第34話【脱出】

 藤原曰く。

『あそこ(文芸部室)がすべての元凶なんだ。あらゆる勢力が集い、混じり合い、互いに影響し合って未来への鍵になっている。いや、楔と言うべきかもしれない。そこには、ありとあらゆる可能性が存在し、同時にまた、ありとあらゆる可能性への進展を妨げている。促進と停滞のプロセスが同時に実行されている場所なのさ。まあ、旧人類には解るまいが』


 古泉曰く。

『あの部室ならとっくに異空間化していますからね。何種類もの要素や力場がせめぎ合い打ち消しあって、かえって普通になってしまっているくらいです。飽和状態と言ってもいいでしょうね。すでに限界まで色んなものが熔けて容量を満たしているわけですから、それ以上とけ込む余地はないというわけです』


 文芸部室、SOS団本部。団員がそれぞれ別行動をしていても、一同がいつかは必ず帰っている場所だ。

 そんな鍵となる場所、文芸部室に辿り着いても状況が打破できないでいる。

『そこはただの閉鎖空間じゃない。涼宮さんが構築した新しい時空なんです』

 かつて〝赤い光だけの状態の古泉〟が俺にそう言った。俺たちの部室への侵入に、青い光の巨人こと『神人』が気づいたわけでもあるまいが、向かいの校舎のその上から『神人』の頭が見え始めていた。古泉たちの活動もいつまで保つか。


 ハルヒよお前はそんなに現実世界が嫌なのか。現実世界を否定しても別の現実が出来るだけなのだがな。そしてその世界が嫌になってしまうってことも起こり得る。不思議ってのは起こらないことが前提になっての不思議なんだ。そんなもんが当たり前に存在したら不思議も不思議じゃなくなる。かくしてまたまた世界を否定したくなるオチになるってもんだ。

 とは言えハルヒを問い詰めても始まらない。宇宙人、未来人、超能力者を無自覚に集めてしまうハルヒだ。今回異世界人まで召還してしまった。『現実を否定するんじゃない』などと説教をくれても全くの無駄だろう。

 この際俺の近しい人々が揃って新時空に転生できればそれもいいのかもしれん。だが現実そうなってない。父母も妹も、国木田や谷口だって取りこぼされている。担任の岡部の顔をもう見ることがないというのも寂しいじゃないか。


 古泉の持論によればハルヒが期待する通りのことを予めセッティングすることにより世界改変という惨事を未然に防ぐことができるという。だから孤島、雪山、と二度も舞台まで用意しての大がかりな推理ゲームを実施した。


 視線を感じた。俺がその方向を見ればSOS団団長のハルヒがじっと俺を見ていた。

「部室に戻ってもどうにもならないじゃない」目が合うやハルヒはそう言った。

 うん、ならない。

 だが実際のところはどうでも、『出来ない』と俺が口にしたり、できない素振りでも見せたらその瞬間新しい時空が俺がいま現実と認識している世界の上に上書きされてしまうかもしれん。

 そう、俺は言ってはならないことばがあることだけは理解していた。それで充分さ。俺は既に未来人の超能力者なのだから。

「まだ始めてないだけだ」

 何一つ算段を持たぬまま俺は宣言していた。開き直れるというのは時間が限界に近づきつつあるという意味でもある。長門が黒飴のような瞳を瞬かせもせずじっと俺の目を見ている。例えば俺がキーボードをデタラメに叩いたとしてそれでここを脱出できる可能性があるだろうか?

 無いに決まってる。


「ハルヒ」

 ハルヒはハルヒでも光陽園のハルヒの方に俺は言っていた。

「なによジョン」

「九曜の力を借りたい」

「くーちゃんの?」

「俺には既に解っている。この場を脱することができる能力を持っているのは九曜だけってことをな」

「ねえ、くーちゃん、そんなことが出来るの?」光陽園のハルヒが九曜に尋ねていた。

「できる——」

 実にあっさりと九曜が言ってのけた。

「ならなんで黙ってるのよ! あたし達の身が危なくなってるのに!」

「頼んで——くれてないから」

「なら今頼むわよ!」光陽園のハルヒの大音声が響いた。

 九曜が光陽園のハルヒに玲瓏で美しい微笑み返しをした。こんな笑みを向けられた男はどんな朴念仁でも一瞬にして一目惚れ病に罹患するが女子相手にこういう表情をするのが解らないところだ。


「長門さん——代わって」九曜が長門に声を掛けた。情報統合思念体と天蓋領域の交錯。長門は黙ってパソコン前の席を九曜に譲る。

 九曜はその席に腰掛けるや長門ばりにキーボードを乱打し始めた。たぶんデタラメではない。真っ黒のパソコンディスプレイが白い文字らしきもので次々埋められていく。それは地球上の文字じゃなかった。このフォントはどこからやって来た?



