カントリーロード

岩井まみ

第1話

その日は仕事でちょっとしたトラブルがあって、土曜日だけれど会社に行って、

その後一杯だけ付き合ってと言われた居酒屋で、その人が来月で辞めることを

知った。

5歳上の先輩だった。今後はひとまず、田舎に帰るのだそうだ。

平日よりもずっと空いた電車でアパートに帰り着くと、未読のLINEが一件、

「鍵はポストに返しておきました」とのこと。

一人分の荷物が消えた部屋は広い。明日ここでぱっとしない一日を終えたら、

明後日の朝には満員電車に吸われていって、今日のトラブルの報告をしないと

いけない。

やるせない気持ちがした。ふと時計に目をやると、PM10時をまわったところ。

一日だけ、私も田舎に帰ろうと決めた。数分前に降りてきた駅から、都心行きの

電車に飛び乗った。


今年オープンしたばかりという新宿のバスターミナルの景色を眺める間もなく、

バスは走り出す。

相変わらず狭い4列シートに身を押し込めて、眠気が訪れるのを待った。

絶え間ない振動と、暗闇の中で咳き込む誰かの音。そろりとペットボトルを飲む人。

やっぱり眠れない。懐かしい夜行バスの旅だ。

学生の時はよく使っていたから8年……あんまり数えたくない。

無理に閉じた瞼の裏で、思い浮かぶ地元の友人の顔はそう多くない。

連休でもないただの日曜、彼女らの都合がつく可能性は低そうだ。そもそももう何年も連絡を取っていない。

「なんか、一緒に居ても、遠くを見てるみたい」

冗談っぽい調子で私を糾弾したのは誰だっけ。

それさえ忘れてしまうような私だから、男でも女でも、いい歳して深い付き合いの

一人もいないのか。

いい歳だからっていうのもあるだろう。みんなは違うのだろうか。もっと、ちゃんと人と向き合って……


それでも眠ったらしい。

バスの扉が開くと同時に、慣れきった海の匂いが鼻をつく。

寂れつつある平凡な港町だけれど、天気が良い日の朝の海は綺麗だった。今日はだめだ。

何のために帰ってきたんだっけな、私。

目的が見つからないまま線路沿いの細道を行く。実家には背を向けて、昔通った高校の方角だ。

実家に顔を出すつもりはなかった。

両親と地元の市役所で働く兄は、盆正月以外に私が帰るとえらく心配する。

タイムセールじゃない良い牛肉が食卓に上る。その気遣いや距離の近さが、今はきっと痛い。


線路の続く先を見やると、黒猫みたいな影が一つ。

田舎版耳を澄ませばみたいな気持ちで、猫の後を追いかけた。

さすがに足の長さが違うから、影はどんどん近づいて、猫じゃない、人間の少女だということに気付いた。

ワンピースも髪も真っ黒のツインテールで、少しゴスロリが入っている気がした。

「こら。危ないでしょ、線路の中歩いたら」

見知らぬアラサーに咎められて動じた風もなく、歩みは止めないままで、聡明そうな猫目がこちらを向く。

「だってもう、電車は来ないでしょ?」

そういえば、通学に使っていた程度には朝の時間帯は本数があったはずなのに、

さっきから一度も電車は来ていない。

私が知らない間に廃線になったらしかった。

「行くところがないんなら、一緒に行く?」

誰かに着いていくというのはなんだかいいものだ。


途中から道が消え、民家が消え、背の高い木が増えてくる。

ウミネコの声は山鳩に替わる。

森の中を小一時間ほど行くと、丸い草原の場所に出た。

周りを取り囲む木々が一面だけ開けていて、そちらが海だった。

古びたベンチも置かれている。公園というには野性的だが、人工的な場所

なのだろう。

いつのまにか勾配を徐々に登ったようで、海ははるか下方に見えた。

線路はこの空間から先、大きくカーブして私の高校に着くはずだったが、

早くも鬱蒼とした草木に覆われていて、これ以上歩くのは難しそうだった。

「ここが行き止まりかな?」

「そうなの。眠ってしまうには、とてもいいところ」

ベンチで少女と肩を並べ、夜行バスでの睡眠不足を取り戻すように眠りに落ちた。

夢は見なかった。


「帰るよ、マイコ」

起こされた声は、男性のものだった。

「この人は友達?……って、あれ?」

「サト兄」

「みっちゃん」

小学生の中学年ころまでたまに遊んでいた近所の男の子が、ずいぶんとがたいよくなって立っていた。

ちょっと髭も生やしている。それでも面影は充分にあった。サトウさんちのお兄ちゃんで、サト兄。

「何この子、サト兄の娘? 何歳よ、早くない?」」

「大人っぽいけどまだ9つ。計算合うでしょ」

「うん、でもちょっと意外というか。イクメンやってるのね」

「いわゆるシングルファザー」

「……やるじゃん」

「嫁というか、元嫁は元気よ。元気すぎてこの田舎は馴染まなかったみたいだけど」

一瞬の間で気を遣ったのがばれたようで、すかさずフォローされてしまう。どうも私は下手だ。


その後は、サト兄の車で実家の近くまで来たので結局昼食だけ食べに帰った。

何かと事情を詮索したがる家族に何も変わりないよと言い聞かせ、サト兄と再び合流し、最寄りの新幹線の駅まで送ってもらうことになった。

マイコは途中のショッピングセンターで買った二段アイスを舐め終えて、再び寝息を立てている。

サト兄の車のカーナビが古いので、私達は廃線になった私鉄の駅を突っ切り、道なき道を走っていた。

「やっぱりこの町も変わるんだね」

「ああ。この子もいつか言うんだろうな。東京へ行く、って」

「東京に?」

「あの場所が気に入りなのは、遠くに繋がってるからだと思う」

「だからって、東京かあ」

「寂しくないだろう、あっちは」

「……どうかな」


居場所を変えた私も、変えなかったこの人も、毎日が慌ただしいことに救われているのかもしれない。

転んでも、あの頃みたいにずっとうずくまってはいられないから。

相変わらず地図に出ないバイパス道路に、懐かしい歌を鳴らして走った。

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カントリーロード 岩井まみ @fumofumo3

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