第八章 ローリング・ストーン
ビフォア・ファントム①母と娘
※※※
~~9年前~~
王国内でも特に多くのフェルプールが暮らしているヘルメス領シトロエン、その辺境にあるベンズ村のさらに外れの丘にその
「ただいま……。」
買い物から帰宅したクロウのバスケットには夕食のための食材が詰め込まれていた。その頃、母マーリンは心も体も調子を崩していたので、家事も買い物もクロウの仕事になっていた。そんな彼女だったので、娘の帰宅にも気づいていないかのように何も応えない。クロウは直接見ずに、気配のみでマーリンの機嫌を探る。どうやら今日は母はまとものようだ。
その家庭では娘にとって母は厄介事そのものだった。天気のように、晴れも雨も選ぶことができず、ただ現れた気性をそういうものだと受け入れるしかなかった。
クロウは台所に食材を並べながら言う。「そういば、街でお菓子売ってたから買ってきたよ。食べる?」
しかし、やはりマーリンは何も応えない。
「街がお祭りみたいになっててね、どうしたんだろうって思ってお菓子売ってる人に聞いたら、中央の王女様が巡行で遊びに来てたんだって。大通りがパレードみたいになっててさ。私もチラッと見たんだけど、本当に綺麗だったよ。さすが勇者様に見初められただけはあるよね」
「……どういう意味?」
険のある声色が室内に響いた。
「……え?」
「見初められたからなんだって言うの?」
「いや……。」
「どうして私と違うのって言いたいわけ?」
「そんなこと……。」
マーリンはベッドから、陽炎が沸き立つようにゆらりと起き上がりクロウに迫った。寝たきりで衰えた彼女の体は、一体どこがどこを支えているか分からないくらいに不安定だった。
「私だってねぇ、本当は今ごろ
酒浸りで肝臓を病んでくすんだ顔は怒りで歪み、引きこもりが続いて白く細い体は細かく震えていた。
「お腹が出てくる前までは、私が一番あの方に愛されてたのに……。あんな小娘何かより、ずっとずっと私のほうが目をかけてもらってたのに……それなのに子供ができたって知ったとたん……。」
クロウは何も言わなかった。口ごたえはもちろん、慰めさえしても憐憫はいらぬと逆上されるのがオチだった。ただ無言で母の気持ちを吐き出させるしかない。クロウは息を潜めて母が迫って来るのを待った。
「お前さえ……。お前さえっ」
マーリンはテーブルの上のカップをつかみ、クロウに投げつけた。肩をすくめ体を強ばらせるクロウの体を外れ、カップは床で砕け散った。
「お前のために私がこんな所で惨めな人生送ってるんでしょ!」
さらにマーリンはクロウに近づくと、髪をつかんで引っ張り回した。何かを叫んでいるようだが、金切り声すぎてさすがのフェルプールの耳でも聞き取れない。ああ、いつものことだ。また新しいカップを買わないといけないな、床も後で拭いておかないと。今まさに虐待されているにもかかわらず、クロウは感情なく他人事のように考えていた。しかし、その何の表情の変化もない娘にマーリンは逆上する。もっとも、あったらあったらでそこがまた気に食わないと彼女の逆鱗に触れるのだが。
いつもの事。嵐のようなもので、じっと部屋に閉じこもっていればそのうち通り過ぎる。
「私がっ、私がそのパレードにいないからって何だって言うのよ! 誰のためにこんな片田舎でみすぼらしい生活をしているというの! お前など生まれたらすぐに孤児院にでも預ければよかった。そうすれば、私はまたあの方の元に帰れたんだから! そうよ……私が戻りさえすれば、あんなガリガリの小娘なんぞすぐに追い払われて、あの方は私をまた受け入れたのよ! 今頃かしづいているのはあの女のはずだったの!」
妬みのためにマーリンの心の中は救いようのないほどに歪みきっているようだった。クロウは髪を掴まれながらもため息をつく。
いつもの事、嵐のようなものだった。しかし今日、娘はあることに気づいた。
母の力が、思ったより強くない。
いや、ずいぶん前からそうだったのかもしれない。病床で老化の一途の母に比べ、娘はまさに今肉体的には成熟のピークにあった。先ほどのため息で冷静になった娘は、それに気づいた。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
心の全くこもっていない気お決まりの謝罪をクロウは口にする。しかし、その一方で母の殴打を一発一発ともらいながら、その力の衰えを確認していた。
「お前、私のことを馬鹿にしてるんでしょう!? 惨めな女だと、哀れな女だと馬鹿にしてるんでしょう!? ねえ!」
気づいてしまった彼我の差。クロウは、自分が手の内に何かを捉えているのをを感じていた。そして、それを振るおうとも思い立つ。
「……そうだよ」
「……え?」
娘は、ゆっくりと起き上がり母の前に立ちはだかった。
母は、この時ようやく娘の成長を知った。娘の目線が、自分よりも上にあった。
「そうだよ、母さん」
「……なんですって?」
「自分捨てた男との思い出にすがるしかない、惨めな女だと思ってるって言ってるの」
