第35話【消失】
去年の十二月、ハルヒや古泉がいなくなったり朝比奈さんが俺を知らなかったりした、あのおかしくなった世界を元に戻したことに後悔はない。だが、少しは未練も残ってるんだ。朝倉がおでんを持ってきたあの日の帰り際——。
長門を、あの控え目な微笑をもう一度見たかった。
それがこの世界でもありえることなら、ぜひそのほうがいいのさ。
あり得てしまった。
そして思った。そうか、ここだったんだ、と。逃げ場所隠れ場所としてこれ以上の場所はない、と。雪山の館なんかじゃない。朝比奈さんはここにいたんだ。ここだから安全だったんだ。藤原がいるのもここだ。俺の直感がそう告げていた。あの時は悪夢としか思えなかった改変世界が今度は避難ゾーンとしての役割を果たしてくれた。
長門がいた。眼鏡をかけているあの長門が。光陽園のハルヒがいるんだからこういう長門も当然いるんだ。そこは去年十二月十八日からたった三日間だけ存在していたと俺が思い込んでいたセカイ。異世界。俺たちはエマージェンシーモードを発動させ異世界に逃げ込めていた。
その眼鏡の長門も含めて総勢十一名が文芸部室にいた。もはやカオス状態。
我がSOS団団長のハルヒは早速その長門を発見したようで驚愕の表情のまま固まっていた眼鏡の長門のところに朝比奈さんを引きずりながら突撃してそして叫んでいた。
「キョン、見なさい。有希よもう一人有希。あたし間違いなく異世界にいるのよ!」
すっかりクローンのことは忘れたらしい。
橘京子は泣きじゃくりながら古泉にしがみついているし、光陽園のハルヒは九曜に抱きつき「お手柄お手柄」と言いながらダンスを踊るようにくるくる廻っている。そして相変わらず明後日の方を見続けている藤原。一歩引いてそんな個々人の様子を微笑みながら見ている佐々木。
ま、見ていると言えば俺も同じか。そしてあと一人、長門も。
「困ります。こんな……」
眼鏡の長門が異世界からの乱入者達に必死になって訴えていた。
「ここはSOS団部室じゃなくて正真正銘の文芸部室なんだぞ!」と柄にもなく俺が言った。この長門に迷惑をかけてはならんと、そう思ってるからだ。
しかし誰も聞いてねえ。
ただでさえ五月蠅いハルヒが二人もいてその上総勢十一人。眼鏡の長門のところに光陽園のハルヒまで九曜を伴い駆けつけてしまう始末。まあ光陽園のハルヒにとっては多少とは言え見知った仲か。眼鏡の長門は突如四人もの人間に取り囲まれすっかり人垣の向こうに。もはやなるようになるしかないとしばらく諦観していると、
「みんな聞いて!」
「ここで騒ぐと迷惑になるわ」とハルヒたちがこのような事を言い出し、ひとまずこの場の空気はこの部室を退散する流れとなった。『理不尽』とはこういうことを言うのであろう。
既に何人かは廊下へ出て、廊下に出ようとする何人かが部室にいて、そのほんの小さなエアポケットを待っていたかのように長門が眼鏡の長門に近づいた。そしてなにかを口にした。
部屋の中がざわざわと騒がしくて聞き取れなかった。だが眼鏡の長門は最初呆然としたような顔をして静かに肯いたように見えたんだ。
SOS団、偽SOS団合わせて十名全員が廊下へ出た。
なぜかこっちのハルヒが再び部室の出入り口へと踵を返し、
「じゃあそっちの有希、またね」と言った。
文芸部室の入り口は閉められ、〝眼鏡の長門はどんな顔をしただろう〟と思ってももはや何も解らない。人が多すぎてよく見えなかった。俺もなにかひと言でも声を掛けたかった。だがこの状況では無理だ。
それにここは一刻も早くここを立ち去った方がいい者ばかりだ。この学校に籍の無い者はもちろんのこと、朝比奈さんなんて朝比奈さんと廊下で遭遇するかもしれないんだ。この学校をうろつくと自分と同じ顔の人間に遭遇するって、ホラーじゃねえか。
既に一同は廊下を歩き出しているが長門が一人、閉められた文芸部室のドアを振り返りまだ見つめ続けていた。俺は長門に訊いてみたいと思った。
「長門、いまさっき長門になんて言ったんだ?」
