第30話【閉塞】
或る放課後、文芸部室SOS団本部。そこに俺はいるはずの無い人間を見た。古泉と長門は既に部屋にいて俺の目に焦点を合わせるように目配せしてきた。
「ああキョンくん。新しいお茶を持ってきてみたんですよ」そう言って朝比奈さんが微笑みかけてきた。
どうなってんだこりゃ、と思いながら俺は自分の席に着き、朝比奈さんにお茶を頼んでから、
「大丈夫なんですか?」と、あくまで体調不良で学校を欠席していたかのように訊いてみた。
「うふ、ありがと」
そう言って朝比奈さんはとびっきりの笑顔を返してくれ甲斐甲斐しくお茶の準備をし始めた。正面に古泉。朝比奈さんは今も背後でお茶を淹れている。古泉は顎の下辺りに右手をかけ、人差し指で団長机の方をちょいちょいと指差していた。
ハルヒに判断を丸投げ、もとい団長直々の判断を仰ぐというわけか。
しかし気づかなかったらどうする? 俺は長門の顔を見る。長門も俺の顔を見ていた。
なにかアドバイスみたいなものはしてくれないわけか。
今、本物の朝比奈さんはどこだか解らんがたぶん九曜の異空間の方に匿われている。佐々木が言うんだからいるに決まっている。そしてこっちの世界に戻って来るという話は聞いてない。つまり目の前の朝比奈さんは明らかに偽物だ。
俺は椅子に座る向きを変え朝比奈さんがお茶を淹れている一挙手一投足を見ている。それは紛れもなく朝比奈さんのようであり雪山の館で遭遇したどこかおかしな朝比奈さんではない。
もし考えられることがあるとすれば『朝比奈みちるさん』だろうか。あれは八日後から来た朝比奈さんだったが、この朝比奈さんは別の時間の朝比奈さんの可能性があるのだろうか?
「どうぞ」
再度確認してしまったがそれは紛れもなく朝比奈さんの笑顔。そして朝比奈さんお手淹れのお茶が確かに俺の目の前にある。飲んでみる。さすがに朝比奈さんの味だとかなんとかが解るわけがない。
しかしこの時間じゃない別の朝比奈さんで埋められる穴はあくまで僅かの時間のはずで一時しのぎにしかならないと思うのだが。
部屋の中に四人、朝比奈さんも含めての数だが、それだけの人間が『なにか不自然な事が起こっている』と感づきながら何も気づいていないフリをするという一種異様な空間にいる。
そんな中ハルヒが部室にやって来た。
部室に入り団長机へ、は行かない。代わりに口から言葉が出た。
「みくるちゃん?」
語尾が上がるあからさまな疑問系。
「あっ、はい。じゃあお茶淹れますね」
「なに? なんか変よね」
ハルヒはわざわざ朝比奈さんの真正面に回り込みそう口にした。
「ええっ? どういうことですかぁ?」
朝比奈さんのリアクションに反応するでもなくまじまじと顔を凝視している。
「どうしたっていうんだハルヒ」
なぜ俺がフォローをしなければ? と思ったが要するに朝比奈さんは俺が庇わねばっていう無意識がなせる業だ。
「違う」ハルヒが小さくつぶやいた。
いまなんと?
