ビフォア・ファントム㉞逃亡者

 騒ぎのあとの帰り路、馬車の荷台の上で三人ともしばらく無言だった。特にシーナは、ほんの少し針で刺してしまえばハジケて正体を失うくらいに不安定な悲しみに沈んでいた。

 アリアがシーナを気遣いながら言う。「ねぇシーナ、あなたは騙されていたんじゃないのよ。ただ、夢を見てただけ」

 シーナが、返事の代わりに鼻をすすった。

「こういう仕事だからね。お金だけじゃないわ、夢を与えて夢を与えられ、そうやってみんな生きる糧にしてるのよ。すぐに慣れるわ……。」

 クロウが舌打ちをした。一瞬、険悪な空気が荷馬車の上をよぎった。アリアは空耳だったのだと思うことにした。

 シーナが溢れるような声で言う。「慣れるって……じゃあ、プライド捨てて生きてけってこと?」

「……あなたたちに大事なことを教えておくわ。本当のプライドというのはね? 自分の中にある確固たる信念をいうの。どれだけ蔑まれても馬鹿にされても、決して傷つかないものなのよ。自分の価値というのは、自分だけが知り得るものなんだから。だから今回のことも、しょうもない男との縁が切れた程度に思えばいいのよ。せいせいするじゃない? あんな男にわたしたちを脅かす事なんてできないわ」

「……どれだけ蔑まれても?」とクロウが訊く。

「そうよ、クロウ」

「どれだけ馬鹿にされても傷つかない?」

「ええ」

 アリアが目尻に皺を寄せ、暖かく柔らかい満面の笑みを浮かべた。

「……アリア」

「なぁに、クロウ?」

 つり上がったクロウの口角から白い牙がのぞき、瞳孔が細くなった目は金色に光っていた。

 豹変したクロウに、アリアは満面の笑みのまま凍りつきシーナは悲しみを忘れて息を飲んだ。


 そしてそのまま荷馬車が娼館に着くまで三人は固まったように沈黙し続けた。


 その晩、他の娼婦は接客中だったが、アリアは特別にカールスのをするために主人の部屋にいた。アリアは革張りの椅子にふんぞり返って下半身を露出しているカールスの陰茎を右手でしごき、睾丸を左手でマッサージしながら陰茎を勃起させる。娼館の女にはあらかた手をつけるカールスだったが、一通りつまみ食いをするものの、溜まった性欲を処理する場合には、自分のツボを心得ているアリアに任せるようにしていた。

 アリアが陰茎を口にくわえ舌で亀頭を刺激すると、カールスは喉を鳴らして呻いた。

「どうした。今日は妙に積極的じゃないか」

 アリアはカールスの性器を口に含んだまま目で微笑み、そしてより熱心に性器をしゃぶり始めた。

 自分は決してプライドを捨てているのではない。その証拠にこの男を見ろ。自分がその気になれば簡単に気をやらせることができる。自分は飼われているのではない、そのでこの男を支配コントロールしているのだ。嫌な仕事は逃げられるし、ここの金の流れだってある程度は教えてもらっている。自分は間違っていない、あれは跳ねっ返りの小娘の戯言なのだ。そう自分に言い聞かせながら、アリアは鼻息を荒く奉仕を続ける。

 カールスはいつもより積極的なアリアの髪を撫で首筋に指を這わせた。彼が裏庭で飼っている犬にそうするように。そして気まぐれに後ろ髪を鷲掴みにしてアリアの首を反らして性器から口を離させた。すると舌を出したままアリアの顔が離れ、アリアが恥ずかさを目で訴えるとカールスは満足げに口を歪めた。カールスはやはり犬にするようにアリアの髪をなで、それにアリアは嬉しそうに目を細めた後、再び陰茎にしゃぶりついた。

 カールスはそんなアリアを満足げに見下す。彼にしてみれば、賢しかろうが愚かだろうが大差はなかった。飼い犬は所詮、飼い犬だった。


 そんな淫靡な空気に充満している部屋に突然ノックが響き、切羽詰ったようなバリーの主人を呼ぶ声がした。

「なんだバリーあとにしろっ」

「それが……シーナさんが!」


 シーナが逃亡した報はすぐに、客がいることなどお構いなしに娼館中に知らされた。

 あの田舎娘がぁ、と思いつく限りの罵詈雑言を口にしながらカールスは憤怒で肩をいからせ裏庭の犬小屋まで向かった。犬小屋とはいえ、そこは獰猛な野獣を飼育するような鉄格子の檻だった。そして、その中には彼の命令があれば聖職者であろうと喉笛を食いちぎる頼もしい下僕たちが主人の命令を待っているはずだった。だが……。


「何だ? どうしたんだお前らっ?」

 カールスが犬小屋で目撃したのは、うずくまってか細い声を上げて主人に憐憫を誘う眼差しを送る猛犬たちだった。もはや彼らには猟犬の面影はなく、座敷犬よりも弱々しくなっていた。いくら主人が声をかけようとも、また鎖を外そうとも犬たちは動くことができなかった。

 カールスが犬たちの横に落ちている生肉に気づいた。自分が与えている餌と違う、そう思ったカールスが手にとってみると、その生肉には鋭く削った弾力のある木の枝が丸めて包みこんであった。それはいったん犬が口に入れてしまうと、時間とともに肉が消化され、胃の中で木がバネのように暴れる仕組みになっている、シーナの故郷で使われていた害獣を駆除するための罠だった。


「あのガキゃあ許さんぞぉ!」

 カールスが犬の代わりに吠えるも、ただ夜空に虚しく響くだけだった。

 そんなカールスを鉄格子のかかった窓から見下しながらクロウがほくそ笑む。

「シーナ、いけそうじゃない」

 だがクロウと違い、娼館の女たちはまったく笑顔を見せることはなかった。それどころか、この先に訪れる悲劇に顔を曇らせているようでさえあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る