イン・ザ・ヒート・オブ・ザ・ナイト③
私たちは走り続けた。ゴブリンの体格ならば、この森の中で追いつかれることはない。だが、奴らは狼を連れていたはずだ。そう心配していると、予想通り唸り声とともに狼が森を駆け抜けてきた。狼にはゴブリンが
「振り返らずに逃げろ」
私は踵を返し、刀に手をかけた。ここで迎え討つ。
「ダメだ! アイツには、アイツが持ってる道具には君だって勝てない!」
「心配するな! いま来てるのはそいつじゃないっ。手下に追わせてるのを見てる! 早く行けっ足手まといだ!」
一瞬
唸り声を荒げながら狼が近づいてくる。どうしてもコイツをここで始末しなければいけないのは、恐らくコイツらは狼に臭いを辿らせて私たちを追跡しているだろうからだ。道中、他人の馬車を使ったおかげでほんの少し意図せずにまくことができたが、そうそう簡単に上手く行くことではない。ここで決める。
狼が真っ直ぐに私に向かって走ってくる。
私は横に飛び上がって木の幹を蹴ってさらに飛び上がった。そして空中で体を上下逆さにした状態で体をねじって回転し、その勢いで抜刀すると、狼に跨っているモヒカン頭のゴブリンの顔をすれ違いざま切り裂いた。
ゴブリンの口が耳よりも後ろに切り裂かれた。壊れたくるみ割り人形のように皮一枚でつながったゴブリンの上顎が、狼の揺れに合わせて下顎の上でブラブラと躍っていた。
狼はそれに気づかず私に向き直り、その反動で顔面が二つに割れたゴブリンが振り落とされた。
再度襲いかかってくる灰色の大狼。私は体の重心を下げ、腕に刀の刃部分を抱きかかえた。
飛びかかってきた狼にそのまま押し倒されたが、私は地面と体でしっかりと固定された刀が狼に突き刺さるよう仕向けていた。抱きかかえた刀を通して、刃が狼の剛毛と皮膚と筋肉を突き抜けて、内臓まで到達するのを感じる。だが狼の体は大きく、刃が心臓に到達せず即死には至らなかった。狼は残された命をふり絞り、私の喉に喰いついてくる。まずい、私の喉に突き立てられた、杭のような牙から伝わる力は、私を窒息させるにとどまらず、そのまま首を砕いて噛みちぎる程の力を残している。そこらの野生の狼ならとうにへばってるというのに、飼い主に似てなんという執念だ。私は恐怖で思考が止まるのを何とか押さえつけ、刺さった刀を横に移動させ更に傷口を広げ、刀越しに内臓の位置を探りとり、弾力のある臓器に刃を突きたて手首を捻ってその臓器をえぐって引きちぎった。狼から力が抜け小刻みに痙攣し始める。狼は大きな体に似合わない、子犬のような可細く哀れな鳴き声をあげていた。
「……悪い主人にあたったね」
狼の下から這い出ると、まだかろうじて生きている狼の喉を切り裂き止めを刺した。
森の向こうからゴブリン達が草をかき分け迫ってくる音がする。あの妙な武器とは流石にどう立ち向かえば良いか分からないので引かなければ。私はロランと合流するために森の更に奥まで駆け抜けていった。
しかし何ということか、森を抜けロランと合流したところは、よりにもよって崖だった。高さはそこまでではないものの、昼間に釣りをした位置よりもさらに上流の所にあるここの流れは、激しく岩にぶつかった水流が雷雲のようにけたたましい轟音を立てていた。
「水の音がすると思ったら……」
どうやらさっきの爆発音で耳が鈍っていたらしい。
私は思いつく手段として懐から投げナイフを取り出した。どうもあのゴブリンの
「投げる気かい? 無駄だよ……」あきらめているようにロランが言う。
「お前さん、何を知ってるんだ?」
「アレに関しては君よりも詳しいつもりだ。剣やナイフでどうこうなるものじゃないんだ」
「じゃあどうしろと? 命乞いでもするか、ゴブリン相手に?」
ロランが崖下を見る。
「飛び込もう」
「はぁ?」
「君、泳げるかい?」
「ちょっと待て、こんな流れの中を泳げるのは魚くらいのもんだぞ」
私たちが文字通り崖っぷちで話していると、森の中から一匹のゴブリンが現れた。私たちを見るとそいつは「
「崖沿いに逃げるか……」
「ダメだ、撃たれるよっ」
