蛇と雨

神田誓

エピソード

 雨の音がする。わたしは、傘も持たず立ち尽くしていた。

濡れる、濡れる……心が、雨に浸食されていく。そのまま全て濡らして、消してくれないだろうか、この傷跡を。赤い血の跡を。その、雨で。

本当の絶望をみたとき、人は、どのような行動にでるのだろうか、なんて昔はよく考えていた。その時、わたしは結局大した答えをだせてはいなかった。


わたしは弱い人間ではない。少なくとも、クラスの片隅でひっそりと息を殺し、ただただ目立たぬよう人のようすをうかがっているような弱虫ではない。そのような弱い人間は、どうしてこの世に生まれてきたのだろうかわいそうに、そう思っていた。だってそうでしょう、自分を出せところがないだなんて、なんてかわいそうなんだろう。自分を表現できないことが、一番の不幸だ。わたしは前々からぼんやりと、しかし確かな考えをもっていた。だから、どこにでもいるようなそんなかわいそうな子を見るたび、優越感にひたっていた。わたしには人より長けているものなどたいしてなかったが、そんな子たちよりはましだろう、そう考えていた。


しかしいつからだろうか、わたしはそんなかわいそうな子たちを避けるようになった。何故だかはわからない。クラスの中でも中心部にいたわたしのそんな微々たる変化は、段々と広がり、わたしの意とは関係なしに、まるで大蛇のように姿を変え、暴れ出した。気付いた時には、もう後戻りができないほど大蛇は育ち、小さなネズミを喰らっていった。わたしのせいではない。そう分かっていたけど、後ろめたさが否定する。それは、きっと、わたしのせいではないだろうか、そんな不安が脳裏をよぎる。いや、そんなはずはない。だって、わたしはなにもしていない、なにも……。

そう、わたしは実際なんにもしていなかった。精々食われたネズミの逃げ道に小さな塀をひとつ置いたくらいのことしかしていない。だから、わたしは、そのネズミを殺してなどいないんだ。ネズミは大蛇に食われて、窓から飛び降りた。ネズミはクラスの片隅でひっそりと息をひそめていたかわいそうな子のひとりだった。


「お前のせいで、あいつは死んだ」


 そう言われるのが怖くて、わたしは気付けば、かわいそうな子になっていた。片隅で息をひそめ、小さく小さく縮こまっていた。そこでわかったことがひとつあった。かわいそうな子になど、なりたくない、そう思っていたのは、わたしがすでにかわいそうな子であったからだ。わたしはなにも持っていないくせに、持っているふりをして隠れていただけ。わたしにはなにもなかった。なんの能力ももたない、ただの弱虫。

 そんなことはわかっていたはずなのに、気付かないふりをしていた。そして、思ってしまっていたのだ。そんな風にはなりたくない、そんな人間はあってはならない。かわいそうだから、消えてなくなった方がきっといいはずだ、と。自分の本性を隠すために、種をまいた。


「あの子が、わたしの財布を奪ったのよ」


 そんな小さな嘘が、あんな大蛇になるなんて、想いもしなかったのだ。わたしは、怖かった。かわいそうな子には、絶対になりたくなかった。その一心だった

 大蛇に食われたその子は、飛び降りる直前、わたしの目をじっと見た気がした。その冷たさ、闇の深さ、それはわたしの心を大きくえぐった。それから人の目が怖くなったわたしは、片隅に隠れた。しかし、この小さな箱の中に隠れられる場所などなかった。大人しくなったはずの大蛇は、また獲物を見つけた。人ひとり、丸のみにした大蛇は、姿こそ小さくなっていたが、確実に獲物を追いつめていた。



 獲物とは、かわいそうな子のひとり。

 かわいそうな子の、わたしだった。


 原因なんて、些細なことすぎて、きっとみんな忘れていまっている。わたしからすれば、なにがそうしたのかすらわからなかった。大蛇は、どこまでも追ってきた。小学校から中学校に変わっても、追ってきた大蛇は、わたしをいたぶっていた。わたしが何をしたのよ!なんでそんなことするの?そんな問いなどかける勇気もなかったが、答えなどはわかっていた。


 何故、そんなことをするのか、そんなものはわかりきったこと。

 理由なんてない。ただ、みんながするからそうする。気に食わない部分が見えたから、するだけ、ただ、それだけなのだ。


 理由があれば、簡単なのに。直して元に戻れば済む話なのに。


 だんだんと、笑いがこみあげてきた。自分がまいた種が、こんな風に姿を変えて、わたしに向かってくるなんて、と。あの時わたしが、あの一言を言わなければ……、なんて、一度出た言葉はもう戻らない。それ以前に過去は変えられない。


