ビフォア・ファントム⑫死神の情

 その日の夜は、フェレロはキャバレーに顔を出さなかった。特にフェレロが来ない日も珍しいわけではなかったので、クロウは先輩の踊り子の接客を手伝いながら一日の仕事を終えた。


 クロウは夜の仕事ということもあり、店を出るのが深夜でほとんど帰宅がフェレロよりも遅くなるのだが、長屋に帰るとフェレロはまだ帰っていなかった。そういうことは同棲中に幾度かあったものの、その度にフェレロの様子がおかしいこと、支配人にフェレロのことに対して質問されたことが気がかりで、クロウは一度は帰宅していないだろうかと部屋の中を探し回ってみた。だが、帰ってきていた形跡は全くない。仕方なくクロウは寝支度を始め寝床についたもののやはりフェレロは帰ってこない。

 寝ていればそのうちに戻ってくるだろう、そう言い聞かせてクロウは就寝した。胸騒ぎはしたものの、疲れ果てていた彼女はしばらくして眠りについた。


 しかし夜が完全に明けて目を覚ました時、その隣にフェレロの姿はなかった。取り巻きの誰かのところに泊まったのだろうか。フェレロが帰ってきた時の為に朝食を作っても、部屋の掃除をしてさらに昼食を作っても彼はまだ帰ってこない。

 フェレロの分の昼食を見ながらぼおっとしていると、部屋のドアをノックする音がした。

「……フェレロ?」

 クロウは急ぎ足で玄関まで向かい、ドアを開けた。

「ク、クロウさんっ」

 だが、そこにいたのはフェレロではなく、取り巻きのホーマーだった。

「ホーマー、どうしたのその顔っ?」

 ホーマーの顔は、青タンと乾いた血で染め上げられていた。

 ホーマーはなだれ込むように部屋に入ってきた。

「ちょ、ちょっとっ」

 ホーマーが部屋に入った後、クロウは周囲を確認してからドアを閉めた。

「……どうしたの?」

「やべぇ、やばいっす」

「だから、どうしたの?」

 ホーマーは何かを言おうとするが、息が整わず言葉にできない。クロウが落ち着くようにと瓶詰めの水を差し出すと、ホーマーはそれを口から半分くらい溢しながら一気飲みした。

 落ち着いてからホーマーが語りだす。

「やべぇっすよ」

「それは聞いたって」

「フェレロさんがやべぇっす」

「フェレロが?」

「このあいだ、仕事でしくじったんす」

「フェレロが?」

「いや俺が」

 要領を得ない。とりあえず、クロウはホーマーの話しやすいように横槍を入れないようにする。

「俺が仕事でやっちまってボス、いや社長にやべぇ仕事やらされそうになってたんすけど、フェレロさんが止めてくれて……。」ホーマーは再び瓶を口に付けラッパ飲みをする。飲めてはおらず、ほとんどがまた溢れていた。「フェレロさん、俺を逃がそうと色々手配してくれてたんすけど、それがボス、いや社長にバレちゃって、それで今度はフェレロさんがやべぇことになってんす……。」

 一体、どう大変なのだろうか。クロウはホーマーの次の言葉を待ったが、出てきたのは「やべぇ……。」だけだった。

「だから、どう大変なの?」

「強盗っす、商売敵の金貸しが運んでる金ぇ狙えって言われてるんすよっ」

「そんな……。」

「フェレロさん、それも断ってたんすけど、ボスにめちゃくちゃにやられちまって……。」

「それじゃあお役所に相談しないと……。」

「ダメっす。そんなことしたら、フェレロさんどんな報復受けるか……。」

「じゃ、じゃあどうすれば?」

 ホーマーは息を整えると共にクロウを見た。クロウはその視線に無意識に息を飲む。

「……どうしてアナタはここに来たの?」


 クロウがホーマーに連れられたのは、街外れにあるレンガ造りのアパートの並ぶ居住区、その一角にある一際大きい建物だった。吹き抜け構造の4階建てで、渡り廊下の手すりからロープが張り巡らされ、そこには生活集の漂う洗濯物が干してあった。そしてそんな居住区の二部屋をフェレロたちの闇金業者はオフィスとして使っていた。

 そのオフィスの室内では年配の男が机の上で書類にサインをしていた。男の後ろでは寄り添うように彼の妻、そして娘と思しき二人が立っている。書き終わると、ヒムが書類を奪い取りそれを確認する。

「……いいだろう」

 ヒムが言うと男は目を落とした。今後押し寄せるさらなる不安で精気を完全に失った目だった。

 今しがた男がサインしたのは、彼が事業の失敗で抱えた借金が原因でこの家族は21区に身売りすることを約束する書類だった。男が二人の女性のところに戻ると、年配の女は糾弾するような目つきで男を見る。

「もういいぞ、帰せ」と、ヒムは書類を部下たちに見せるように掲げて言う。

 男はヒムに「お世話になりました」と会釈すると二人を連れて出て行こうとした。

「……娘は別だぞ」

 ヒムが言う。

「……え?」

 ヒムが顎で部下の一人を顎でしゃくって指示をする。大男が娘の肩を掴んだ。娘がビクリと体をこわばらせる。

「娘は商品だからな、丁重に扱わないと。……のところに連れていけ」

 ガロというのは女衒で有名な男だった。それも、大きい借金を抱え、かつ支払う手段が全くないという女が世話になるという曰くつきの。

「そんな……どっちにしてもアタシらは21区行きじゃあありませんかっ」 

「逃げられると困るだろう」

「逃げるだなんてそんな……。」

「逃げ回ってここに連れてこられたお前が言うことか? 信頼などとうになくしてる」

 そりゃあアンタらの利息や取り立てが無茶苦茶だったからじゃあないか、とは言える訳もなく、年配の男は口ごもった。そんな彼の袖を年配の女が掴む。

「もう無理よアナタ。言うとおりにしましょう……。」

 二人はそうして部屋を出ていった。今生の別れかもしれないのに、すがるような目をする娘に二人は罪悪感のあまり一瞥もできなかった。

「……モルソン」

 ヒムに言われると、モルソンという大男は頷いてから娘を連れて部屋をあとにした。モルソンが出て行く前に、「両親が娘を捨てて逃げる素振りを見せたなら、すぐにでも始末しろ」とヒムが指図をする。


「社長、何もあの二人まで21区行きにすることあったんすかねぇ? いやね、あんなオッサンやババア連れてっても働き手にも娼婦にもならんでしょう? 実際、娘売っ払った分で十分だったんじゃ?」と、部屋の扉を見ながら部下の一人が言った。

 ヒムはじっとりとその部下を見た。

「あ……いや……。」

 他人ひとの生命を拝借するような目つきに、手下は額から一気に冷や汗を流す。

「……?」

「え?」

「酷い奴だなお前、人の心が無いのか」

「は……はい……。すみません」

「コイツを見習え」

 そう言って、ヒムは部屋の隅で縮こまっているフェレロを見た。

「仲間のために危険を買ってくるほどの奴だ。男というのはこうじゃあなくっちゃな」と、目を細めやや上機嫌にヒムは話す。

 フェレロの頭からは、既に乾いているが、血が流れていた。ヒムがステッキでフルスイングでフェレロの頭を殴ったからだ。


 ホーマーに連れられ建物内にいたクロウは、渡り廊下の向こうからモルソンに連れられている娘を見た。娘は絶望しきって却って何も伺えない表情をしていた。娘と体がすれ違った瞬間、クロウは自分と彼女の人生が重なるような錯覚に襲われた。

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