ビフォア・ファントム②ハングドママ

「……こんにちは」

 母と喧嘩した後、行くところといえばここしかなかった。クロウがノックをして声をかけると、すぐにエプロン姿のメルセデスが扉を開いて現れた。

「おや、クロウ。どうしたんだい?」

「あ、うん。ちょっと……。」

「……いいさ。入んな」

 メルセデスは何も聞かずにクロウを部屋に招き入れた。


 クロウは促されるまま台所のテーブルに座ったが、所在無さげに何度も夕食の準備をするメルセデスを見る。母・マーリンの従姉妹であり幼なじみでもあるメルセデスは、大まかな顔の造りは血縁関係があるだけあって似てはいるものの、細身のマーリンとは違い恰幅の良いふくよかな女性だった。何かが起こると何よりもまず他人の心配からするような彼女は、惜しげなく与えることによってかえって満たされているような女だった。

 メルセデスは、やはり何も言わずにブリオッシュを二個盛った皿とミルクを注いだカップをテーブルに置き、クロウの正面に座った。

「今日は街でパレードをやっててね、珍しいもんも売ってたんだよ。遠慮しないで食べな」メルセデスは犬歯を白く光らせて爽やかに笑う。

 しかし、それでもクロウの表情はさえない。

 メルセデスは率先して皿のブリオッシュを口にほおばると感嘆した。

「いいねぇ、クロウも食べなよ」

 クロウは遠慮がちにブリオッシュを手にとった。丸みを帯びたパンというよりケーキに近いブリオッシュは、手の中からでも既に芳しいバターの香りが漂ってきた。牛乳とバターと卵で練り上げられた菓子パンは、口の中で軽やかに砕けて溶けた。

 クロウの表情に晴れ間が見えたのを見計らってメルセデスが言う。

「どんな悩み事があっても、美味しいものを食べちゃえば忘れられるもんさ」

「……。」

「あと一つあるから、持って帰ってマーリンに食べさせてやんな。仲直りするんだね」

「え?」

「見くびるんじゃないよ。アタシはお前さんの母親みたいなもんなんだ。娘が浮かない顔してりゃあ何かあったと思うもんさ」

「……でも、ディエゴの分は」

 大げさに気さくな素振りを見せながらマーリンが言う。「いいんだよ、あいつのことは。甘いもんが好きなくせに、最近じゃあ街の仲間と酒だタバコだと悪ぶってさ。ちったぁ素直になってもらわないとね」

 クロウは笑うが、あまりのも力なかった。

「どうしたんだい?」

「母さんが、今日はが良くなくって……。」

「……特にかい?」

「……うん」

「そうかい……。」

 メルセデスはカップのミルクを飲んだ。

「ねぇメルおばさん」

「なんだい?」

「……あの人のこと、教えてくれない?」

 メルセデスは何も言わずにカップをテーブルに置いてクロウを見た。

「どうして母さんはあんなにもあの人のことが忘れられないのかな……。」

 メルセデスはやや困ったような目をする。

「もう帰ってこないんでしょ? だって、もうどこ行ったもかわかんないって言うなじゃない? そんな人、待ち続けてどうするの?」

 メルセデスはやはりしばらく黙ったあと、カップのミルクを飲み干してそれを流しに片付けた。そしてまたテーブルの正面に座って話し始めた。

「そうだねぇ、アタシもちょいと見ただけだけなんだけどね。その時はぱっと見普通の男に見えたよ。本当になんの変哲もないね」そしてメルセデスは記憶を遡るように天井を見上げた。「元々あの男はこの村の付近にあったダンジョン攻略のために来たのさ。戦争ももう終わりそうで、こちらの勝利も目前だった。その頃になると、あの男はもっぱら敵方の残党討伐や未開の場所を探索してたみたいだったね。そしてそんな折に土地勘があってこの村一の器量良しだったマーリンが案内に選ばれたのさ。さっきも言ったけれど、ぱっと見は普通の男だったんだけどダンジョン攻略のためにあの男に付き添ってからは、なぜだかマーリンはあの男にぞっこんでね。そしてしばらくこの村に顔を出してたんだけど、ある日突然どっかに行っちまった」

