第2話 (第二章 その1)
第2章
1
冥々たる山を、
何も語らぬ侭に。
否、語り合う者なぞ誰一人としていない、この
深く冥い泉路をゆきながら、振り返り、振り返り。
此処には呪に縛られた吾以外、誰も存在せぬ。
愛しい
ただ、あるのは、常闇のみ。
----何処までも深く遠く常闇は続く。
此処は孤独だ。
蘇る事を許されぬまま、肉体をもてぬ魂となった。愛しき吾妹子は先に行き、吾はただ独り、中有に取り残され、彷徨い続ける。人の世に思いを残したまま、吾は月夜の晩にのみ現世に出る事を許されていた。
あれはある
月影すら届かぬはずの深い
月読尊の戯れか?導かれた吾は、月影の中に
あの晩、孤独な吾の心には、深紅の炎が一つ、灯った。
----蒼月に揺れる淡い藤の花のような吾が妹背に瓜二つの汝は、一体、何者なのだ?
処刑された吾の後を追い、喉を突き、自害した愛しい
今、汝妹は何処にいるのか?
あの死の瞬間、神々は二つの魂を分ちた。
吾には汝妹が見えなくなった。お前を探して吾の魂は泉路を彷徨い続けていた。
----ああ、あの時の汝妹の全てを切り裂くような慟哭が今も吾の耳について離れぬ。
毎夜、静かに吾を見つめている、妹背に似ている
妹背への想いが、汝によって再び焔となった。息苦しさが吾の胸を貫き、愛おしさだけが脳裏を灼く。
----懐かしき、妹背よ。
触れた桜色の唇の柔らかさ、あたたかな肌のぬくもり。吾は今も覚えている。
汝妹は声高らかに笑うであろうが、どのような女たちよりも吾が真実として愛しているのは今も昔も汝妹だけだと。あの時、伝えることのできなかった吾の最後の言葉を汝に伝えることができたならば。
汝妹の全てが愛しくて。汝妹に逢いたい。汝妹に触れたい。
もう一度。
肉体は白髏となりて魂だけのこの身。呪によって死に縛られたままの吾は転生する事すら許されず、黄泉の王に封じられいる。たとえあの者が汝妹であったとしても、
----判っている。
だが、今宵もまた吾は、汝の姿を垣間見るために、山の内の御舎を離れ、月影の指し示したる路を辿り、山裾を歩く。吾が現世へゆくことができる刻はこの常闇の世と
----汝を探すことができる
然し、吾は逢いに行く。言葉を交わせなくとも、想いを交わせなくとも。
幾夜も幾夜も同じことを繰り返す。
逢えば逢うほど想いが募ることが判っておりながら、それでもなお、吾は汝妹の姿を探している。
----
2
月の夜の風は蒼く、
あたたかな風は、こころの透き間を
皇女は静かに彼へ問う。
----愛しい
大きく息を吸って、静かに呼吸を整える。
----教えて。“
自らの胸の内へ、ゆっくり問いかける。
時折、皇女は感じることがある。その感覚は、あの方と出会ってからだった。
自分が自分でないような、もう一人の“自分"が吾の
----この
そのような気がする。そしてまた吾も・・・。
精神の中のもう一人の自分よ。貴方ははあの人の全てを知っているのに私は何一つあの人の事を知らない。それがなぜだか、無性に悔しくて。頭はクラクラとするほどに酷く痛み、喉元がからからになり、熱くて痛くて・・・これが嫉妬というものなのであろうか?いいえ、違う。
----貴方をずっと待ち続けていた。私の中のあの人は待ち焦がれていた。
愛シテイル。
貴方ニ触レタイ----。
あの方と私は魂の一番深い場所で繋がりあっている。だから私はあの方に、こんなにも惹かれてしまうのだ。きっと。
皇女は今宵も、いつもと同じ場所で彼を待っていた。“いつか、感じていた”想いを抱き締めながら。瞳から脳裏にかけて、ツンと灼くような痛みを覚えていた。そして胸の奥が異様なほどに乾いて熱かった。
息苦しい。
----このままでは心が壊れてしまうのではないかしら?
疑ってみる。
----早く、逢いたい。
何故か、涙はあふれ出して止まらない。
(星の色が眩しいだけ。)
そっと心の中で呟いた。
----今宵もあの方はいらっしゃるの?
月に訊く。なぜなら、月だけがその答えを知っているように感じたから。
月ははっきりとした輪郭を現し、夜闇の中に煌々と、その存在感を伝えている。月の答えは・・・?
