ビフォア・ファントム⑩この街は
ある晩、珍しくクロウはフェレロ以外との客と店じまいの後に外へ出かけた。クロウについた客ではなかったが、その客のお気に入りの踊り子が、今日は人数が多いので手伝って欲しいと頼まれたのだった。
同期の踊り子は運送会社を経営しているその客を、クロウは彼の会社の従業員数名を相手にしながら、朝まで営業をしている飲み屋で飲食をしていた。
フェレロとしか都会の街では遊んだことのないクロウは、堅気で身持ちの堅い男たちに居心地の悪さを覚えていた。彼女には酒の飲み方も騒ぎ方も、一般人のそれはフェレロ達に比べると刺激が弱いと感じるようになってしまっていた。
従業員の男が絶妙に手を触れるか触れないかの距離まで近づく。「クロウちゃん、か~わいい~ね~。俺、すっごい好みなんだけど~」
「本当ですか? じゃあまたお店に来てくださいよ」
「いやぁ、無理無理。俺らの安月給じゃあ、あんなお店通えないよぉ」
「またまた~」
「いやいや本当だって。俺らの給料なんて、クロウちゃんの三分の一くらいだよ」
冗談なのか本気なのか分からず、クロウはウフフとはぐらかしたように笑う。というのも、彼女は街の人間の収入の相場が分からなかった。ふとクロウは、自分を襲った男が賃金のことに対して不満を漏らしていたことを思い出した。
この街は総じてどこか白々しかった。繁栄という平均台の上を渡りながら、誰もが見えない落とし穴へと足を踏み外すことを恐れている。商品として体ごと売られていく女たち、自分の身を削りながら得た僅かな賃金を恨む男たち、これだけのやるせなさなど知らぬとばかりに、夜の街は明るく灯り続けているのだ。
穏やかに飲んでいていると突然、クロウたちから離れた席から「おいおい、こんなとこで飲んでんじゃねぇよ!」と若い男の罵声が聞こえた。
クロウは何事かと思ったが、ついたてに遮られ彼女の距離からは微妙に声の主を見ることができなかった。
しかし、一緒に飲んでたひとりの男の席からはその様子が見えたようだった。
その男が言う。「あ~嫌な奴らとで合わせちまったなぁ……。」
「どした?」と、クロウの隣に座っていた男が訊く。
「金貸しの奴らだよ。借りてた奴か何かがこの店にいたんだろ」
金貸し? クロウは口だけを小さく動かし、誰に聞くでもない質問のような独り言を言った。
「おい、もう返済日過ぎてんのにどうしてこんな所で飲んでんだよ? そんな金があったら利子だけでも返すってのが筋じゃあねぇのか?」
それは耳を澄ますと聞き覚えのある声だった。
クロウは身を乗り出し、ついたて越しから声の方向を見た。そこにいたのはフェレロの取り巻きの一人だった。
「すんません。利子分を払えるまでは、ないんです……。」
「おお? じゃあなんで飲んでんだよっ。毎日残飯漁ってでも金を用意するべきじゃあないのかぁ?」
取り巻きは債務者の横に座り、彼が注文したのだろう皿の上の串焼きを奪って、嫌味ったらしく歯をむき出しにして豪快にほおばった。その歯の抜けたユーモラスな顔は今では相手を恐喝するための道具になっていた。
「クロウちゃん、あんまり見ないほうがいいよ」
クロウは隣の男に注意されて、あ、うんと頷いて体をついたてに引っ込めた。すると、「ちょっと止めてくださいよ!」と債務者の悲鳴とともに、椅子や食器が床に落ちる音が、そして引きづられながら店外へと連れて行かれる音が聞こえた。二人が出て行った後、別のフェレロの取り巻きが「悪かったね、アイツの分はつけといてくれ」と、店主に言っていた。
「あの、それは……困ります」と店主が言うが、すぐに取り巻きが「ああ!? 何だって!? 聞こえねぇな!!」と凄むと店主も押し黙ってしまった。
それからはどうにも白けてしまい盛り上がることもなく、すぐにクロウは客と同輩の踊り子と別れフェレロと同棲している部屋に帰っていった。
フェレロはまだ帰宅していなかった。化粧を落とし就寝の身支度をし、クロウがベッドで眠りに落ちようとしたくらい、そのタイミングで玄関の扉が大きな音を立てて開いた。
「あ、フェレロお帰り……。」
だが、フェレロは何も答えずにベッドまで大股で歩いてきて、そのままダイブするようにベッドに飛び込んだ。驚いてクロウはベッドのスペースをあける。