マーリンは急所を突かれたように凍りついていたが、すぐに持ち直すとまた体を怒りで、しかし弱々しくプルプルと震わせて「このぉ!」と、クロウに殴りかかった。
だが、それをクロウは簡単に受け止める。思ったとおりだ、もう私は母を恐る必要はないんだ。クロウは母の手首を掴みながらまじまじと彼女の顔を見つめて思った。
クロウの拘束を解こうと腕を振り回すマーリン。クロウは聞き分けのない子供にするように、目で諌めながら手を離した。しかし、自由になったマーリンは今度は喧嘩を覚えたての幼子のように両手を振り回しながらクロウに殴りかかる。ひ弱な体から繰り出される拳は娘の体に当たり、間抜けた、乾いた音が虚しく響いた。もう、防ぐまでもなかった。
糸の切れたマリオネットのようにだらしのない体勢から繰り出された一撃をかわすと、マーリンは勢いでそのまま倒れてしまった。床に突っ伏しながら、娘への怒りなのか自分への情けなさなのか、激しく呼吸を乱していた。
母の呼吸が落ち着くのを待ってからクロウは言う。
「……ねぇ、母さん。もういいでしょ」
丸まっている母の小さな背中。いつの間に彼女の背中はこんなにも弱々しくなっていたのだろうか。クロウは気遣いながら続けた。
「……あんな男のことなんてもう忘れようよ。絶対もう帰ってこないんだし。過去のことより、これからのことを考えよう?」
過去に囚われた母の人生を開放したかった。そして、自分との人生をもっと実りあるものにしたかった。娘は、光ある方へ手を差し伸べるつもりで言ったはずだった。しかし……
「ふざけるな……。」
母が幽鬼の如く立ち上がった。
「あんな男?」
迫り来る母、声も体を支える力も相変わらず弱々しかった。だが、沸き立つ陽炎のようなその様は鬼気迫る凄みがあった。おもわずクロウは後ずさる。
「お前に、お前なんかに何がわかるって言うの!?」
掴みかかる母。病床でしかも老境にさしかかろうとしている女の力なのに、今度は振りほどくことが出来なかった。
「私があの方をどれほど愛して、あの方がどれほど私を愛してくださっていたか、お前に分かるはずないだろう!」クロウのシャツをすがりつくように掴んで引っ張りながらマーリンは泣き始めた。
マーリンを引き剥がすようにクロウは言う。「その、愛してくれた男がどうして私たちを捨てたの!? 母さんいい加減目を覚ましなよ!」
「捨てられてなんかない! あの方はいつかきっと戻ってくる! そう約束したんだから!」
「いつかっていつよ!」
「だから、いつかよ! お前がきちんとさえしていれば、あの方は戻ってくるの!」
「アイツがそう言ったの!?」
「そうじゃ……でも、私には分かる! あの方のことは何でも!」
「じゃあ捨てられたことくらい分かってよ!」
「捨てられてねぇよこのメスガキがぁ!」マーリンは飛びかかってクロウの髪を再度掴んで、悲鳴にも近い泣き声で叫んだ。
しかし、完全に頭に血がのぼったクロウは逆にマーリンの襟を掴み力任せに振り回して投げ捨てた。そして悲鳴を上げる母をずた袋のように引きずり回して寝室へと連れ込む。母娘という遠慮を除けば、かくも力の差がある二人だった。
クロウは姿鏡の前まで連れて行くと髪を引っ張り母の顔面を鏡に押し付けた。
「戻ってくる? こんな、こんなババアになっちまった女の所なんかに戻ってくるとでも!? 今でもどこかで若い女を引っ掛けてるかもしれないあの男が!? 現実見てよ、これがアンタの今の姿じゃない!」
クロウが突きつけるが、マーリンは顔面がクシャクシャになるくらいに顔を歪めて目をつむり泣き叫んだ。
いくら顔を上げさせようが、肝心の目が閉じているのではどうしようもない。何度も母に鏡を見せようとしたが、やがて体を丸めているマーリンから年齢に似つかわしくない幼く弱々しい鳴き声が聞こえて来た。
「……けて、たすけて」
「……!」
丸まっている母から、おぞましいものでも見るように娘は体をたじろがせた。
「たすけて、ご主人様、たすけて……。」
酒に焼けた喉だというのに、口調だけは甘ったるい声。体などとうにあの頃から離れているのに、心があの頃にしがみつくという乖離が、酒毒とあいまって彼女の精神を狂わせていた。この状態の彼女にとって、今の自分はまだ15年前の自分であり、娘ももちろんおらず、ほんの少しのあいだ思い人と離れているだけのことだった。
数年前からマーリンは日に何度か、ひどい時は一日中この永遠のつかの間に心を閉じ込めた。
「ご主人さまぁ……。」そう言ってマーリンは救いを求めるように虚空を眺める。
「やめてよ……。」娘は禍々しいその声から逃れようと耳を塞ぐ。
「どこですかご主人様ぁ。早く帰ってきてくださぁい……。」
「やめてって言ってるでしょ!」
娘の怒号にマーリンはひぃっと悲鳴を上げて体をまた丸める。
結局クロウが根負けをして「もう、いいよ」と部屋を出ていった。寝室では、延々とマーリンのすすり泣く声が残り続けた。
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