「……子供が、できたから?」

「違うよ」

 メルセデスはきっぱりと否定した。

「あの男の考えてることなんてわかりゃしないさ。マーリンはそう言ってるかもしれんが、あの男の子供なんて、この国だけでもひとつの村ができちまうくらいに多いって話なんだからさ。いちいち子供が出来たからって気にするもんかね」

「そう、なんだ……」

「……で、それからしばらくすると、マーリンにはいろんな奴が寄ってきてねぇ。彼女からすりゃあただの男との短い思い出だったのに、その恩恵にあずかろうとするロクでもない奴らがさ。そうでなくとも、元々婚約者のいた彼女が異種族との子供をこさえちまったもんだから親戚も白い目で見るようになってね。敵だらけのマーリンはいつか思い出の中でしか生きられなくなっていって……。そんなだから、むすめを思いやる余裕をなくしちまったんだよ」

 クロウはブリオッシュの端をちぎり口に運んだ。

「アンタ、いくつになった?」

 口を抑えクロウは言う。「え? 今年で15になるけど……?」

「じゃあもう大人だね。成長が他の子達とちょいと違うかもしれないけれど、そろそろ十分だろう」

 明確な基準はないものの、人間に比べるとフェルプールはネコ科の獣のように成長が早く10歳で大人とみなされる。10代から30代までは人間と同じ成長速度になるが、30の半ばから再び成長が早まり、平均して50で天寿を全うする種族だった。だがクロウは雑種だったため、他のフェルプールに比べ成長がやや遅かった。

「十分って?」

「……アンタ、出稼ぎする気はないかい?」

「出稼ぎ?」

「そ、この村を出てくんだよ。なに、アンタが邪魔だとかそんなことを言いたいわけじゃないさ、逆だよ。アンタにとってこの村が邪魔なんじゃないかってことだよ。昔から思ってたんだがね、アンタにはこの村は小さすぎる。もっと違う世界を見るべきなんじゃなかってね」

「そうなの……かな?」

「そうさ。ここには似たり寄ったりの田舎もんしかいない。もっと色んな奴に出会って色んなものを見て、そんなかで自分にいいもんを見つけていくんだよ」

 メルセデスはクロウの中に光を見た。だが、それでもその中には躊躇がまだ残っていた。

「マーリンのことが心配ってならアタシに任せときな」

「でも……。」

「下手に娘に世話されるよか、幼馴染のアタシの方が、かえってマーリンだって気が楽だろうさ」

「そうかな……。」

 メルセデスはクロウを安心させるため、必要以上に頷きながらそうさぁと、言う。

「もしマーリンに言いづらいってんなら、アタシから言っとくよ。アンタは独り立ちの準備でもしときな」

「……うん」


 メルセデスはブリオッシュを包んで入れたバスケットをクロウに持たせた。

 扉に手をかけたクロウが言う。

「メルおばさん」

「ん? なんだい?」

「……ありがとう」

 メルセデスは気にしなさんな、という具合に微笑んで首を傾けた。


 陽が落ちかけた帰り道を意気揚々とクロウは歩き続けた。耐えるだけだったひたすらな今日、けれど今彼女にはようやく明日が見えたように感じた。


「……母さん」

 家に帰ると部屋が暗かった。特に驚くことではなかった。精神の調子を崩したマーリンが、灯りもつけずに寝室にいるのは珍しいことではなかったからだ。だがクロウには胸騒ぎがした。

 クロウは寝室の扉に手をかけ、息を飲んで開いた。


「……かあさっ!」


 そこには、ベッドのシーツで作った紐を首にくくって天井からぶら下がっている母の姿があった。ずいぶん前から生命を宿していなかったのではないかというほどに空虚な肉体は、室内の空気の乱れでも揺れそうなほどに軽々しかった。

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