第一章 アンチェイン・マイ・ハート

その女、ファントム

 その日も私の体は縛られていた。とはいえ、別にそういう趣味があるわけではない。村はずれの丘にある、秋の収穫時まで役目を待っている数々の農具を仕まい込んだ納屋の真ん中、そこで私は椅子に座らされ、手首は縛られ胴体は椅子の背もたれを通して縄が巻かれていた。違いといえば猿ぐつわがないくらいか。

 久しぶりの来客を迎えたのだろうその納屋の中では、溜まった埃と籾殻もみがらが舞い上がり、それは私の鼻と喉の間のもどかしい部分に不快な刺激を与えていた。


 正面では私よりもやや身長の低い、中年の猫型獣人フェルプールがダガーの先端を人差し指に軽く刺し、もう片方の指で柄の先端を支えクルクルと回していた。そして部屋には彼を取り巻くように何匹ものフェルプールにフェルプールにフェルプール……随分と部屋が猫臭い。悪臭に鼻を歪ませると今ではもう止まって固まっている鼻血が、かさぶたのようにバリッと割れた。

「オメェも馬鹿だよな、クロウ。ノコノコ戻ってくるなんざぁ」

「母さんの命日だったんでねディエゴ……墓参りさ」

 私がそう言うと、ダガーを持ったフェルプールは「墓参り」とつぶやいて冷笑気味の鼻笑いを浮かべた。


 私がディエゴと呼ぶこの男、ディアゴスティーノはフェルプールのクセに高利貸しで生業なりわいを立てている珍しい男だった。

 平均寿命が人間の半分程度の彼らフェルプールは、基本宵越よいごしの金を持たないという生き方をする。しかしこのハトコであり幼馴染でもあるディアゴスティーノは、子供の頃からフェルプールとは思えないほどに強欲で、つずる賢かったおかげで戦後の社会をのし上がり、今ではこの界隈かいわいを肩で風を切って歩く程のやくざに成り上がっていた。

 身なりも他のフェルプールとは違っている。動きやすさを重視した、ゆったりとした農夫用のズボンにサンダルなどではなく、人間の商工主が好むような上下のスーツで体のラインをぴったりと強調させ、脚を長く見せるように野豚の皮でこしらえた鈍く光る黒いブーツを履いていた。毎日の手入れを欠かさない頭髪は、部屋に入るまで被っていたブルーのフェルト生地の山高帽のせいで、踏みしだいた麦畑の様になっていた。


「なぁクロウ、オメェは俺から借りた金を踏み倒すばかりか、俺の部下を半殺しにしやがったんだんだぞ?」ディアゴスティーノはダガーの切先で私を指しながら言う。「それでも俺はオメェがハトコってんで、この町から出ていくことを条件に全部水に流してやったんだ。にも関わらずだ、今日オメェは昼の夜鷹よろしく忍ぶわけでもなく、それどころか戦争で手柄立てたみてぇに堂々と凱旋してきやがった。俺のメンツはどうなるってんだっ、ああん?」

「お前さんの汚れたメンツか? 川で洗い流したらどうだ」 

「……そん時ゃオメェの血も流れるんだよ。クロウ、俺が慈悲深いうちに落とし前のつけ方を考えといたほうが身のためだぞ。俺だってマーリンとオメェの命日でペア作る何て事はしたくねぇんだ」


 こんな形で対面しているものの、私はこのディアゴスティーノの事が実は嫌いではなかったりする。強欲で狡猾な一方、情にも厚く何よりも血の繋がりを重んじるという相反したこの男の性質に、私は妙な魅力を感じていた。

「光りモンちらつかせながら慈悲ときたかい。ディエゴ、お前さんユーモアのセンスあるよ」

 そう私が言うや否や、ディアゴスティーノのダガーが私の顔をかすめて椅子の背もたれに突き刺さった。刺さったダガーは弾力で震え、弦楽器を軽くはじいたような軽快な音を放っていた。どうにも私たちの想いはすれ違いがちだ。


「タカくくってんのか?この状況でまだ何とかなるとでも?」

「くくってるのは腹だよ。ベッドの上で安らかな最期なんて、ずいぶん前から考えちゃいない」

 私がそう言うと、ディアゴスティーノが再度冷笑を浴びせてきた。喉につっかえた淡を吐き出すような微かで不気味な笑い声と、鋭く真っ白な牙の覗く笑顔、やはりそこには慈悲など微塵も見い出せそうにない。それは獲物の品定めといったほうがいいだろう。


