ビフォア・ファントム⑥茶会

 街のキャバレーで働き始めて二ヶ月過ぎた頃のある夜、就寝中にクロウは女のすすり泣く声を聞いて目を覚ました。それはベッドの下の段の同僚の泣き声のようだった。鼻をすする音に時折人の名が混じるのは故郷に残してきた家族だろうか。クロウは毛布をかぶって音を塞いだ。

 特にクロウの耳が敏感だということではなく、その泣き声は他の人間も聞こえるほどの大きさだというのに、誰ひとり何か反応をするわけではなかった。翌朝、起床とともに各々が身支度を始めたが、やはり誰ひとり泣いていた彼女に対して何か声をかけることはなかった。


 二ヶ月と経たないうちに仕事にも慣れたクロウだったが、こういった共同生活の雰囲気にはどうにも慣れなかった。お互いが何気なく気をかけ合い、余ったものは気軽に施すという風土の田舎出身、また世話焼きのメルセデスが身近にいた彼女にとって、お互いに不干渉に徹し、互いの持ち物は見ても見せてもならないという都会の作法に、知らず知らずのうちに神経をすり減らしていっていた。そこにあったのは孤独を好むクロウにとって、孤独を強いるという似て非なる付き合い方だった。


 また、金勘定の苦手な彼女が二ヶ月目にしてようやく気付いたのは、ここの下働きの給料を貯めたところで、自分で独り立ちをしてここを出て行くほどの貯金ができるのには、爪で火を灯すような生活をしてさえ二年以上かかるということだった。もっとも、街とは全く違う、戦前に近い生活や経済の環境に生きてきた彼女にとって、それをすぐに理解するのは難しいことだったのだが。雑種とはいえ、短命のフェルプールとしては二年もの歳月を貯金のためだけに費やさなければならないというその事実は、彼女に絶望感を抱かせた。


 そして……

「アナタにこれあげるわ」

 ある日踊り子の一人が、開店の準備のためにテーブル拭きをしているクロウに丁寧に包装された箱を差し出した。

「え? これ……。」クロウは腰掛けのエプロンで手を拭きながらそれを受け取る。

「客がさぁくれたんだけど、この前も同じのもらったんだよね。そん時にすごく喜ぶふりしてあげたら、まぁた同じの持ってきてさ。ちょっともういいやって」

 踊り子は嘲るように小箱を見下して去って行った。

 クロウが包みを開けると、それは街の菓子店のチョコレートだった。

「……それ何?」

 箱を持って立ち尽くすクロウに、同じく開店の準備をしていた先輩のホビット、サンが話しかけた。

「ちょっと、それ、フラワーズのチョコじゃない?」

「フラワーズ?」

「知らないの? フラワーズっていったらヘルメス家ご用達の高級菓子店だよっ。アンタこんなのどうしたの?」

「えっと、踊り子の人がさっきくれたんだけど……。」

「か~、いやんなっちゃうねぇ。アイツらときたらウチらのひと月分の給料くらいするようなもん、毎日客からもらってんだからさぁ。それだって普通に店頭に並んで買ったらウチらの一日の働き分が消えちまうよ」

 サンが物欲しそうに小箱を見ているので、クロウは「あの……一緒に食べます?」と箱を差し出した。

「いいの!?」サンは目を輝かせて言った。

「ひとりじゃ食べきれないと思うし」

 サンは、アンタいい奴だねぇと言いながらカウンターからポットを取り出しお茶の用意を始めた。


「あ~しあわせぇ」

 店の隅でささやかなお茶会を催しながら、サンはほっぺたに手をあてながらうっとりと呻いた。

 クロウもチョコレートの原材料を確認するかのように口の中で転がして味わい、舌に伝わる素材の数と製法の複雑さに驚く。産地の異なるカカオを併せて作られたそのチョコレートは、ただ甘いだけでなく、香辛料のように刺激的でカラフルな味わいだった。どちらかというと、お茶よりも強めの火酒が合いそうだ。