「なぜ?」唐突に長門が九曜に訊いていた。それに九曜が答える。

「——観測しえないものは存在しない。けど———観測さえできれば存在できる——の」

 いったいなんの話しだ?

 九曜は突然立ち上がり、制服のポケットからシャープペンシルを取り出し、

「決めるのはあなた」と長門に向かって言っていた。長門の口から聞いたような台詞を。長門は譲られるまま無言でパソコン前に座った。

 そして顔を俺に向ける。

「許可を」今度は長門が俺に訊いてきた。長門の指はエンターキーを指していた。

 なんで俺だ?

「古泉や橘京子は?」

「許可を受ければ直ちに回収する。回収後脱出プログラムを起動させる」長門はなおも俺の目をじっと見続けている。


 確かにこの場をなんとかできそうなのは九曜だった。長門が『不可能』と言った今、残るは九曜しかいなかった。元々俺が言い出したことだ。だがコイツの脱出プログラムを起動させていいのか? なにか状況がもっと悪くなるんじゃないのか? あの『神人』という巨人は二ヶ月ほど前俺とハルヒを救ってくれた。その巨人から逃げるために九曜製のプログラムなど起動させていいのか? 長門が俺に訊いてきたってことは長門でさえなんの確証も無いってことじゃないのか?


「ちょっと、キョン、なにぐずぐずしてんのよ。早く五分後の未来を透視しなさいよ!」

 我がSOS団団長のハルヒがどやしつけてきた。古泉と橘京子の遅滞戦術は功を奏しているが時間的限界はある。あくまで遅らせているだけで防衛戦を死守しているわけじゃない。後退に比例し窓の外の巨人の姿はだんだんと大きくなってくる。リミットはもうそこ。

「よし、長門、やっちまえ」そう言っていた。

「そう」

「古泉くんと橘さんを呼び戻すわよっ!」こっちのハルヒが言っていた。

「解ったわ」間髪入れず光陽園のハルヒが返事する。

「せぇーのっ」こっちのハルヒの溜めと同時に、

「古泉ーっ」「古泉くーんっ!」とSOS団員各員が窓の外に向かって大声で叫んでいた。長門も半身を捻ったまま窓の外を見上げていた。口は——うん、動いてたような気がする。

「こっちも行くわよ佐々木!」今度は光陽園のハルヒだった。

「橘ーっ!」「京ー」、

「ってそっちなの?」あっちのハルヒが佐々木に向かってそう言った。「じゃあそっちで行くから」とすぐ修正。

「京子ーっっ‼」

 橘京子を呼び戻す声。光陽園のハルヒと佐々木の声が重なる。俺はと言えば九曜の方を見逃しちまった。だが藤原は明後日の方向を見ながらごにょごにょと口を動かすのが見えた。難儀なヤツだ。

 思いっきりの大声が届いたのかふたつの赤い光は勢いよく窓から部屋の中に飛び込んできた。それはすぐに古泉と橘京子の姿に。橘京子は泣きじゃくっていた。泣きながら戦っていたのか。

 部隊の後退に力を得たのかもう窓の外すぐに青い光の巨人『神人』が迫っている。拳を振り上げ始める。

 九曜がシャープペンシルを高々と掲げ舞うようにくるくると宙を回転し始めた。その回転に合わせ膨大な量の髪もくるくると遊園地の遊具のように遠心力で外へと引っ張られる。九曜には似合わないがそれはまるで魔法少女の変身シーンのよう。漆黒の魔法少女。


 カシャ。


 小さな音がした。それはたぶんエンターキーが押された音。その瞬間九曜のシャープペンシルが内側から強烈な閃光を発したように感じた。視界がホワイトアウトする。だがそれ以外は何も感じない。


 視界に徐々に色が戻ってくるとそこは相も変わらずの文芸部室。違っていたのは窓の外の景色と——

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