「オメェが死んでも自分から股を開いて許しを乞うなんざしねぇことは知ってる。だとしたらもうここでばらされるしかねぇんだぞ?」

「なるほど、しかしそのニュースを聞いて残念がってるのは私ではなく、そこにいる坊やじゃないのかね」

 私は私の斜め後ろにいる、十歳(人間で言うところの二十歳程度)に満たないフェルプールの坊やを意識しながら言った。私を縛る時に踵蹴りを食らい目の周りが青たんで腫れ上がっているそいつは、ここにいる奴らの中で一番若いようだった。ディアゴスティーノの表情から、その若造が自分のボスを見つめているのが分かる。


「……何言ってんだオメェ?」

「鼻に意識集中してみろよ?香辛料使いすぎたものばかりを食べてるから鈍ったか? そこの坊や、これから私をまわせるもんだと思ってたらしい。準備万端のナニがさっきから匂うんだよ」

 再びディアゴスティーノが若造の顔を見た。表情が「オメェ何考えてんだ?」と言っている。


「ちげぇよボス! コイツが勝手に言ってやがんだ! このアマ適当ぬかしてんじゃねぇぞ!」

 いきり立った足音がした。若造が私の方に近づくのが十分に分かるほどに。

「おい、ラフ。下がれ」

 ディアゴスティーノがそうたしなめると、どうやらラフという名らしい若造は、「だってよぉ、ボス!」と興奮気味に食い下がった。

 私はそいつの方へ首を回す。「残念だったね坊や。今日はお前さんの脱童貞の日ってわけじゃあなかったようだよ」

「お、俺は童貞じゃねぇ!」

 若造はようやく視界に入ってくれた。記憶通り、奴の手には棍棒が携えられている。

「黙ってろっつってんだよラフ! しばかれてぇか!」ディアゴスティーノが叱責すると、ラフは「だってよぉ、ボス……」と憮然としたように言う。どうやらこの若造は「だってよぉ、ボス」でディアゴスティーノとの会話が組み立てられるようだ。

「すまなかったよ、ラフ。童貞なんて言い方をしたのは私が悪かった。お前さんはただ、純潔なだけだったんだな」

 沈黙、それも怒りと緊張をたっぷりと含んだ。


 私は縛られたままの状態で、椅子の背もたれの根元を掴んで椅子を軽く持ち上げ、今や十分に視界に入ったラフの足を、情け容赦なく椅子の足で体重をかけて踏みつけた。奴の足の甲が骨折するくらいの勢いで。

「いいいいいぎゃぁぁぁぁ!」

 ラフの絶叫が納屋に響き渡った。

 どんなゲス野郎のだって悲鳴を聞くのは楽しいものではない。普段は悲鳴を出させないくらいにスマートにのだけれど、悲しいことに私の得物は今奴らの手中にあった。

 迂闊うかつだった。まさか五、六歳の子供たちまでもディアゴスティーノの息がかかっているとは思いもせず、街中で彼らが小遣い稼ぎにやっているささやかな大道芸を見物けんぶつしていたら、隙を見せた瞬間抜群のチームワークにはまって刀を盗まれてしまったというわけだ。最初は悪戯だと思い「待ちなさ~い、お姉さん怒るよ?」なんて笑っていたものの、子供たちがはけると同時にチンピラが集まってきた時には、嵌められた悔恨を通り越して、その窃盗劇の手際の良さに思わずおひねり包んでしまおうかと思ったくらいだ。


「テメェ!」

 しかし舞台はまだ終わっちゃいない。

 ラフは私のシナリオ通り、棍棒を横にぶん回して私に一撃食らわそうとする。しかし、私は椅子をずらして攻撃が背もたれの側面に当たるように仕向けた。

 棍棒をぶつけられた背もたれは砕け散り、私は縛られていた椅子から自由に動けるようになった。

 さぁ次のセリフだラフ君。

「テメェ!」

 アドリブが効かないな。とんでもない大根だ。

 私の頭をカチ割るつもりらしく、ラフは大上段に構え棍棒を振り下ろした。

 私は自分から後ろに倒れこみ足を開いて、次は椅子の座板の部分に棍棒が当たるよう仕向けた。

 私の思惑通り座板は棍棒の衝撃には耐え切れず、背もたれ同様バラバラに砕け散る。恥骨に衝撃が強めに響いたのは計算外だったが。


 私は仰向けに倒れた状態から後ろ廻りの要領で転がり、背もたれに刺さっていたディアゴスティーノのダガーを後ろで縛られた手で拾い上げ、床を回転しながら立ち上がった。

「おい、気をつけろ! 俺のダガーだ!」

 さすがディアゴスティーノ、例え束ねるのが間抜けだったとしても本人が間抜けというわけにはいかない。

 ラフは私に袈裟を下すように棍棒を再び振り下ろす。私は低めから突き上げるような後回し蹴りで、その攻撃を避けながら奴のみぞおちに足をめり込ませた。

 蹴りの衝撃とみぞおちへの苦痛、そして何より怪我した足のせいで部屋の壁に叩きつけられるラフ。手を縛られているせいで素早くひねった動きが出来ない私は、大股開きで体を回転させながら奴を追い、壁際の奴の体にピタリと自分の背を重ねあわせた。