風に泳ぐ髪は、袖は、唯、皇女を山へと誘うが如し。皇女は誘われるままに月の路を彷徨う。
----きっと来る。
瞳めを閉じて、ゆっくりと“想い”を数える・・・。あたたかい風は頬をやさしく撫でる。
----瞳を開けて、あなたがいなかったのなら、今日はもう、やめにしよう。
そっと呟いてみる。まるで彼の人へやさしく脅すように。
だけど、私の呟きを聞いているのは、夜空に輝いている銀色の月帝とその従者たちだけ。
それに私は、“彼の人"が来るまで、何時間だって待ってしまうに決まっているのに。
でも、判っているからこそ、云うの。
----
「今日こそはあの方に話しかけよう。」
そう決意していた。
もう、待つだけなのは終わりにしよう。
暫く、月を眺めていた。
山の方から乳白色の薄霧が辺りに立ち込め始めた時、皇女はハッとしたようにそちらを見た。
ひとつ、ふたつ、みっつ・・・蛍が静かに乱れ舞い始めた。
ひっそりとした闇の中から。しづかに白く揺らめく貴公子の姿が現れた。
皇女は彼の人の姿を認めると、走り出した。
「お待ち下さいませ!」
皇女は叫んだ、幾度も幾度も。
「お待ちくださいませ!!」
走って、追いかけて、追いかけて・・・。
でも、貴公子は振り向かない。
いつしか、姿は山の奥へと遠のいてゆく。
「お待ちください・・・。」
掠れた声、息も絶え絶えだった。
胸の内に咲く、傷という赤い花がぎゅっと痛んだ。
足が縺れそうになりながらも、必死に走って走って・・・。
----待って!
追いかけて、追いかけて、追いつけない。
----なぜ・・・!!
涙があふれ出して止まらない、目の前が滲んで何も判らない、何も見えない。
苦しかった。
息苦しくて、胸が喉が痛くて。
胸を抑えて、肩で息をしながら、力なく立ち止まった。
頬をひとすじの熱い雫が伝った。
ずっと走り続けていたから?それともあの方が振り向いてくださらないから?
----判らない・・・何が何だか判らなかった。
唯、苦しかった。
涙が灼けるように熱かった。
それだけだった。
3
今宵はあの者の姿は見当たらなかった。
幾度振り返っても。
生あるものの息づかいは確かに感じられたのに。
----
否、吾を追いかけてくる気配は感じた。
しかし、姿は見えぬ。
あれは何者なのか。
何のために吾を追う?
あるとするならば常世にすむ魍魎たちくらいなものであろう。
いや、気のせいか、杞憂かもしれぬ。
あの者の姿も、唯、見落としただけなのかもしれない。
月がたなびく雲の中へと隠れた。
気を鎮めるために、吾はうっすらと苔の生した岩の上に腰をおろし、天を見上げた。
木々の湿り気を帯びた、冷たい気の流れ。
それに乗るように、やさしい木魂たちが、唄うように吾を取り巻いて神を静かに揺らしていった。それは幼く可愛らしい乙女らの囁きに似ている。精霊たちの優しい悪戯は、我に暫しの安らぎを与えた。
静かに瞼を綴じると、優しく舞う幼い頃の妹背の姿が、木々の唄に誘われて、幾度も想い出されてゆく。
お互いにまだあの頃は幼かったと思う。
われらは二度の別れを経験した。
過ぎ去りし
そう、あれは、まだ我らが幼き頃・・・吾は父に従い、戦に赴いた。
別れ際の汝妹の言葉、
(我は何処どこまでも兄背と共に行きます。たとえ、そこが那落の底であろうとも。)
戦が終わり、そして生きて帰って来た。国には束の間の平穏が訪れ、我らは再会した。
そして結ばれ、互いの約束を果たした。
だが・・・
----あの
妹背の死なぞ、我は望んでいなかったのだ。寧ろ生きて、我らが子、粟津王を守り、育てていって欲しかった。
お前たちだけは守りたかった。
しかし、あの夜。
百済王とあの女・・・三千代の策略により、吾は謀叛の咎で捕らえられた。
吾自身に覚悟があった。
あの時、汝妹には、粟津王とともに生きて生き抜いて欲しかったのだ。なのに・・・
吾が捕らえられた日、刺客により汝妹の目の前で粟津王が殺害された。その瞬間の汝妹の絶望は、捕らえられていた吾にも届いたほどだった。そうして、汝妹の生きてゆく望みは絶たれてしまった。
俺は、お前たちを守れなかった。
----後には絶望だけが残されていたのだった。
悲鳴は滲む夕空を切り裂くが如く、慟哭は遥か
汝妹の気迫に押され、
(たとえ、時潮が我らを引き裂こうとも、必ずまた巡り逢い、背の君とともに歩みます。)
だが、我らは
吾は二度と蘇る事が出来ぬよう、黄泉の王として、あの女に呪を施されてしまった。
否、もしやすると、毎夜、吾を見つめるあの少女はお前なのかも知れぬ。
しかし----。
巡り会えたとしても、
なんという皮肉であろうか。
神仏は、何を思し召され、我らをご覧になられているのであろうか?
我らが何をしたと云う?何の罪を犯したと云うのだ?
----吾は無実だ。
然し、吾はそれでも逢いに行く。
逢ってはならぬのだと判っているのに、幾夜も幾夜も同じことを繰り返す。そなたに逢うほどに想いが募ることを承知しておりながらも。逢いに行かずにはいられない。
ああ、これは月読命の悪戯なのか?
我らを何故、弄ぶのか。
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