森の茂みが動き、数匹のゴブリンが姿を現す。私は意を決して刀に手をかける。しかしその瞬間、「息を止めて!」とロランが私の腕を取り崖から飛び降りた。
私の体は轟音に吸い込まれていった。
激流のせいで体は必要以上に沈み込み水底に叩きつけられる。
轟音は水中では止んだが、水面に浮上すると、再び他のあらゆる音をかき消すほどの激しい音が耳をつんざいた。
また沈みこまないように何とか岩にしがみつき、しかしやはり水の力で押し流されながら周囲を確認する。暗闇の中ロランが見えない。
私は息を大きく吸い込み覚悟を決めながら濁流に身を任せ、要所要所の岩場に体をしがみつかせ、その度にロランを探す。それを数回繰り返した後、ようやく私はロランを見つけた。率先して飛び込んだ勇敢な王子様は、激流にたゆたう木の枝のように何の抵抗も出来ずに流されていた。かろうじて、月明かりが彼の銀髪を照らし出し目印になっていたので、私は流れに一切抵抗せずにひたすらに彼を追い続ける。
他の漂流物と同じように、岩と岩の間に挟まったロランまで流れ着くと、私は彼を片腕で抱きかかえた。そして、体中に打ち身を作りながらなんとか岸辺まで泳ぎきった。
岸に上がるなり、水をしこたま飲んで落ちる寸前のほおずきのようにパンパンになっていた胃袋から川の水が逆流し、口から盛大にゲロが飛び出てきた。しばらくチェイサーを頼む必要はなさそうだ。
四つん這いの状態で四肢と首を高速で震わせ水を切る。そしてロランを地面に寝転がらせた後、「どうしようもない間抜けだな! ブタの札に全財産をつぎ込むとは!」と叫んで罵りたかったが、気を失っている彼にそんなことをしたところでどうしようもなく無意味だ。そんな怒りは後でいくらでもぶつけるとして、目下、ロランの呼吸は愚か心音も聞こえてこないのが問題だ。
私はロランの水を吸って重くなった革の鎧を剥ぎ取りシャツを脱がせた。彼の胸にはきつく締められたサラシが巻きつけてあった。
「やれやれ」
私がナイフを取り出しそのサラシに切れ目を半ばまで入れる。すると、めいいっぱい押さえつけられていた胸の反動で残りのサラシが弾けて破れ豊満な胸が露わになった。……どうも私のより大きそうだ。
こんな緊急時に妙なことを考えるのは幾分の照れがあるからだろう、私はとっとと気道を確保し乳房の間を掌の硬い部分で押さえつけ、心臓マッサージを施し蘇生を試みた。数十回胸を押し込んだ後、顎を上にあげ鼻をつまんで息を大きく吹き込む。一連の動作を数回繰り返すと、ロランの口から水が吐き出され心音と呼吸が回復した。
しかしまだ気を失ったままだし、そんな彼? を守りながらゴブリンと戦うのはどだい無理な話だ。私は積み上がった岩場の影にあった、二人分の身を隠すのにちょうど良い穴場にロランを運び込んだ。
水枕のようになってしまっている彼の体を暖めたいが、火を起こしたら煙で追っ手に見つかってしまう恐れがある。私はロランの服を脱がすと自分も裸になり自分の体で暖めることにした。
幼児のように丸まって眠っているロランが目を覚ますまで、私の方は体を定期的に動かし発熱させ、さらに体の中の火を灯し続けるため、川の水で膨れ上がった胃袋に葡萄酒を無理やり流し込んだ。
「やめろ……放せ……。」
体を暖めている最中、悪夢でも見ているようで、ロランは何度か私の体をうなされながら振りほどこうとしていた。そっちがその気ならと突き放しても良かったが、うなされている彼の目から涙が流れてるのを見て、また私はロランの体を強引に引き寄せた。そうするとロランは少し落ち着いたのか、怒りではなく悲しみですすり泣き始めた。私はロランの湿った頭を撫でながら、熱病に侵され床に伏せっている子供を抱きしめる母親というのはこういった気持ちなのだろうかと詮無きことを思い、勢い余って危うくおでこの傷のところに口づけをしてしまうところだった。
まったく、彼女に関わる人間は誰もが情け深くなる。
結局私の胸の中は、ロランの涙で朝まで乾くことはなかった。
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