第4話 (第二章 その3)


 あの朔月の夜、何かが屋敷までついて来た小さな気配を感じた。

 すこし禍々しいものを感じる。

 小鬼か?


 翌朝、目覚めたときの後味の悪さに、軽い吐き気を覚えた。

 湿気を帯びた風と鉛色の空は重くて、今にも大粒の雨が降り出しそうだった。

 じっとりと纏わり付くような生暖かい空気はただでさえ不快なのに、あやかしのうす気味の悪い視線まで纏わり付いてくるのだ。

 視線を感じる方を皇女がじぃっと睨みつけると、気配はふっとその場から消えた。


 こうしたモノの存在に皇女は幼い頃から敏感であった。

 だからこそ、あの月夜に現れるひとあやかしなのか、そうではないのか・・・感覚的に感じ取る事ができたのだ。

 否、そうした力を持つ皇女だからこそ、彼の人と出会えたのかもしれない。


 あのひとに感じる気配は、禍々しいというよりも、もっと静謐で奥深いものだった。そして何よりも大きくて。

 黄泉とつながる穢れを確かに纏ってはいるものの、それを打ち消すような、内側から仄かに照らす光のようなものを感じるのだった。

 しかも神々しいまでに美しい。


 彼の人が現世うつそみの存在ではない事は分かっていた。

 だから、月帝が降りて来たのではないかと思うくらいに心が昂揚して騒いだ。

 自分の感覚を信じたくはなかったけれど、心の深いところで否定したけれど、でも・・・。

 でも、本当は感じている、黄泉の穢れを背負っている事を。

 今はまだ呪に縛り付けられ、死の世界に留まっているのかもしれぬことを。


 昨夜出会ったあの行者。

 あの行者の小鬼は私の周りで一体何を探しているの?



 皇女ひめみこは雨音で午睡から目覚めた。

 雨風が激しく地面を叩き付けていて、庭のあちらこちらに大蛇のようにうねる濁流を作っていた。

「今晩も降り続けるのかしら。」

 坂田郎女を振り返り、語りかけた。

「止みそうもないですね。」

 皇女は嘆息を吐いた。おしゃべりをしていた侍女の一人が皇女の腕を引いた。

内親王ひめみこ様、それより、あちらで皆と貝合わせでもして遊びましょうよ。」

 コロコロと鈴の音のように笑いながら誘うので、朝から重たく感じていた気持ちが少し軽くなり、皇女も彼女たちとともに遊びに興じた。


 その夜、雨は夜明けまで激しく降り続いていた。


 翌日も曇天だった。

 長い雨で泥濘んだ地面。とても散策なんて出来る状態じゃない。

 土色の蛙たちは楽しそうだけれど、外に出られない皇女にとってはちっとも楽しくない。


 重たく黒い雲に覆われたそら

 昨晩は雨で屋敷の外に出る事が出来なかった。

 今宵は晴れるのだろうか。

 晴れてくれないと困る。


 恋しくて、逢いたくて。

 たった二日、あの方の姿を見なかっただけなのに、こんなにも胸は押しつぶされそうなくらい苦しくなる。


 今日こそはいましに逢いたい。


 落ちて来そうなくらい真っ黒で重そうな雲と鋭い雷光を伴い、夕立は激しく外の世界を叩き付けていた。

 雷鳴で大地が揺れる。

 雨に叩き付けられ時折雷光に煌めく暗い庭を皇女は縁に座り惚けたように眺めていた。


 今は雷鳴や稲光が気持ちよかった。

 侍女たちは雷光に怯えて、部屋の奥にいる。

 鬱々とした気持ちを抱えていたので、一人になりたかった。だから、ちょうど良かったのかもしれない。


 皇女の憂鬱の原因。

 それは、気になるうわさ話を郎女たちから聞いたからであった。



 近頃、里の者たちの間で、二上山のふもとに美しい物の怪があらわれるという囁きがにわかに流れているらしい。

 いや、どこかの高貴な姫君が、物の怪に取り憑かれているように毎夜彷徨っているのを見たと−−−−そんな噂が市井では流行っているのだと。

 鋭い針で刺されるような痛みが胸を疼いた。

 美しい物の怪・・・そして取り憑かれた者・・・何か悲しい響きのように痛みを感じる。


 そのような噂すらもかき消すかの如く、激しい雷雨は全てを浄化していく。

 だから、清々しかった。

 雨は、さっぱりと数々の穢れを洗い清めるように降り続き、あまりの潔さに、皇女の憂いた気持ちもすっきりと洗い流されていた。


 洗い流された後の、夕焼けは美しかった。

 東の空から煌めく濃紺が滲むように広がりだし、西の空は、紫や橙、金色といった様々な炎が錦のように輝き、紅蓮の夕日は空を照り彩り続ける。皇女は侍女たちと歌などを交わしながら荘厳な黄昏時を過ごした。


 丑の刻が近づく頃、静まり返った外の様子に気付き、皇女は縁に出た。

 雨に洗われた日の夜風は清らかで涼しかった。

 薄く雲がかかる天の所々から、星影が揺らめいている。

 すっきりとした細く繊細で鋭利な月が天頂に上り、地表を神々しく照らしていた。

 月影に照らされて、木々や草に残った雫が煌々と輝きを放ち、まるで神々が作り出した瑠璃細工の世界のようだった。


 この神聖な夜に誘われるがままに、皇女は外に出た。


 あのひとに逢いに行こう。


だが、この時、一つの違和感もまた感じていた。

 あの異質なモノの気配を再び感じ取ったからだ。

 屋敷の者たちは眠りこけてしまった、しかし、異界の存在だからなのだろうか、その気配は消える事はなかった。


 皇女は野辺に歩みを進めた。

 雲は消えて、星が降り注ぐ天に山々の黒い影が迫っている。

 後をつけて来ていたはずの異質なモノの気配はいつの間にか消えていた。

 もしかしたら、神聖な時間が近づいてくる、禍々しい穢れは月読命の力によって、消されてしまったのかもしれない。


 ここは静かな空間だった。


 暫くして、蛍のような光が幾すじも静かに灯り始めた。

 いつものように、彼の人の姿が現れだした。


 皇女は彼の人に声をかける。

「お待ち下さい。」

 しかし、声は届かない。

 振り返らない。

 私の呼びかけには気付いてくださらないのか?

 しかし、呼びかけとは関係なく、時折ふと立ち止まり、私の気配を感じているような仕草があるのは何故か。

 私が近づいても、白い人影はふと足は止めるけれど、結局はそのまま通り過ぎるようにゆっくりと遠退いて行ってしまう。


 ああ、今宵もまた・・・。

 暗澹とした気持ちに押しつぶされそうになった。


 そのような日がこの後も三晩続いた時の事だった。

 何の進展もないように感じていたこの数日だったが、気付いた事が一つある。

 月の満ち欠けに応じて、互いの距離が変わる事を。


 月の欠け行く虧月にはお互いの距離は次第に離れていった。でも・・・今は、ほんの少し、近づいている。

 満ちてゆけば互いの距離は近づくが、欠けていくと遠退いてゆくのだ。

 そう、盈月の夜、月が満ちる毎にお互いの距離が少しづつ近づいているということに。



 ならば、きっと、望月の夜には、また再び、視線を交わす事が叶うかもしれぬ、と。

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