「おおっと、動くんじゃない」私はラフの股間にダガーを押し充てながら言う。「下手に動いたら、お前さんこれまでどころかこれからも童貞で一生を過ごす羽目になるぞ」

「お、俺は童貞じゃねぇ~」

 この期に及んでその主張とは、何だかいろいろ通り越して可愛く思えてしまう。しかし体が密着していたのでラフからは見えてはいないが、実際には刃は奴の股間にではなく、手首を縛っている荒縄に当てられていた。そして私は会話をしながら刃を動かし、少しづつ荒縄に切れ目を入れる。


「馬鹿野郎、下手ぁ打ちやがって。安い挑発に乗ってんじゃねぇよ!」と、ディアゴスティーノが怒りで湯気が立ちそうなほどに熱い溜息を洩らしながら言う。

「だってよぉ、ボスゥ」

 やれやれ、数ある「だってよぉ、ボス」の中には、きっと春の到来を喜ぶ「だってよぉ、ボス」だってあるに違いない。

「さて、ディエゴ。私も母さんとコイツの命日でペアを作るつもりはないんだ。得物を返しちゃあくれないかな?」

 そうこう話しながら、荒縄にはかなり深く切れ目を入れる事が出来た。後は手首を思いっきり捻りさえすれば、両手が自由になりそうだ。


「別に、役立たずの命なんて惜しかねぇよ」一抹の心配か、ディアゴスティーノがちらりと私の刀を見た。「やりたきゃあやれよ。その瞬間スリーカードが出来上がるがな」

「そのシナリオはちと違う。この小屋にいる奴を全員ぶった切ってフルハウスの成立だ」

 私がそう言うと、ディアゴスティーノは噴き出して笑い、大きく、ゆっくりと、しかし音のほとんどしない拍手をし始めた。


「まったく、たいしたアマだぜ」ディアゴスティーノは自分の隣の手下を見ながら言った。「あの土壇場をここまで覆しやがった。お前らにできるか? ああん?」

 ディアゴスティーノにそう振られた手下は、少し困ったように首を傾けた。

「なぁディエゴ、まだカーテンコールじゃあないんだ。拍手は気が早いぞ」

「いいや、オーディションはもう十分だ」そう言うと、ディアゴスティーノの表情が変わった。どう変わったかというと説明しづらいが、少なくとも、部屋に漂っていた空気が少し緩くなるものだった。「今晩、ウィンストン通りにある“四季亭”って酒場に来い。仕事の内容を伝える」


 私が故郷を追われた身でありながら白昼堂々と帰ってきた理由、それは自分の腕に絶大な自信があったからではない。ディアゴスティーノが私をリンチ以外の目的で探しているという噂を聞きつけたからだった。要するに、今回の事は私を適度にリンチにかけてメンツを立てた上、さらに仕事が依頼できるかどうかを査定しようという魂胆だったらしい。


「まったく、他にもやり方があっただろうに……そんなに手下へのメンツが大事か?」

「別に、単にこれが俺のやり方なだけださ。街でいい女を見つけたら貢いで口説いたりなんかはしねぇ。さらってぶん殴って股を開かせる」

「ディエゴ、お前さんは早々にくたばるべきだね」

「心配しなくても、オメェと比べりゃそうなるさ。だいたい、オメェだって素直に頭を下げたって首を縦に振りゃしねぇだろうが」

「たとえ無理でも挑戦してみるのが男ってもんだろう」

「くだらねぇ。俺らの時間は短いんだ、無駄な事なんてやってられるかよ」

「で、そろそろ返してくれないかな?でも形見なんだ」

 私は腕をひねって荒縄をねじ切ると、ディアゴスティーノの隣で得物を持っているフェルプールに言った。そいつが躊躇していたので、ディアゴスティーノが「渡せ」と一言命じ、ようやく彼は私にその得物を返してくれた。


「で、どういう仕事の依頼だ?」私はその刀をベルトに差しながら言う。「わざわざ自分の手下にではなく私に依頼するんだ、こんな面倒な真似までして。それはそれはやっかいな仕事なんだろう?」

