ビフォア・ファントム⑧助けに来た男

 クロウが踊り子を始めてからさらに一ヶ月が過ぎたころ、稼ぎは何とか下宿先を出るための貯金をはじめられるくらいになっていた。踊り子の下宿も、二人部屋で下宿先の大家が毎日掃除をするトイレと浴場があって、下働きの住み込みとは雲泥の差があったこともあり、クロウの生活水準はかなり上向いていた。


「おぉ、クロウさんこんばんはっ」

 とはいえ、クロウの客はフェレロとその取り巻きのみだった。そしてそれがより一層、クロウのフェレロへの想いを特別にしていた。

「今日は、三人だけ?」

 フェレロの取り巻きたちが座るソファにショーを終えたクロウが座る。

「いやぁ、フェレロさんは今日は仕事で」

「そう……。」

「やっぱ寂しいすっか?」

「そんなわけじゃあ……。」

「え~、それじゃあフェレロさんがっかりしますよぉ。今日はこれないってんで、あの人仕事に身が入らなかったんですからぁ」

「そんなぁ……。ところで……フェレロさんってお仕事何やってらっしゃるの?」

「え? 聞いてませんでした?」と、取り巻きの一人が別の男の顔を見て言う。そして見られた男は、俺に振るなよという具合に苦笑いをしながら顔をそらした。

 慌てて一緒の席についていた先輩の踊り子が言う。「やだクロウ。知らなかった? 街のお店の経営の相談を受けてるのよ」

「相談?」

「そう、あの~コンサルタントってやつ?」と先輩。

 そしてそれに取り巻きが「ああ、そうっす。そんなもんっす」と被せるように言う。

 そんな仕事があるんですかぁ、と街の仕事のことがよく分からないクロウは頷いた。

 間を空けず前歯の抜けた取り巻きが言う。「フェレロさんは本当にスゲェ人なんすよぉ」

 話を切り替えられたことに気づかずにクロウはへぇそうなんですかぁと、言う。

「俺ら、ほら、こんな見てくれじゃないっすか」

 取り巻きは抜けた歯を指して知っているのかもしれなかったが、流石のクロウもそれにそうですね、とは乗じづらかった。ただ微笑んで頷く。

「元々路地裏でワルやってるような俺らだったんすけど、フェレロさんはそん時から俺らのリーダーで、でもそんなことやってたっていずれは汚ぇことに手ぇ染めるしかないんすけど、フェレロさんは上手くエライ人に取り入ってビジネスで上手くやってて、今じゃあ俺らの面倒だってキチンと見てくれてんす」

「すごい方なんですね」

「そっすよっ。俺らフェレロさんのためなら命かけられますから」

 命をかけられる、とは語気は強いわりに随分と曖昧な言葉だが、その歯抜けの男から出てくる精一杯の言葉は妙に説得力のあるものだった。 


 店じまい後、普段は同僚数名と徒歩で15分程の下宿先へと帰るのだが、その日は都合がつかずクロウは一人で帰宅していた。夜も更け野良犬すらも寝静まっている通りは歩き慣れているはずなのに、初めて侵入したダンジョンのように緊張を伴っていた。

 クロウは足早に歩き続けた。そのせいで、靴が石畳を叩く音がより強く建物を反響する。そして彼女の耳は、静寂の中で自分の足音に混じった別の物音を捉えていた。


 一旦立ち止まってクロウは周囲を見渡す。だが、何も見当たらない。髪をかきあげ耳をあらわにして耳を澄ました。

 自分が立ち止まると向こうも足を止めたのか、音が聞こえることはなかった。気のせいだと良いのだけれど、クロウは不安を感じながらなるべく音を聞き逃さないように足音を少し潜めたが、もう音は聞こえなくなっていた。

 こんなことなら頭を下げてでも同僚に一緒に帰ってくれるように頼むんだった。クロウは怖さを打ち消そうと腹立たしさを無理やり沸き立たせる。


 下宿先までもう次の角を曲がるまでというところまで来た時に、クロウの耳は先ほどの足音とは別の音を捉えた。それは人のうめき声のようだった。前方の建物の陰を見ると、男がうずくまっているのが見えた。足音のこともあったので、少しでも早く下宿先に帰りたかったし、何よりこんな真夜中にこんな所でうずくまっているなど不審すぎる。

