第837話:トリアグ-ゼンエ~月の記憶~

「私は昔、月に住んでいたの」

 夜、大きな窓がある部屋、彼女は静かに語りだした。

「月って、たまに聞くアレ? 夜空に浮かぶひときわ大きな星がある世界があるって、その月?」

「そうよ、地上から見たら大きく見えるかもしれないけど、実際は地上の何分の一程しかない小さい星なのだけども」

 日の光を浴びて白く光る砂と岩だけの何もない星。

「その小さな星の、地表にぽつんとあった小さな部屋に私は住んでいたの」

 机と椅子と、ひとつの望遠鏡だけがある部屋。

「私の世界はその小さな部屋だけで、望遠鏡が地上とつないでいたの」

「なんでそんな部屋に?」

「わからない、産まれた時からそこにいて、死ぬときまでずっとそこにいたから」

 話を戻すとね、

「私は、望遠鏡を使って、毎日地上を眺めて暮らしてたの」

 地上には人が沢山いて、他の人というものを認識したのはその時だけで、いつか私もああやって他の人と関わることになるのだろうかと、そう思って暮らしてたの。

「だけど、私の人生はその何もない部屋で終わったの」

「でも、今はこうやって」

「まるであの時いつも見ていた地上のような世界で暮らせているのだけれどね」

 私、あの部屋にいたほうが幸せだったらしいの。

 そう、彼女はつづけた。

「こういう夜はね、いつも思い出しちゃうんだ」

 何でもない話を聞いてくれてありがとうね、そう言って彼女は席を立った。

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