「ほんっとやんなっちゃうよねえ、この生活格差」

 サンはつまんだチョコレートを眺めながら、改めて踊り子と自分たちの待遇を嘆く。

 クロウはチョコレートをほおばりながら頷いた。

「ウチもさぁ、ここに入ったばっかりの頃、マネージャーに直談判したんだよ。踊り子になりたいってさ」

 クロウは目を丸くして先輩を見た。

「……おかしいかい?」

 クロウは激しく首を振る。「いえ、ただどうして踊り子になりたいのかなぁって」

「アンタ、そんなのあたりまえじゃないっ。アイツらこんなものスナック代わりに毎日食べてんだよ? 食事だって近所のカフェで優雅にとってるし。それに比べてウチらはさ、毎日ナイフも通らないような黒パンを、とも言えないような残り物ぶっこんだシチューに浸して胃に書き込む毎日じゃなのさ。ウチに器量がありゃあすぐにでも踊り子になってやるね。売れっ子にさえなったら自分の部屋だってあてがってもらえるし、すぐにこんなところだって出ていける。だってさぁ、昨日の夜聞いた? ブレンダの奴、何か感極まっちゃったみたいでさ、聞えよがしに泣いてたじゃない。あの部屋の生活にだってもううんざり」

「泣いてたのは、ブレンダだったんだ……。」

「きっと故郷が恋しくなったんだろうさ」

 クロウが不思議そうな顔をするので、察したサンが言う。「故郷を捨てて出てきたって、別に好きでそうしたわけじゃないやつだっているよ。故郷に仕事がないとか、何らかの事情でいられなくなったとか……どっちかというとそういう奴の方が多いんじゃない? ウチらも踊り子連中もさ」

 サンは、続けてアンタは違うの? とは訊かなかった。深入りをしないのが彼女たちの不文律だった。

 

「……アンタは踊り子にはならないの?」

「え?」

「アンタだったらイケるでしょ?」

「それは……。」

 母と自分の関係を今この場で話したところで、理解されるどころかより怪訝に思われるだけだろう。カップを持ったまま、クロウは下を向いて黙ってしまった。

「もし男にやらしい目で見られるのが嫌だってんなら、ちょいとウブが過ぎるんじゃないの? 都会でウチら女が生きていくためには体使うか男作るしかないんだからさ。まぁ、体使うってのもウチなんかこんなちんちくりんな体型だから、よっぽど特殊な趣味の店に行くしかないんだけどさ」サンは自分の腕を恨めしそうに見た。その体はサイズこそ子供のような小さいが、肌の質や筋肉のつき方は大人のそれをそのまま小さくしたようなものだった。「まったく、ここ来て半年で気づいたよ、都会っていうのはエルフと人間のもんなんだってね」

「体を使うか男を作るか……。」

「そっ」

「それ以外は……。」

「え?」

「それ以外は……ないのかな?」

 サンはカップを置くと、顔を軽くしかめて言う。「アンタ、もしかして“自分にしかない特別な何か”なんてもんがあると思ってんの?」

「それは……。」

「やめときなよ。そんな青臭い考え、ここじゃさっさと捨てることだね」

 クロウはカップをソーサーの上に置いた。

「現実的に考えなよ。エロオヤジにやらしい目で見られて触られるのをさ、ちょっと我慢して金作る方が、何年もここで掃除と炊事を続けるよかずっといいよ」

「少しの……我慢」

「そいうことっ。それに、別に男に媚びてるからって卑下することもないよ。踊り子連中は、男を手玉にとってるってくらいの考えでやってるんだからね」


 ささやかな茶会が終わると、クロウは手洗い場へ向かった。サンに言われたことを気に留めながら上の空のようだったが、手洗い場の扉を開けた途端、思わずたじろいでしまった。従業員用のトイレが、前日の当番だったブレンダがサボっていたために汚れたままだったのだ。便器のヘリにこびりついた汚物の悪臭が、クロウの鼻を捻じ曲げる。

 クロウはうんざりしながら軽く周辺を掃除すると、落とし紙で足場を確保して用を足した。

 

 まずい食事、狭い寝床、不潔なトイレ、クロウは戻ってくるなりフロアの中央にあるステージを見た。あれは踊り子たちが自分の体を品定めしてもらう商品棚だ。けれど自分の何かを差し出して金を得るというのなら、掃除婦であることと売春婦であることに何の違いがあるだろうか。結局、クロウはこのキャバレーで働くようになって半年もかからぬうちに、マネージャーに踊り子になることを直談判していた。


 クロウの母が終生願った自分に追随する生き方、それを貧困と窮乏は彼女にわずかな期間で叩き込んだのだった。

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