第3話 (第二章 その2)


 今夜も、屋敷の者たちは皆寝静まってしまった。

 まるで時が止まったように。


 私だけがひっそりとした月夜の世界を彷徨う。

 いいえ、あの方もまた、同じように彷徨う。


 だけど、触れ合えない。

 視線を交わす事も笑みを交わす事さえもできない。

 まるで、私だけにあの方が見えていて、あの方には私が見えないのかのよう。


 どうして?


 だけど、私には分かる。

 月影だけは優しかった。

 月読命のささやきが、聞こえるような気がした。

 私は、導かれているのだ、あの方に。


 少し肌寒いけれど、火照る肌を癒すような心地の良い風が吹き染めた。

 ああ、あの方が来るわ。


 私は振り返った。

 昏い山々の向こうから、蛍が一つ二つ三つ・・・と現れ、月影に照らされるようにあの方が現れた。

 私は、彼の方に歩を進めた。

 でも、ある一定の距離までしか近づけない。

 お互いに、遠ざかっているわけではないのに、距離は縮まらない。


 どうして?

 盈月の夜のようには近づけないの?


 月は日に日に欠けてゆくけれど、いつもあの方には追いつく事が出来ない。その背は遠ざかるだけ。

 姿は見えるのに、走っても走っても、いましの白く揺らめく後ろ姿だけ。


 まるで私とあの方との間には、厚い氷の板が一枚、立ちふさがっているかのように。


 晦日つごもりの夜。

 月は針の先のように鋭く尖り私の胸を貫く。


 冷たい。


 汝には私の声は届かない。

 振り向いてもくださらない。


 私を振り返ってくださったのは、望月の夜だけ。

 あの時のあの方は、私に何かを伝えようと唇が動いていたように思う。

 だけど、なぜ?


 だけど、なぜ?汝はあれ以来私を見てはくださらぬのか。


 憎らしいほどに、忘れられないほど美しい方だった。

 魂が溶けてしまうのではないかというくらい。

 だから、あなたに一目逢いたくて、毎夜、月明かりの中を独り彷徨う。




 今宵は月は出ていない。

 朔日だった。

 黄泉の国のように深い闇夜に塗り籠まれた夜は闇のものたちが支配する世界。


 闇の中では、星明かりだけがきらきらと砂金をちりばめたように輝くけれど、生あるものは皆、息を潜めて黄泉の王に捕われぬように隠れてしまっているかのようだ。


 月読命のようなあの方は、あの野辺に今夜もいらっしゃるのだろうか?

 月の出ぬ夜は魑魅魍魎が蔓延はびこる夜。

 決して一人で屋敷の外へは出ては行けない事とは分かっているけれど、確かめずにはいれらない。


 そう、物思いに耽りながら、妻戸をそっと押し開いた。

 誰もいないことを確かめ、廊下へ出た。

 今宵は薄く明かりが灯っている部屋もあった。

 起きているものもいるのだろうか?

 丑の刻、今宵の警護の舎人は起きているようだった。呪術にかけられたかのように皆眠りこけてしまうのは、月夜の日だけなのだろうか。

 やはり、奇妙な事だった。

 月明かりの夜だけの現象ならば、何らかの呪術的な力なのか、それとも月読命の力のなせる技なのか。


 私は、導かれていたの?

 だけど・・・

 確かめずにはいられない。


 その夜は皇女ひめみこ乳母めのとである坂田郎女さかたのいらつめと腹心である舎人の宅馬がまだ起きていた。皇女は乳母と宅馬を呼んで、外へ出る事の協力を求めた。渋る二人に、月の出ぬ夜の華麗な星々の夜に浸りたいのだと熱心に説いた。