「あんた達はなんにも気づかないわけ⁉」ハルヒが振り返り大声で言い放った。
それには気づいている。この朝比奈さんがあり得ないってことくらいはな、むしろ俺はお前が何を根拠に違——
その瞬間パッと朝比奈さんが消えた。徐々に薄くなるとか姿が歪んでからとかそういった前振りもなにもなく唐突に消えた。
俺は朝比奈さんがついさっきまでいたその位置にもう立っていた。透明になったとかそんなんじゃない。存在そのものが消えた。だが俺は別のことを口にしていた。
「あり得ねえだろ」
複数の人間が見ている前でこうも完璧に人一人消えるものか。
「あり得るわよ。現に目の前から消えたんだから」
ハルヒの声が耳に届いていた。
「なんでそんなに落ち着いていられるんだよ!」
「決まってるじゃない。もうとっくにおかしな事は始まっているんだから。あれはみくるちゃんじゃない。だから消えたのよ」
「バカなこと言うな!」
「バカとはなによ。みくるちゃんって消えるの? 消えられるわけないでしょ。消えたんだからみくるちゃんじゃないに決まってるでしょ」
一分の隙もねえな。
「果たして消えたのは朝比奈さんでしょうか?」古泉が口を開いた。
「どういうこと? 古泉くん」
古泉の相手は常に俺が勤めていたはずだったがハルヒ自らが応答していた。
「朝比奈さんの側から見たら、消えたのは僕ら四人じゃないのかと」
「その根拠はなに?」
「外を見てください」
古泉がハルヒに促していた。このやり取り自体が起こり得ないシチュエーションだ。
「なによ、この空」
それはどす黒い灰色で埋め尽くされた空、正に閉鎖空間以外の何ものでもなかった。
「解りません」
さすがに古泉はここについてはしらばっくれた。なにも言うまい。だが入り込めないはずの閉鎖空間に今俺たちがいる……
そして古泉だけでなく長門も——
「あなたは最初『違う』と言った。それはなぜ?」そうハルヒに訊いていた。
ハルヒ&古泉の後は、ハルヒ&長門という怒濤の会話展開だ。もはやこれはかつてのSOS団ではない。
「さあ、よく解らないのよね。なぜだかそう感じたの。上手く説明できないけど匂わない匂いが違うっていうのか。皮膚感覚というのか」
言ってることが解らない。
「なんていうのかな、みくるちゃんの完全なフリが出来る別の誰かって感じ?」
そのハルヒのことばを聞いた瞬間、嫌なインスピレーションが湧いて出ちまった。
昨今〝無人ブーム〟である。なんでもかんでも無人になり車の運転を人間がする必要が無くなると、そういった方向性で技術開発競争なんかも起きている。ドローンの軍事転用などとっくだし、無人軍艦の無人艦隊すらも絵空事ではない。要するに人間がやると危険が伴う作業を人間がしなくても済むようにするという技術だ。仕事を任せられるのは人工知能ってやつ、即ちAIだ。
さてここからは俺が唐突に思いついたことだ。
藤原によれば朝比奈さんとは姉と弟の関係であるという。朝比奈さん(大)の方にはその意識はあったように思われる。しかし常日頃俺たちが接している朝比奈さん(小)は藤原のことをまるで知らない様子だった。むろんこれらの不整合は、〝複雑な家庭環境なのだ〟との一文で簡単に合理化できるのだが、未来人が絡んだ話でもあるため突拍子もない別の解釈も成り立つのではなかろうか。
朝比奈さん(小)はAI搭載のクローン人間じゃないかという妄想。クローン云々はハルヒが光陽園のハルヒを評して言い出していたことだ。
藤原が元来た世界に帰れなくなったように未来人が過去へと遡るというのは事と次第によっては行きて帰らずの片道切符の旅行になる可能性がある。
そこで危険な任務は人間じゃない者にやらせようという発想が出てきても不思議じゃない。それが朝比奈さん(小)だ。それは本物のエージェントの朝比奈さん(大)のクローンだ。見かけの歳が違っているのは高校潜入を目的としたためとしか考えられない。
クローン人間を使うことで本物の人間はなるべく危険な任務からは距離をとることができる。
だがイレギュラーな事態が起こった。
