プロローグ

 私は母を見ていた。

 母は化粧台の前で髪をとかしていた。

 母の美しい赤髪にクシが通されるたびに、髪は濃淡の赤で輝いた。


 母は言った。

「可愛い子、よくお聞き。女の子は常に可愛らしくないといけません。そうすれば、ご主人様が私を見初めたように、お前にも素敵な人が現れるでしょう」


 私は母を見ていた。

 母は鏡の前で美しいドレスを着ていた。

 母が廻るたび、可憐な花がひらひらと咲き誇っていた。

 

 母は言った。

「可愛い子、よくお聞き。女の子が美しくあれば毎日が楽しいのよ。朝露に咲く花のように、新鮮な気分で朝を迎えるられるの」


 私は母を見ていた。

 母が外に出かけるといつも男たちが彼女の前に現れた。

 男たちは花に群がるミツバチで、けれど花に蜜を与え続けた。

 

 母は言った。

「可愛い子、よくお聞き。女の子が美しくあれば何不自由なく生きていけるのよ。だからお前も私のように、いつも誰かに見られていると思って生きなさい」


 私は母を見ていた。

 母は鏡の前で自分の顔を化粧で塗りつぶしていた。

 母は魔法を解こうと追いすがってくる時間と戦い続けていた。 


 母は言った。

「お前がうらやましい。お前には若さがある。女は若さを失えば何もない。私はすべてを失おうとしている」


 私は母を見ていた。

 母は呪われていた。

 自分に教え諭したあの言葉は魔法ではなく呪いで、呪われた母は少しづつくすんで消えていく、汚れのように見えた。


 母は言った。

「ねぇ、ご主人様。私、綺麗でしょう? ご主人様のために、私はもっと綺麗になるんだよ……。」


 私は母を見ていた。

 母はもう何も言わなくなった。

 母は永遠に夢の国の住人になったから。

 私は知っていた。もうあの男が私たちを救いに来ることなどない事を。

 私に残されたのは、他人ひととは違う雑種の体、すりきれて黄ばんだの衣装に身をまとう、自分を娘だともわからなくなった母だった。


 私は言った。

「母さん、私は貴女の望む様にもアイツが望む様にも生きない。私は誰にもすがることなく一人で生きる。誰とも分かち合う事のない時間の中、ただ一人で。ただ一人で生き、ただ一人で死んでいく。それが貴方たちが私に遺したものだから」



        ――――――――――――――――


――嫌な夢を見た。その上ひどい頭痛だ。昨晩火酒を飲みすぎたせいだろうか。

 そう思いながら頭を振ると、銅鑼をぶっ叩いたような音が鳴り響くのが聞こえた。いや、どうやらそれは耳からではなく、直接頭の中で響いているようだった。次にやたらと重い瞼を開けたが、どうも焦点が定まらない。何度かゆっくりと、瞼で目をこするようにしっかりと瞬きをすると、ゴブリンの群れが私を囲んで見下しているのが分かった。私が寝転がっているのも、自室のベッドなどではなく野外の硬い地面の上、照りに照った太陽の下だった。


――少しまずい状況にあるのではないだろうか。

 状況を訊ねるために声を出そうとしたが、猿ぐつわでくぐもった声しか出なかった。しかも、体は入念に縛られ完全に身動きが取れなくなっている。彼らは私が意識を取り戻したことを知るとよりいっそう色めき立ち、そして私を担ぎ上げブナの木の根本へと運び、小麦が詰まった袋を港の水夫がそうするように、乱暴にそこへ放り投げた。ブナの木を見上げると、枝にはロープがくくりつけられていて、その先端は輪っかになっている。それはどうみてもブランコをして遊ぶには高すぎるし、そんな悠長な状況ではどう考えても違う。


――どうやらかなりまずい状況にあるようだ。

 ゴブリンたちは興奮しながら各々に言葉なのか鳴き声なの意味不明な音を発していた。地面に転がっている私の方を向きながら喚くせいで、締りの悪い口からは体液がだらしなくこぼれ落ちる。私は縛られているという身の危険よりも、こいつらの唾液がかかる結果生じる不潔さの方を気にしていた。首を動かし唾液を避けようとしたが、しかしそれも無駄な努力で、やはり結構な量の唾液が頬や額についてしまう。こいつらの緑がかった体液はグロテスクではあるものの、別に毒性はないので心配はないのだが、やはり不快なことに変わりはない。


 顔に集中していたが、群れの中の一匹が私の足首に荒縄をくくり付け、それを牛の首に繋いでいるのに気付いた。なんともまあ入念なことではないか。ただ縊死いしさせるだけでは飽き足らず、牛に私の胴体を引っ張らせて首を千切らせるつもりらしい。ゆっくり意識を失うのではなく、死の直前まで四肢が断裂するほどの地獄の苦しみを味あわせる魂胆のようだ。恐怖を通り越して畏怖すらしそうな残虐性だ。ゴブリンの有名な逸話なんかでは、コイツらが酒造業者の馬車を襲った際、へまをやらかした仲間をその場の気分で殺して酒樽に詰め込んでそれをしれっと酒場に売り込み、酒が飲み干されるかもしくは味の異変に気づいた時に死体が見つかるよう仕組んでいたというものがある。別に深い意味はない。こいつらは多分気の利いたジョークのつもりでそういうことをやっているんだろう。


 さて、私は今現在、何故ゴブリンに取り囲まれるような状況に陥っているのだろうか。やつらの唾液にまみれ、うんざりしながら考える。手掛かりを探りながら、朦朧とした私の頭の中では様々な出来事とそれに関する人々が、真っ白い空間の中、四方八方に浮いてこちらに手を振っているという異様な光景が繰り広げられていた。


 では一つ一つ丹念に遡っていこう。ゴブリン、東方民族、ヘルメス侯、タバサ、ロラン、ディアゴスティーノ……。そう、全てはディアゴスティーノから始まったのだ。

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