 彼らは元々皇女に甘い二人だった・・・。

 皇女の熱心な懇願と、男の身なりに扮装し、宅馬を護衛として連れて行くという少々強引な?皇女の提案に、二人は結局折れたのだった。


内親王ひめみこさま、今夜だけですよ。嫌ですからね、もう。」

 と、苦笑まじりに渋々返事を返して来た宅馬。

「では、お気をつけて。宅馬が一緒ならば、大丈夫かと思いますが。」

 乳母は優しく微笑んで答えた。

「私、内親王さまのお部屋でお帰りをお待ちしておりますから、お早めにお帰り下さいね。」

 その直後に乳母の聞こえるか聞こえないかぐらいの笑いをかみ殺したような小さな囁きが幻聴のように聞こえた気がする。

「どなたか良い殿方とでもお約束されているのですか?」

 と。



 闇は深い。

 虫さえも鳴く事を躊躇わせるような静謐な夜だった。

 月のない夜の星影はより一層煌びやかで美しく輝いている。

 様々な宝石を散りばめたようにそら一面に煌めいて迫り来るように皇女を取り巻く。

 天の川が本当に流れているかのように、綺麗に夜空に描かれていた。


 ああ、こんなにも美しい夜ならば、あの方とともに歌を交わしあいながら眺めたかった。


 皇女の艶やかでふっくらとした唇から、思わず小さな溜め息が漏れた。


 でも、隣にいるのは宅馬のおじいちゃん・・・だもの、ね。

 フッと唇を緩めて小さく笑った。

 私の溜め息も笑いにも、宅馬は気付いていないようだ、大丈夫。


 皇女は宅馬とともに、いつもの路を彷徨ううちに、人影を認めた。

 人影もこちらに気付いたように近づいてくる。


 もしかして?


 皇女の心は高鳴った。

 月の光がないから、真っ暗で相手の姿がよく判らない。

 明かりと言えば、静かな星の煌めきと宅馬が掲げている一筋の小さな松明の明かりだけだ。


 でも、確かにその者は私たちに気付いて、こちらへ近づいてくる。

 背が高く大柄な体躯・・・おそらく、男だ。

「このような夜更けに、お主たちは何者じゃ?」

 その者は野太い声で問うて来た。男は続けて、

「鬼か?妖か?」

 明らかに年配の男の声。

 きっと、あの方ではない。

 期待で高揚していた皇女の気持ちが、不安に転じた。

「我らは人間ぞ。お主こそ、なんじゃ、失礼ではないかの?」

 宅馬が相手に呼応した。

 行者は警戒を解いたのか?松明の明かりで表情が分かるような位置までのっそりと近づいて来た。

「俺は大峰の行者じゃよ。最近、このあたりに物の怪が出るとの訴えがあってな。俺はそれを確かめに来たのだ。」

「我らは、この先の屋敷の者じゃが、夜番のついでに美しき星夜を楽しもうと、夜風に当たりに来ただけじゃ。」

 宅馬が答えると、行者は訝しそうな目をじろりと皇女に向けた。

「じじいの隣にいる、若いの。お前、何か異質な力を感じるぞ?何者だ。」

「私は・・・」

 言い淀んでいると、

「美しいのう。」

 ニヤリと何かを含むように笑った。

「お主から、強い力のようなものを感じる。だが、それ以上に強い妖の力も感じるぞ。」

 行者はそう言いながら、皇女の顔に手を伸ばして来た。皇女は背筋が総毛立つような寒気に襲われて、思わず身をよじり、その手を払いのけた。宅馬は慌てたのか語気をやや荒げて行者に言った。

「なんてことを!失礼だぞ。」

「失礼か。失礼なほど高貴なご身分の方のようじゃのう。・・・俺の目は肉体ではなく、霊体を見抜く目じゃからのう。誤摩化す事はできないぞえ。」

 歯を剥き出して、カカカっと行者は笑った。

「まあ、良い。日を改めて、お主らの屋敷に伺うとしよう。」

 と、そう言い残して、行者は闇の中へ身を翻し、消えていった。

 纏わり付くような湿気を帯びた生温い風が吹いた。


内親王ひめみこさま、帰りましょう。」

 そう宅馬に促され、皇女は無言で頷き、踵を返した。

 あまり、この場に留まりたくはなかった。


 屋敷までの帰り道、何者かにつけられているような気味の悪さが残っていた。

 無論、今宵はあの貴公子には出会えなかった。

 散々な夜だったと、皇女は嘆息を吐いた。

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