クローン一号の代わりにバックアップであるクローン二号を送り込まざるを得ない状況が発生した。それがついさっき俺が見た部室の光景だ。この時にさらにイレギュラーな事態が起こったんだ。
未来人はたぶん完全なコピーを送り込んだと思ったに違いない。普通の、事情を知らない人間なら騙される。だがハルヒは違う。ハルヒは訳の分からん能力の持ち主で微細な差異を見逃さなかった。
その結果、無意識に身の危険を感じたか怒りを感じたかは解らないが俺たち全員が閉鎖空間へと飛ばされた。
妄想だって? ああ妄想だとも。だがな、藤原に毒されたわけじゃないが未来人にはいろいろと不自然なところがある。
未来人なら途方もない未来技術を持っているはずだ。だが俺たちが知ってる未来人の未来技術はTPDDだけじゃないか。未来人が時間移動以外の超技術を持ち合わせていないなんて言えるものか。ましてたった今俺の頭で想像できたことなど俺たちが今いる現在でも存在している技術のせいぜい少し延長した程度のものに過ぎないのだからな。
クローン羊なんてとっくに存在していたし、AIなんてもう当たり前だ。未来人がそんな技術を使わないだって? そっちの方こそありえねーだろ。
「そう」と一言長門が言った。
さっき消えたのは朝比奈さんの完全なフリが出来る別の誰か、というハルヒ説に長門はなんらも異議を唱えることは無かった。
「有希、たったそれだけ? 非常事態が起こっているのにずいぶんと落ち着いていられるわね」
「SOS団員だから」
なんと理解すればいいのか解らない反応が長門の口から出てきた。これはなんだ、今後起こるであろう不整合とさらに露見しかねない不誠実に対処するための布石なのだろうか。
「まあそうね。SOS団員たる者は何が起ころうと冷静沈着、大言壮語なのよ」
なんだ、大言壮語って?
その時だった。唐突にスマホが鳴り出した。
何で鳴る?
ここは閉鎖空間だ。閉鎖空間でこれが使えるのか? いや、待て!
『yuki.n>』と、閉鎖空間の中でPCディスプレイに映ったではないか。
「キョン、それあんたでしょ? いいから早く出なさいよ」ハルヒに急かされた。
通話が接続状態になるのと同時に、
『キョンく〜ん——』という声が耳に飛び込んできた。これは朝比奈さん(小)で間違いない。だが佐々木に預けている朝比奈さんか、さっき部室で見た朝比奈さんか判然としない。
「ちょっと待ってください」
俺はそう言って送話口に手の平を当て、ハルヒに振った。
「朝比奈さんから掛かってきた」
「みくるちゃん?」
「俺にはどっちの朝比奈さんか見分ける自信が無い。ハルヒ、頼む」
「解ったわ」
そう言ってハルヒは俺からスマホを受け取った。
「どういうこと? みくるちゃん。今どこ?」
『えっ、涼宮さん? えーとその、あたしの事情は置いておいて——』
「はぁ? なに言ってんの⁉ 置いておけるわけないでしょっ」
『ごめんなさい。もっと大変なことが起こっていて、あのとにかく今からその……スマホっていう端末の画面に出るボタンを押して欲しいんです。後は事情が話せる人が話せますから』
「ちょっと待ちな——」とまでハルヒが言ったときスマホの液晶画面の中央に黒バックの中に怪しげな白ボタンが表示されていた。その中に文字があって——
[押して]
「なんだこりゃ」そう俺の口が言っていた。
「キョン、押すわよ。いいわね」ハルヒが急かした。
なんだかウイルスをインストールしかねないボタンだがこの際仕方ない。
「やっちまえ」
ハルヒが躊躇いなくボタンを押した。スマホが爆発するとか閃光を発するとかは無い。スマホの液晶画面にパッと人の顔が現れた。
『あっ、出ました。出ました』
それは朝比奈さんの顔で背後に光陽園のハルヒ、それより小さく橘京子の姿も確認できた。
スマートフォンでインターネットテレビ電話? 確実に言えるのはそんなサービス、俺は申しこんじゃいないってことだ。だいたい閉鎖空間の中でスマホそのものが普通に使えているのがおかしい。さては九曜の仕業か。
