あんた、娼館から逃げてきたんだね」

 シーナは二人を見てから頷き、老夫婦は顔を見合わせた。

「山から灯りもつけずに下りてきたんだろう? 服がボロボロだ、着替えなさい」

 老婆が目配せをすると、老人は遠くに水でも汲んでくるかと、そそくさと退室していった。

 夫が出て行ったのを確認すると、老婆は台所から濡れたタオルを持ってきてシーナの顔をふいてあげた。

「まぁべっぴんさんだね。ほら、服を脱ぎなさい」

 そう言われてシーナは服を脱いだ。老婆はその彼女の服を洗っとくわねと部屋の奥に持って行ってしまった。下着姿のシーナは、少し居心地悪く部屋を見渡す。

「おばあさんたちは二人きりでここに?」

「そうよ」

「お子さんとかは?」

「ずいぶん前に独り立ちしたわ」

 新しい服を持ってきてくれるのかと思いきや、老婆は何も持って来ずに部屋に戻り、シーナの正面に座った。

「やっぱりあんた、娼館から逃げてきたの?」

 シーナは目をそらした。

「ま、言わなくてもわかるさ」

「……あの、おばあさん。悪いんだけど、お水もらえなかな? ずっと歩きっぱなしだったから、喉がカラカラで……。」

「あ、ああ、悪いね気がききませんで」

 老婆は迷惑そうではないが、妙な物腰で台所の水瓶から水を汲んでシーナに渡す。

「ううん。押しかけたのはアタイなんだから……。」

 シーナは水を受け取ると一気に飲み干した。そして、活力の戻り安堵した体は彼女を休めようと眠りにいざなった。シーナの頭が、大きくこっくりこっくりと前後する。

「ああ、ごめんよ。何か疲れがどっと……。」

 シーナは少し呂律の回らない口調で言う。

「まぁ、ゆっくりしていきなさいな……。」

 シーナの頭は抵抗しようとしたものの、体は眠りに落ちていった。

 

 シーナが仮眠から目を覚ます。外はまだ暗い。どうやら、それほど長くは眠っていなかったようだ。老人もまだ帰ってきていない。

「おや、起きたのかい。もうちょっと寝てても良かったのに」

「ありがとう……。あの……。」

「ん? なんだい?」

「もし迷惑じゃなかったら、少しここでかくまってくれないかな……。その、このまま暗い夜道を歩き続けても、なんの準備もなかったから行き倒れちゃうから。ほんの一日でいいんだ。一日休めば、誰かが追ってきても逃げられる体力も戻ってるだろうし」

「だけど、の娼館の主人は凶暴な猟犬を飼ってるって話だけどね……。」

「犬は……多分大丈夫」

「へぇ?」

「故郷で使ってた狼用の罠を仕掛けたんだ。だから、アイツらだって簡単にアタイのことを見つけられやしないはずだよ」と、得意げにシーナが笑う。

「……アイツら?」

「ああ、娼館のろくでなしどもさ……。アイツらから何としても逃げ切らないと……。」

 老婆は無表情でうなづいた。


 外で物音がした。老人が帰ってきたのだろう、そう思って玄関の扉を見ると、そこにいたのはガラの悪そうな三人の男たちだった。老人はその三人の後ろに立っていた。到底、老人の親戚とも酒飲み仲間とも言えそうにない。

 驚いてシーナは老婆を見た。

 愛しい人との出会い、親しい人との別れ、人はただ生きているだけで様々なものに触れ、また様々なものを失っていく。その中で、常に何らかの心の機微があったはずであろうはずなのに、この老婆はこれまでの長い人生で情など一切培ってこなかったというほど冷たい表情で言った。


じゃない。だよ」


 老婆がシーナに服を脱がせたのは時間稼ぎのためだった。また例え彼女に逃げられてしまっても、寒さで動けなくさせるための。


 抵抗する気力を失ったシーナは男たちに両腕を引っ張られ、なすがままに娼館へと連れ戻された。帰路の最中、絶望のあまり却って目からは涙が失われ、シーナは乾いた瞳でただ虚空を見上げて続けていた。


 娼館へと至る山道の中、男の一人が鼻息を荒くしながら仲間たちに相談を持ちかけた。どうせこの娘はこれまでなのだから、自分たちで楽しもうということだった。

 男達は藪の中にシーナを連れ込み、思う存分に欲望のすべてを吐き出し続けた。強姦するだけでは飽き足らず、抵抗もしていないシーナの顔を殴り、彼女が苦痛に身をよじる様を見ては愉悦に満ちた笑い声をあげた。

 最後には祈るしかないと信じていた少女は、男たちの欲望を浴びながら星に向かって祈り続けていた。その瞳には、満天の星空を走る流れ星が絶え間なく映っていた。


 男たちの欲望が枯れ果てた後、行き倒れの死体と区別がつかない程に汚れた状態でシーナは主人の元に返された。カールスはもちろんそんなシーナを案じたりはしない。無言で、しかしありったけの力で彼女の手首を掴むと、暴虐の待つ自分の部屋へと引きずり込んでいった。


 夜明けまでは、まだ遠かった。

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