ちょっとフェレロと、声をかけるもののフェレロはうつ伏せになったまま呻くだけだった。薄暗い中で、強烈なまでの酒とタバコの臭いがクロウの鼻をついた。
まったく着替えくらいしなよ、とクロウが明かりを灯す。灯りで露わになったフェレロの体だったが、その服は土埃で汚れていた。
「ちょっと、フェレロどうしたの!?」
フェレロは呻くように言う。「ん、ああ~。仕事でトラブっちまって……。」
「トラブっちゃってって……どうしたらこんな風になるの?」
しかしフェレロはただ呻いて返事をするだけだった。
「もう……。水飲む?」
そしてこれにも呻くだけの返事。クロウはピッチャーから水をコップに注ぎフェレロに差し出した。
「ん、ありがと……。」
フェレロは差し出されたコップをつかみ、一気に飲み干した。
「ねぇ、本当に大丈夫?」
「ああ……。なぁ、せっかくつけてもらったんだけど、明かり消してくれないか?」
フェレロはランプの明かりも眩しいのか、腕で目を覆い隠していた。
「あ、うん」
クロウがランプの明りを消して部屋が暗くなると、フェレロはベッドのすぐそばの窓から外を見た。しばらく外を観察すると、少し安心したようにベッドの上に寝そべった。
クロウは、声をかけることなくフェレロの様子を見ていた。
囁くようにフェレロが話し始める。
「クロウ……。」
「何?」
「この街、好きか?」
「え、この街? 別に、好きとか嫌いとかはないけれど……。」
「なあ……。もう少しさ、金貯めて……そんでこの街出てさ、二人でどっか静かなところに住もうって言ったら……ついてくるか?」
「え? それは……。」
「イヤか?」
「……ううん。フェレロと一緒だったら、私どこでも良いよ」
「そうか……。」
「……うん」
フェレロはそうか、と呟くとクロウに抱きついた。その体からは酒の臭い、煙草の臭い、そして泥の臭いに混じって、少し血の臭いがした。
「……時々、何もかも怖くて投げ出したくなる。どこまで行っても暗いんだ」
クロウは抱きついてきたフェレロの頭を撫でる。少し呼吸が震えていた。
「フェレロ……どうしたの?」
「……今日仕事でな、取引先とモメたんだ」
「……うん」
「あんまり舐めた条件出すからさ、いつも一緒にいるアイツ……。」
「誰?」
「ホーマー。ほら、前歯が抜けてる奴だよ。一緒に飲んだろ?」
「ああ……。」
「で、そいつに殴らせてたんだよ……。数発殴らせてるとそのうち真顔で俺のこと見るようになって……。」次第にフェレロの声が、話の内容とは裏腹に淡々と感情を失っていく。「この野郎強がってやるって段々腹が立ってきて、もっと強く殴らせちまったんだ。俺のこと見れないようにしてやるって。そしたらさ……。」
「……そしたら?」
フェレロは顔を上げてクロウを見た。
「そいつ俺見てたんじゃなくて、途中で打ちどころ悪くて死んでたんだ」
「……え?」
もしかして、飲み屋で連れて行かれたあの男……。記憶力に自信があるわけでもないのに、クロウの脳裏には一瞥しただけの男の顔がありありと浮かんでいた。
再びフェレロはクロウの胸に顔をうずめた。
「社長にさ……。そいつにかけてた借金どうすんだってキレられて……。喰えねぇガキが今の所に拾ってもらって、ようやく自分の居場所見つけたと思ったらこのザマだ。この街はこんなにも明るいのに、自分の歩く先が見えない。どこに行っていいのかどころか、どこから来たのだって分からねぇ時がある……。」
それでこんなにボロボロだったのか、というより今漏らした一言とこの状態から、もう十分にフェレロが堅気の人間ではないことが分かった。しかし、クロウはそれでもこの男から逃げようとは思えなかった。倒錯した恋慕に近かったのかもしれない。男との経験が浅かった彼女には、毒と薬との区別が曖昧だった。
フェレロが顔を上げて口づけをしてきた。いつもの激しいものではなく、少年のように淡く軽い口づけだった。
「お前だけが、俺の中で灯ってくれてる」
フェレロがクロウの顔を両の掌で包んで見つめる。タレ目気味のフェレロはいつもどこか不真面目に笑って見えるのだが、今はそれが余計に哀しげに見えていた。
「大丈夫だよ、安心してフェレロ……。」
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