 ディアゴスティーノが牙を覗かせて笑った。その通りということだ。

「さっき言ったように、内容は酒場でオメェだけに伝える。こいつらは信頼できるが馬鹿だ。もしかしたらってこともある」

「随分と余裕を見せてくれるじゃないか。私がその間に街を去らないとでも?」

「オメェが俺のメンツを本気で潰すってんなら、俺も本気でオメェに落とし前をつけさせる。どういう意味か分かるな? 底なし沼を墓場になんてしたくねぇだろ?」

「自分の墓場の心配なんぞしていたら、こんな生き方しちゃあいないよ」

 ディアゴスティーノは強めの鼻笑いをすると、顎をしゃくって扉を指し、手下たちを数人先に出て行かせ、自分はその真ん中を歩いて行った。本当に用心深い男だ。


 扉を出ると、初夏の陽気を孕んだ日差しが私の生傷に染み込んだ。外では納屋にいたよりも多くのフェルプールがボスの出てくるのを待っていた。私を取り囲んでいた奴らよりも、遥かに品性と知性に欠けた顔をしている。

「別に、余裕をかましてたわけじゃないぜ。商談がうまくいかなかったら、こいつらにオメェを喰わせるつもりだった。言葉通りな。ちょいと手に余るやつらだったんで、してもらってたのよ」

 どうやら私には不条理な選択肢しか残されていなかったようだ。そのディアゴスティーノの言葉に合わせて、タチも頭も悪そうなその男たちはヒキガエルのような不愉快な笑い声をあげた。まったく、人間と比べるといつまでたってもガキ臭さが抜けない終生不良のようなこいつらフェルプールとは、誰だってできることなら関わりを持つべきではないし、私だってなるべくなら避けて通るところだ。もちろん、私にその血が半分混じっていなければの話だが。


 ディアゴスティーノをはじめとする他のフェルプールが去っていく中、一人だけ屈強な(とはいえ私よりほんの少し背が高いくらいだが)フェルプールが私に何か言いたげにそこに残っていた。


「どうした? ご主人様は遥か彼方だぞ?」

 屈強だし、何より屈強ぶるのがお好みらしいその男は、口を曲げて顎を突き出し自分を大きく見せようとしていた。生傷の耐えない人生だったのだろう、男の口の上は刃物で切り裂かれた跡があって、その古傷が男の笑顔をヘラコウモリみたいに醜くしていた。

「“ファントム”クロウ……。」

 私の体が無意識に硬直する。

「ボスはお前のことを買ってるらしいがな、どうせ噂話に尾びれが付いただけなんだろ? お前を一晩買ったら、翌朝には幽霊みたく跡形もなくトンズラこいて消えちまうって噂によぉ」

「……噂話が大好きなんだね町娘さん。何ならその噂を今ここで確認してみるかい? もっとも、誰にも事の真相を語ることはできないがね」


 私の外套まんとに覆われた右手の先は刀のに触れていた。しかしそいつは「ケッ」と唾を吐くように笑い、腰履きしているズボンのポケットに手を突っ込み私に凄んでみせる。間合いだというのにとんでもないマヌケだ。

「いいか? 元々今回の仕事は俺が引き受けるはずだったんだ。それを故郷を逃げるみてぇに出て行った女なんぞに依頼するとはな。ったく、ボスは一体何を考えてるのかねっ」

「単純な話じゃないか。私がお前さんより腕が立つってことさ」


 夏を迎える前のひと時の穏やかな風が、ヘラコウモリと私の間に吹き抜けた。しかし、その涼しい風は私とそいつの間の熱を冷ますのには優しすぎた。


「……ヴォルクってんだ、俺の顔を覚えとくんだな。街で俺を見かけた時は道の端を歩けよ?」

「もちろんだとも、道端の牛の糞に集まるのは蠅くらいのもんだからな」

 どうにも私も不機嫌だったらしい。そりゃあ散々殴れられその上縛られていたのだから、しょうがないといえばしょうがない。

「何だとコラ!」


 一触即発だったが、向こうの方で指笛を吹く音が聞こえた。どうやらディアゴスティーノの手下の一人がコイツを呼び寄せているようだ。

 ヴォルクは気に入らなさそうな目でしばらく私を眺めどうしようか悩んでいたが、しょせん飼い犬はどこまでいっても飼い犬だ、ご主人様に逆らうことはできず、そのままディアゴスティーノの方へ合流していった。


 ヴォルクが言った、去り際の「覚えてろよ」という言葉が感動的に凡庸ぼんようで、私は危うく涙を流すところだった。

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