長門は歩き出した。しばらく黙ったまま階段の辺りまで歩き続け、
「言わない」とのみ、ひと言返ってきた。
そうか……そんなもんかもな。
俺が階段を降り始めたその時不意に後ろから声が掛かった。
「あら、あなた達は誰かしら? この学校の関係者じゃないわよね」
ギクリとする。
無断侵入を感づかれた! という驚きだけじゃなかった。
「朝倉……」思わずそう声を出していた。
「朝倉ですって?」階段の踊り場まで進んでいたこっちのハルヒが振り返り見上げた。
「あんた、朝倉涼子?」
「そう。涼宮さんが覚えていてくれたなんて嬉しいわ。どう? 驚いたでしょ?」
「ここは異世界なんだからあり得るのかもね」
「あたしね、こっちだけじゃなくて二学期からそっちの五組に戻ろうと思っているの」
「そんなことができるの?」
朝倉はにこりと笑って肯いた。そして俺の横に歩み寄り、
「あたしに感謝してよね、キョンくん」と小声で囁いた。
「なんでだ?」
「九曜さんをこちら側につけたのはあたしよ」
「なにが目的だ?」
「元々彼女はわたし達と対話するために設計されたインタープリタプラットフォームだと言われているのよ。あたしの方から誘ったわけじゃない」
「それは長門の仕事じゃなかったか?」
「長門さんには負担が大きいからあたしが引き継いだのよ」
「九曜を味方に付けて何を企んでいる?」
「もったいないからよ。せっかくいい顔ができるのに操り人形だなんて。そう九曜さんに言ってあげたの。お互い単なる端末じゃ嫌だもの」
「こらあっキョン、なにこそこそナイショ話してんのっ⁉」こっちのハルヒに怒鳴られた。
九曜がビー玉のような目でじっと朝倉涼子を見上げていた。なんの感情も持ち得ないような目で。九曜に平気でくっつく光陽園のハルヒを相手にする時とは全く違う反応。だが少なくともナイフや手刀の応酬は無い。
しびれを切らしたこっちのハルヒがつかつかと階段を昇ってくる。
「あら残念、積もる話しもあったのにね。特に長門さんのこととか」そう朝倉が言うと、今度は昇ってきつつあるハルヒに向かって口を開いていた。
「あたしはあなたの味方よ。困ったことがあったら何でも相談してね」
朝倉涼子は一方的にそう言うと階上に辿り着いたハルヒとあっさりすれ違いSOS団、偽SOS団合計十人をあっさりと抜き去り階下へと弾むような足取りで消えていった。
「彼女も普通じゃないね——」佐々木の声がした。「ところで九曜さん、僕らはこの後どうすればいいんだい?」
九曜は黒い袖を引き上げ谷口からもらったというファンシーでアナログな、妙に洒落た腕時計に視線を落とした。そして我がSOS団団長のハルヒの顔をじっと見つめる。
「どうかした?」こっちのハルヒが訊いた。
「どうも——しない。ただ、原発は既に、当該空間から——の隔離、に成功している。後は自然——修復に任せられる。この時計が——一時間五十五分後を指し示したとき——完了する——わたし達はその後——いつでも当該空間に——転移できる」
「なんだかよく解らないけど一時間五十五分時間を潰せばいいわけね」とこっちのハルヒは答えていた。
「そう——その間ここにいれば——上書きは避けられる——」
はっ、とした。
上書きをされないためにまずどこか、上書きをされない所へ避難する……そしてその後——。
これは、佐々木の言ったカウンター作戦そのものじゃないか……万が一俺たちの世界が上書きされてもここなら上書きの影響は受けない。世界の外にいるようなもんだ。後はここを拠点に逆襲方法を考えればいい。
「じゃあ帰っちゃうんだ——」またハルヒの声がした。だがそのハルヒは光陽園のハルヒだった。「——ちょっとそっちの北高の涼宮に言いたいんだけど」
「なによ」
「ジョンをちょっと借りるわよ。どうせ一時間五十五分後に帰るんだからいいでしょ」
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