 足早にその場を去りたかったが、見捨てることに一抹の罪悪感があったので、クロウは恐る恐る近づき男に声をかけた。

「あの、大丈夫……ですか?」

 しかし、男はうずくまってうめいたままだった。

 仕方がないので、クロウはもっと近づいて話しかけた。

「あのぉ……。」

「腹……。」男は苦しそうに言う。

「お腹が、痛いんですか?」

「腹に……。」

「腹に?」


「気をつけろよ」


 男は振り向いた。そして立ち上がりざまに右の拳をクロウの腹にめり込ませる。腹腔内から強引に押し出されたような声が、クロウの口から漏れた。

 男は膝をついたクロウを強引に押し倒し、腰元からナイフを取り出してクロウの頬に突きつけた。

「動くなよっ」

「あ……あ……。」

「喋るな。踊り子なんだろう? 商売道具台無しにしたくねぇよな?」

 ナイフの腹をより強く男は押し付ける。クロウは息を飲んで押し黙った。


「いいよなぁ、お前らは。顔と体晒すだけで金が稼げるんだ。こちとらぁ毎日気に入らねぇ親方にどやされながら小銭稼いでるってのによぉ。なぁ? 不公平だろ?」男は興奮気味に服の上からクロウの胸を揉みしだき、さらに服の下に手を入れてまさぐり始めた。「ちょいと税金収めるくらいの感覚で楽しませてくれよ……。」


 ナイフはもうクロウの頬にはなかった。だが腹への殴打の痛みと、男がまだナイフを持っているという恐怖で体がすくんで抵抗する意思が削がれていた。

 抵抗しなければすぐに殺されることも、殴られる以上の酷い仕打ちを受けることもない。クロウはただ力ない女として受身になっていた。


 クロウが心を闇に押し込めようとしていた最中、別の男の声が夜闇に響いた。

「おい、お前何やってんだ!」

 男の体が止まった。男が振り向きクロウも体越しに男の背後を見ると、そこには今日は仕事で店に来れなかったというフェレロが立っていた。

「何やってんだって聞いてんだろぉが!」

 フェレロがまっすぐに歩いてくる。

「フェレロさん気をつけてっ、コイツ刃物持ってるよ!」

「なにぃ?」

 だが、男は立ち上がると何もせずに一目散に逃げていった。


「大丈夫かクロウ?」

 フェレロがクロウに駆け寄って抱き起こす。

「う、うん……。」

 フェレロに寄りかかって起き上がったが、力が入らずにすぐにまたクロウは膝をつきそうになった。 

「どこか怪我したのか?」

「うううん。ただ……すごい怖かったから……。」

 クロウはより一層強くフェレロの体にもたれかかった。スーツの上からフェレロの伝わる厚い胸板がとても心強く感じた。

「……送ろう」

「……ありがとう」


 フェレロに連れられてクロウは下宿の前まで来た。

「……じゃあ。俺は流石に中までは入れないから」

「……うん。でも、フェレロさんは大丈夫なの? アイツがまだいるかも……。」

「なぁに、夜の街は俺の庭みたいなもんさ」

 フェレロが笑った。小麦色の肌で、白い歯が強調されるようなが笑顔だった。

 フェレロは、じゃあと踵を返し夜の闇の方へ消えていった。

「……フェレロさんっ」

「うん?」

「今日は……本当にありがとう」

 フェレロは片手を挙げるだけで答えた。

 

 部屋に入り相部屋の同僚と他愛のない会話し就寝するまでは普段通りだった。だがベッドに入ってしばらくすると、フェレロのおかげで抑えられていた恐怖が顕になった。

 クロウはかつてのブレンダのように毛布にくるまってすすり泣いていた。そして、やはりかつての彼女のように、向かいのベッドの同僚はそんなクロウに言葉をかけることはなかった。


 クロウとフェレロが付き合いだしたのは、その一件から間もなくのことだった。

 元々、フェレロとその取り巻きを客とすることでの踊り子としての体裁を保っていたこともあって、クロウの中にはフェレロが自分を貧困から救い出してくれているという恩義にも似た感情があった。それに、クロウは自分には頼れる者がいないということを、暴漢に襲われて以来強く感じるようになっていた。母の影を思い出す故郷には帰りたくない、そして同僚とは打ち解けることができない。そんな折に、あのフェレロの胸板の感覚はとても心強く彼女の中に残っていた。

 そういった条件が相まって、店じまい後のデートを重ねるうちに自然とクロウは夜の誘いも受け、そのままフェレロと体を重ねるようになっていた。


 メルセデスが心配していた自ずと相手を拒むクロウの性質は、都会の生活の中で変質していた。しかしそれは彼女の期待するものとは別の形で、どちらかというとその心は開かれたのではなく、こじ開けられたようなものだった。

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