 自分のしたことは、良いことも悪いことも、かえってくるのよ。死んだ祖母が言っていた。確かにな、とまた笑う。わたしは、笑った。そしてクラスの中心で、カッターを振り上げた。



 気付いたときには、わたしは病院にいた。手首には包帯が巻いてあった。大した傷ではなかったにせよ、親は泣いていた。それはそうだろう、自分の子が自殺を図り、リストカットをしたのだから。親は何も言わなかったが、ただ抱きめてきた。涙こそ出たが、わたしにはすでに悲しいという環状はなかった。

学校に行くと、大蛇は祓えたのかクラスは元に戻っていた。わたしに話しをかけてくる子もいた。通常の生活が待っている、そう思い微かだが希望が見えた。


だけど、一度自傷行為をしたわたしに、希望など与えられるわけがなかったのだ。

自傷癖ができた。ことあるごとに、わたしはカミソリで手首を切った。プツプツと血の玉が浮かび、雫になる。たれたそれに快感を感じるわけでも、爽快感を感じるわけでもない。ただ、切る。そんな行為を続けていた。

あの日、あの目をみたときから、人の目が怖い。普通に話しているつもりでも、内心びくびくしていた。外を歩く時も、なるべく人ごみは避け、音楽を聞くことを絶やさなかった。そうしないと気が狂いそうだった。

教室で、何度が発狂したことがあった。ストレスが原因で、些細なことでパニックを起こしてしまうのだ。そのせいで、増えかけたまわりの人もいつの間にかきえていた。

大蛇も消えたというのに、次は病魔がわたしをむしばんでいたのだ。

高校に上がると、また転機が訪れた。友達ができたのだ。その子は、いつもわたしのそばにいてくれた。楽しいことが増えた。笑うことも増えた。それは全て、その子と一緒にいるときだった。わたしは、幸せをかみしめる一方、不安を感じていた。それは、嫌われてしまうのではないだろうか、という恐怖感。そんな気持ちが、またストレスを生んだ。

ある日、わたしはとうとう耐えきれず、リストカットをしてしまった。その子はそれに気付くと、一瞬驚いて、そのあとわたしを抱きしめた。


「大丈夫」


 そんな言葉が、じんわりと心を溶かし、もうどうしようもなく、なにもかもをあきらめると同時に捨てた感情を呼び起こした。


 悲しい、という気持ち。


 涙は止まることなく、流れ出した。声をあげて泣いた。心の中に降る雨が、段々と弱まり、静かに雲は晴れた。悲しくてしかたがないのに、どうしてか心は満たされていた。


 生まれた疑問を、ふいに問いかける。


「わたしは弱虫なんだよ、強くなれない。なんにも持ってない、かわいそうな子なんだ」


 その子は少し、怒ったような顔で言った。


「あなたは弱虫じゃない!わたしの大切な友達を、かわいそうだなんて言わないで。あなたは、私に持ってないものたくさん持ってるじゃない!人はさ、それぞれ違うんだよ、容姿も持ってるものも、それは個性だから、比べるものじゃないの」


 比べる、ものじゃ、ない……。


 そうか、わたしは比べていた。人と人を比べ、自分の中で勝手に順位をつけていた。その考えが、違っていたんだ。大蛇を生んだのは、きっと否定の感情。なにもかもを否定するその根本の考えが集まって、生まれたんだ。

 人は、それぞれ違った個性を持っている。それを見せる見せないも、また、個性。外面だけをみて、判断し、個性を否定する。

 人と同じことをしなければ、自分が浮いてしまうようで、自らの意志を否定する。

 違うことは怖いことではないのに、どうして怖いと思ってしまうんだろうか、また、怖いということを何故受け入れることができないのだろうか、どうして、弱いと判断したものをはじき出したがるのか。そんなことにきっと理由という理由も、きっかけというきっかけもないのだろう。人間は、そういう生き物と言ってあきらめてしまうこともできる。わたしも確かにそうだった。

 でも、問題はそこではなくて、それから。

 それからどうするか、そこからどう考えるか。わたしは気付くことができた。全ては考え方したいだ。救われることなど、難しいかもしれない。苦しくて、苦しくて、仕方がないかもしれない。自ら命を絶ったあの子も、きっとそうだった。絶望して、希望をすてた。


 わたしは、今だったら、その手を掴むことができたような気がする。

「ごめんね、大丈夫だよ」そう言えた気がする。根拠のない、だけど確かな相手への気持ち。それは絶望を希望にかえられる。そして、そんな希望は、雨を晴らすこともできるんだよ。


やまない雨は、ないから。

 わたしはそっと、わたしを抱きしめるその体に腕をまわした。

END


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蛇と雨 神田誓 @kandasei

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