ビフォア・ファントム④曇天の下、

 メルセデスのゲンコツの音が鳴り響く同じ空の下、クロウは荷馬車の出発を待っていた。出稼ぎということでの離郷だったがその実、心持ちは逃亡犯のようなものだった。そのため出発を焦っていたが、すぐにでも故郷を出て行きたかった彼女には都合悪く、馬車の主が予定の積荷がまだ来ていないからと足止めをくらっていた。


――母さんを殺したのは私だ


 お互いを曲げようとしない母と娘の親子喧嘩の最中、自分の生き方を押し付ける母に反発するあまり勢いで言い放ってしまった一言が、結果として母を自裁させてしまった。それはメルセデスにも他の村の者にも話してはいないし、もちろんそれを話したとしても彼女を責め立てる者はいなかっただろう。それでも彼女には、自分が手を下したのと同じなのだという、直接刃物を手に取ったのとは違う、表現し難い、形はないものの息苦しい空気のような罪悪感がつきまとっていた。

 クロウは出発を待ちながら曇天を見つめる。幸先の良い門出ではなかった。既に数滴の雨が、彼女の頬を濡らしていた。

 

「クロウっ」

 振り向くと、メルセデスとディアゴスティーノがいた。

「メルおばさん……。」

「いやぁ、間に合ってよかったよ」

 まっすぐに微笑むメルセデスと違い、ディアゴスティーノは複雑な表情で顔をそらしていた。そしてディアゴスティーノのように、クロウも顔をそらした。

「水くさいじゃないのさ。何も言わずに行こうとするなんて」

「……ごめんなさい」

「いやいや、責めてるわけじゃあないよ。ただ寂しくなるなぁって。アンタは娘同然だったからね」

 クロウはより深くうつむいた。

「たまには顔を見せとくれ。今生の別れなんてまっぴらゴメンだよ」そう言ってメルセデスはクロウを抱き寄せた。

「……うん」 

 メルセデスは、クロウの体の芯が強ばるのを感じた。与えられれば拒んでしまう、やはり自分の思いはこの娘には届かないのか、メルセデスは自分が息子に言ったことを思い出す。

「……じゃあ、達者でね」

「メルおばさんも、体に気をつけて……。」

 メルセデスは親指で後ろのディアゴスティーノを指して言う。「このバカのせいでおちおち病気にもなってられないよ」

「バカはねぇだろ……。」とディアゴスティーノが呟く。

「手紙とか、書くから……。」

「良いんだよ、気ぃ使わなくったって。何にもなけりゃあ大丈夫ってことだろ?」

「その、お母さんの事なんだけど……。」クロウがうつむき加減に口ごもる。

「気にするこたぁないよ」

「え?」

「お前さんは何も悪くないさ、皆まで言わなくたって分かる」

「でも……。」

「下手すりゃあお前さんの人生がマーリンに縛られ続けたかもしれないんだ。それはそれでいいもんじゃあないさ」

 クロウはそれでも何か言いたげにスカートの裾を握っていた。

「……いいかい、クロウ。罪悪感を糧に生きるなんてのはしょうもないやりかただよ。お前さんがやましいことをやったんなら法が裁くし、良心の問題ならそりゃあもう神様の裁量さね。私が保証する、お前さんには何も後ろめたいところなんかないよ。私が知らない何かがあったとしても、お前さんが飲み込めるようになった時に飲み込めばいいだけさ」


「おおい、まだかねぇ?」

 馬車の持ち主が待ちくたびれたように言った。

「ああ、すまないねぇっ」

「……いくね」

「ああ」

 そうしてクロウは馬車の荷台に乗り込んだ。御者が手綱を振るい馬車が走り出した。

「クロウっ」とメルセデスが声をかける。

「なぁに?」

「絶対に、見限らないでおくれよっ」

「……え? 何を?」

 メルセデスが何かを言ったが、馬車の揺れる音で聞こえなかった。

「――そうすれば、お前さんは無くしゃあしないんだからねっ」

「……あ、うん」

 メルセデスは旅立っていくクロウに手を振った。クロウも、小さくなっていくメルセデスにいつまでも手を振り続けた。


 ディアゴスティーノが言う。「行っちまったな……。」

「ああ……。」

「これで良かったのかよ? お袋」

「……誰にだって、人生で一度はただ無条件に必要としてくれる場所や人が必要なんだよ。何ができるとか何をくれるとかじゃなくてね。普通は母親からそれを、そうでなきゃあ自分が子供を産んだ時にできるもんだがね、あの子には二つともないんだ。だったら、どこかでそれを見つけなきゃあならんのさ。まぁ荒治療ではあるがね」

「……俺らじゃあダメなのかよ」

 メルセデスは微笑んでディアゴスティーノを振り返った。

「何だよ?」

「あの娘を嫁にしようってのかい?」

馬鹿野郎べっけろう、そんなんじゃねぇよ」

「分かってるさ。でもね、あのはそういうのを自分で勝ち取らなきゃあダメなタイプなんだよ」

 ディアゴスティーノは分かんねぇなと、呟いた。


 クロウは荷馬車に寝そべりながら曇天を見つめていた。幸先の良い門出ではなかった。既に数滴の雨が、彼女の頬を濡らしていた。起き上がらないのは、振り返りば決意が鈍ると思ったからだ。

 昼下がりの曇天。決して暗闇ではない。けれど、クロウの前後は闇夜のように見通しが悪かった。

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