ビフォア・ファントム㊱暴虐の雨

 娼館の奥、暴虐の心臓部から聞こえる悲鳴。たったひとりの少女から発せられた声だったが、それは娼館中に響いているかのようだった。あまりにも陰惨で客が引きかねないので、娼婦たちがバリーに何とかするよう言うが、主人の些細な体調不良すらも理解するバリーは、もはや嵐の過ぎるのを待つしかないと諦めきっていた。

 クロウはカールスの部屋に止めに入ろうとするも、それをバリーと娼婦たちが必死に止める。彼女たちにとって、これ以上の飛び火は願い下げだった。


「よくもやってくれたなぁこの取るに足らん売女が! 俺の大切な家族をっ!」

 カールスはステッキで何度もシーナの身体を打ち据える。シーナはただ悲鳴を上げるだけだった。もう、どんな哀願も無駄だと分かっていた。既に何度も張り手と殴打をくらっていたシーナの顔は真っ赤に腫れ上がり、薄皮は湯に通したトマトのように破れ血を流していた。

「こんなもの喰わせやがって、よくも、よくも!」カールスは罠用の肉を握り締め、そしてシーナに叩きつけた。

 カールスは落ちた肉を再び拾い上げて、うずくまっているシーナを押し倒し馬乗りになる。

「同じ目に遭わせてやる!」

 そう言ってシーナの口に生肉を押し付けた。シーナは口をきつく閉じ、顔を背ける。

「食えよ! 食えって言ってるだろうが!」

「む、無理……無理です」

「食えっ、食えええええええ!!」

 カールスは絶叫しながらシーナの口に手を突っ込み、両手で口を無理やりこじ開けにかかった。耐え切れずにシーナの口が開くと、さらにカールスは顎を外さんばかりに彼女の口を両手で広げた。もはや、それは折檻でも拷問でもなかった。男は純粋に女の体を破壊しにかかっていた。シーナの顎関節が、可動域を越えてミリミリと鈍く危険な音を立て始めた。

 殺される! シーナは改めて目に涙を浮かべ、自分の顎が壊される恐怖にパニックに陥り四肢をのたうちまわらせた。

「顎を外して食い易くしてやるよぉ!」


 外にいたクロウは「彼女殺されちゃうわ!」と、部屋に入ろうとするもバリーに行く手を阻まれた。もっとも、部屋には鍵がかけてあり、バリーがいなくても開けることはできなかったのだが。何より、バリーは主人の活動の限界時間と自分が止めるに能う頃合を知っていた。その時まで彼は、申し訳ないがそれこそ命を落とさないギリギリまでシーナに耐えてもらうつもりだった。バリーは全てを絶妙にはかりにかけていたのである。


 絶叫し力を込めるカールス。人間が本気で物を噛む力は、たとえ女とはいえ大の男の指を食いちぎるほどあるものの、カールスは興奮のあまり初老の人間とは思えないほどの力で顎を開かせていた。

 歪な絶叫が室内に響き、カールスの暴力が限度を超えたことを察したバリーは鍵を開けて主人の部屋に飛び込んでいった。

「カールスさんそれ以上はいけません!」

 バリーはカールスの両腕を羽交い絞めで、しかし主人を傷つけることなく押さえつけた。

「邪魔するなバリー!」

「これ以上やると殺してしまいます!」

「俺はそのつもりだ!」

「先日、この地区の刑部のお役人が異動になったばかりです。問題が起きればガサが入りますよ!」

 カールスが振りほどこうとするも、絶叫と興奮で体力を使い過ぎたカールスはバリーに力負けし、さらに息切れを起こしてシーナの横に倒れこんだ。カールスの体中からは汗が吹き出し、さらにその汗も果てて、年相応の干からびた老人がそこに倒れていた。

 体力を使い果たしたカールスが起き上がって自室を出る。部屋の前に控えていたクロウに何かを言いたげだったが、老人にはその力もなかった。残された体力でバリーに目配せをすると、主人の意図を察したバリーはシーナの容態を確認し始めた。


「ひどい……。」

 ほんの数刻前の、昼間の面影を残さないシーナを見るなりクロウが絶句する。

 バリーはそんなシーナの脈をとり、彼女がまだ生きていることを確かめていていた。

「医者を呼ばないと……。」と、バリーが言う。

「もちろんよ……。ねぇバリー」

「なんだいクロウ?」

「これを見て貴方何も思わないの?」

「え?」

「目の前で女がこんな仕打ち受けて、貴方少しでも疑問に思うことないわけ?」

「それは……分かってますよ」

「“分かってます”? じゃあこのままアイツの好き勝手やらせるっていうの?」

「僕だって何とかしたいんです。彼のやってることは人として許されることじゃない。僕だって怒りを覚えます。でも、カールスさんは娼館の寄り合いの中でも実力者で町の人間の多くも彼の味方なんです。それに役人とだって繋がりがあって、今日は何とか止められたけど、娼婦の一人や二人殺したって彼ならうまく話をつけてしまうんですよ」

 声を震わせないよう気をつけながらクロウは言う。「……とっとと医者を呼んで。私は彼女を部屋に連れて行く」

 クロウはシーナを抱きかかえて寝室に連れて行った。


 ベッドに寝かされたシーナが、クロウが傷口を濡れたタオルで拭いた痛みで目を覚ました。

「あ、ごめん。痛かったでしょ」

 シーナは腫れ上がって塞がったまぶたの間からクロウを見る。

 シーナを少しでも安心させようとクロウが言う。「もう少ししたら医者が来るからね」

 瞼と同じく腫れ上がった口をシーナが動かす。

「……何? 無理して喋らなくていいよ?」

「……アタイの顔……どうなってる?」

「……え?」

「……酷いもんだろ」腫れた唇が歪んだ。多分自嘲しているのだろう。「これじゃあもう、客なんか取れないよね……。それどころか……。」

「大丈夫よ。腫れなんていずれ引くし、傷がちょっと残ったって化粧でなんとかなるって」

 寝室の扉が開き、エレナが入ってきた。

「クロウ、新しいお水持ってきたよ」

「ああ、ありがとう」

 クロウは新しい冷たい水にタオルを浸した。そして熱を持ったシーナの体を少しでも覚ますため、腫れの酷い部分に濡れたタオルをあてがう。

「痛むのは我慢してね……。」

 天井を見つめてシーナが言う。「……祈ったんだ」

「……え?」

「前に言ったでしょ……最後には人は祈るしかないって。だから祈ったんだ……ここから逃がしてくださいって……。」シーナの腫れた瞼の間から涙がこぼれ始めた。「でも、聞いちゃくれなかったよ……。神様もアタイを見放した……。」

「……違うよ」クロウが言う。「貴女をのはアイツ等よ。貴女の神様はまだ返事をしてない、きっとまだ考えがあるのよ……。」

 シーナが咳をし始めた。しかしそれは、咳ではなく泣き声だった。


 女の泣き声以外、沈痛な静寂を漂わせる部屋に医者が入ってきた。クロウは医者にお願い、と言い残して部屋を出ていった。医者が手当をするなら問題ないと思ったからだった。


 シーナがドアノブにシーツを括りつけ、首を吊っているのが見つかったのは翌朝のことだった。彼女の抉られた心の傷は、医者でももう治しようがなかった。

 他の娼婦たちが死者に触るのを忌諱きき※する中、クロウは冷たくなったシーナの体を抱きしめて泣き叫んだ。その激しい様は、泣き声というより獣が咆吼しているようでさえあった。

(忌諱:嫌う、嫌がる)

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