「ちょっと、みくるちゃんなの?」ハルヒがスマホに向かって大声を上げていたが、スマホの中からは、
『ちょっと貸してくれないか』と、そんな声が聞こえてきた。間違いなくそれは佐々木の声だ。
『涼宮さんお久しぶり……と言っても覚えていてくれるかな。佐々木です』
「あっ、ああ、佐々木さんね」とハルヒが慌てたように言い、即座に送話口を塞ぎスマホを床へ向けた。
「有希、古泉くん、見えるところまで近づいて。なんだか全員で聞かないとまずい気がする」
長門はこくりと目に見えて肯き、古泉も「解りました」と返事した。俺を含めてハルヒの周囲に密集隊形で布陣を完了した。ハルヒは全員に無言で目配せし、会話を再開させる。
「——えーと、そう、確か駅で会ったことがあるわよね。で、なんでみくるちゃんと一緒にいるの?」
『偶然が重なってしまってね、それでこちらの方に居てもらっているわけだけど、今から朝比奈さんを北高まで送り届けようと思ってる。それでこうして連絡を入れているんだ。だから涼宮さんたちはひとかたまりになって決してバラバラにならず、そうして北高で待っていて欲しいんだ』
「みくるちゃんをわざわざ? もう高三よ。北高にくらい一人で来られるでしょ?」
来られるわけがない。ここは閉鎖空間なのだから。
『少し特殊事情があってね。朝比奈さん単独では北高までたどり着けそうもないんだ。それで僕……いや、やっぱり僕でいいか。僕らがエスコートすることになったんだ』
「ふうん。ちょっと一つだけいいかしら?」
『どうぞ』
「後ろにさっきからちょろちょろともう一人のあたしが映っているんだけど、佐々木さんはあの涼宮ハルヒとはどういう関係なの? まさか仲間とか友だちとか言うわけ?」
『気分を害しているだろうとは思うけど、残念ながらその通りなんだ』直後、『ちょっと佐々木、〝残念ながら〟ってのはどういう意味よ⁉』という光陽園のハルヒの大声と上下左右に激しく揺れる映像が飛び込んできた。ほどなく画面のブレは収まり、
『申し訳ない涼宮さん』と佐々木の顔がそのように喋っていた。
だがハルヒは見たこともないような厳しい顔をして、
「佐々木さん、あたしはあなたが解らない。いったいなんのつもりでこの会話をしているの?」と画面向こうの佐々木に訊いていた。瞬間背筋がゾッとする。
『今から見て欲しい』そう佐々木の声がすると画面上の背景はどこかの教室の黒板から窓の外へと切り替わった。
あっ、と思った。あのどす黒い灰色の空。
『見ての通り風景が一変した。僕らの方はもう一人の涼宮さんを含めて六人だ。どうも街から全ての人間が消えてしまったみたいで僕ら六人以外の人間の姿を一切見ない。各人が携帯に登録してある番号に片っ端から掛けてみて唯一繋がったのが朝比奈さんのスマホに登録されたキョンの番号さ。こんな状態で朝比奈さんを一人で北高まで行かせられない。むしろこういう非常事態の時は人数は多いに限るし協力してできることも増えるはずなんだ。だからこの際合流するのが合理的だと思うんだ』
「確かにね。理路整然としてる。悪かったわね、佐々木さん」
『いいんだ。じゃあ今からすぐ行くから』
佐々木のその言葉でスマホのテレビ電話の会話は終了した。
一年ちょっとのつき合いじゃ見えないこともあるもんだ。あのハルヒが他者に尊大に振る舞わないところを初めて見たような気がする。
俺のスマホを手にしたハルヒの周囲に密集隊形で詰めていた長門と古泉が適切な距離へと散開した。
しかしいったいどういうことだ? 閉鎖空間に閉じ込められたのは俺たちだけじゃなく、佐々木たちもか。六人と言っていたがそのうち一人は朝比奈さんだから残りは五人、さらにその中の一人が光陽園のハルヒ。後の四人はどう考えても佐々木、橘京子、九曜、藤原だろう。
橘京子が心の底から結成を熱望していた偽SOS団の現実化を見せられた。
「返す」そうハルヒに言われて俺はスマホを受け取った。スマホが閉鎖空間で使えてしまったことに突っ込むでもなく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます