第20話【動揺】
藤原は一向に立ち上がろうとしなかった。
「なんでまだ座ってんだよ?」
「あんたが先に行け。僕は後から出る」
付けられたら困るということか。確かにコイツがどこに住んでいるのかなど解らん。
俺は自分の分のみの会計を済ませ喫茶店の外に出た。その瞬間後ろから声を掛けられびくっとする。
「お久しぶり、キョンくん」と。
「朝比奈さん?」
そこに立っていたのは大人バージョンの朝比奈さん。そう、俺は下駄箱の手紙でこの朝比奈さんに呼ばれたのだと勘違いしていた。
「単刀直入に言います。あなたの会っていたあの人がこの時空に存在することは規定事項ではありません。もうあの人と接触するのを止めていただきます」
その〝あの人〟は弟なのですか? と訊きたいところそんなものを訊くことを許してくれないような怖さ的なものを感じる。
「しかしアイツが元いた時間線は既にこことは途切れて帰れなくなっているんじゃあ」
「わたしたちの世界に連行します」
シナリオは店を出た直後に身柄を確保か。
「殺人未遂ですか?」俺的には当然そうなる。
「いいえ、過去の人間に許可無く未来人が接触することは罪となります」
拍子抜けだ。要するに〝現行犯逮捕〟を狙っていたのか。
だけど藤原をそっちの世界に連行してもその連行先の〝規定事項〟はどうなる? と、俺が考えてる側から既に大人バージョンの朝比奈さんは喫茶店の中に突入していた。反射的に俺も喫茶店の中に舞い戻る。さっき会計を済ませたばかりなのに何事かとマスターが俺の顔を見た。
消えた——?
藤原がいない。バカな。どこへ行った? 入り口はひとつしかない。店の裏口から逃げた? いや、普通の客は通るのが不可能な位置だ。
「いまここで俺と一緒に座ってた男はどこへ行きました?」反射的に俺は喫茶店のマスターに尋ねていた。
「ついさっき会計を済ませ出て行きましたが」こともなげにそう返事が戻ってきた。
藤原と朝比奈さん大人バージョンの格を比べた場合、藤原の方が格下に見える。その藤原が朝比奈さん大人バージョンを巻いた?
いや、違う。こんなことができるのはただ一人。九曜だ。
「あり得ないわ」大人バージョンの朝比奈さんが呟いた。
「九曜ならたいていのことはできそうですよ」
「だめなの。これはきっと、そう、禁則事項にかかるかもしれない」
大人バージョンの朝比奈さんにも禁則事項の適用があるのか?
「じゃあこれで」そう言うとあっという間に大人バージョンの朝比奈さんはどこかへ歩き出しあっという間に見失ってしまった。
この大人バージョンの朝比奈さんの今回のミッションは藤原確保で間違いない。だがその藤原が姿を消した……
なぜだか思い出してしまった。
『彼女の規定事項を鵜呑みにしないほうがいい。事実が一つとは限らないんだ』それは藤原のことば。
俺が今さっき藤原と長話をしていたという行為は事実だ。事実は事実だ。未来人の規定事項が本来どうあろうとそれは事実だったんだ。
ハルヒを殺そうとしたことは許せん。だが大人バージョンの朝比奈さんは正しいのか? 手段がイカれていただけで実は藤原が正しかったなんてことがあるのか?
守るべき世界が絶対的に正しいなんていう思いこみは、人間それぞれの主義主張によっていとも簡単に捏造され大量生産されるようなアヤフヤなものでしかない。それが解っていないから、この世は自分勝手な論理のすり替えや押しつけに盲従する奴らばかりなんだ。千年後、後世の人々から自分たちがなんて評価されるのか、ちっとはそれを考えてみるべきだ。
ただその後世とやらが幾つにも分岐しているとしたら評価なんてものは分岐した数だけ存在することになる。
くそっ!
俺は家に帰ってからも気分がすぐれない。藤原、あの気に食わん野郎の言ったことが妙に胸に突き刺さりやがる。
俺は選んだはずなんだよな? 去年の十二月。
選ぶもくそもあるか。確かにSOS団だけなら修復可能だとも。ハルヒと古泉は別の高校にいるが、そんなもんたいした障害にはならん。学外活動にしてしまえばいいだけだ。いつもの喫茶店を溜まり場とする謎のサークルにしちまえばいい。そこでもハルヒはわけの解らんことを言い倒すだろうし、古泉は笑っているだけだろうし、朝比奈さんは狼狽しているだろうし、俺は仏頂面で遠い目をしているという情景が目に浮かぶ。そして長門も、あの情緒不安定な性格のままでそこにいることだろう。黙って本を読みながら。しかしな——
それは俺の知ってるSOS団ではない。長門は宇宙人じゃなくて朝比奈さんは未来人じゃなくて古泉も単なる一般人、ハルヒにも不思議な力は全然ないという、まことに常識的な、単なる仲良しグループでしかない。
それでいいのか。そのほうが良かったのか。
藤原の言葉が頭に蘇る。
『SOS団などというサークル活動はテーマパークのアトラクションのような安全な冒険を保証しない』
だがあの十二月の三日間で、もしSOS団を結成できていたら、冒険からはほど遠くなるだろうが安全だけは保証される。
だが、俺の知ってるSOS団活動の先にある闇があの藤原の脚だ。いいのか、良かったのか、考えが揺らぎ始めてやしないか。
俺はもう固めたはずだ。はずだった。俺はどう考えていたんだ? ハルヒの巻き起こす色んな出来事、非常識な事件の数々に、俺はどう思っていた?
うんざりだ。
いい加減にしろ。
アホか。
そろそろつき合い切れねえぞ。
「…………」
心ならずも面倒なことに巻き込まれることになる一般人。ハルヒの持ってくる無理難題にイヤイヤながら奮闘する高校生。それが俺のスタンスのはずだった。
それでだ、俺。そう、お前だよ、俺は自分に訊いている。重要な質問だから心して聞け。そして答えろ。無回答は許さん。イエスかノーでいい。いいか、出題するぞ。
——そんな非日常な学園生活を、お前は楽しいと思わなかったのか?
答えろ俺。考えろ。どうだ? お前の考えを聞かせてもらおうじゃねえか。言ってみろよ。ハルヒに連れ回され、宇宙人の襲撃を受け、未来人に変な話しを聞かされ、超能力者にも変な話しを聞かされ、閉鎖空間に閉じ込められたり、巨人が暴れたり、猫が喋ったり、意味不明な時間移動をしたり、ついでに、それらすべてをハルヒに包み隠さなければならないというシバリの効いたルールで、不思議な現象を探し求めるSOS団の団長だけが何にも知らない幸福状態、張本人なのに気づけないってこの矛盾。
そんなのが楽しいと思わなかったのかよ。
うんざりでいい加減にして欲しくてアホかと思って付き合いきれないか。はん、そうかい。つまりお前はこう思っていたわけか。
——こんなもん、全然面白くねえぜ。
そうだろ? そういうことになるじゃねえか。お前が真実ハルヒをウザいと感じて、ハルヒの持ち出してくるすべてが鬱陶しいんだとしたら、お前はそれを面白いなどとは思わないよな。
しかしお前は楽しんでいた。そっちのほうが面白かったんだ。
なぜかと言うか?
ならば教えてやるよ。
——お前はエンターキーを押したじゃねえか。
緊急脱出用プログラム。長門の残したやり直し装置。
Ready?
その設問にお前はイエスと答えたんだ。
だろうが。
せっかく長門様が世界を落ち着いた状態にしてくれたのに。お前はそれを否定したんだ。四月に涼宮ハルヒと出会ってからこっちの、クダランたわけた世界のほうを肯定したんだよ。一つの学校に宇宙人だの未来人だのエスパー少年がフラフラしているような、妄想みたいな世界に戻りたいと思ったんだ。
なんでだ、おい。お前はいつもブツブツ言ってばかりだったんじゃないのか? 己の不幸を嘆いてばかりじゃなかったのか?
だったらよ、脱出プログラムなんぞ無視してりゃよかったじゃないか。そっちを選べば、お前はハルヒとも朝比奈さんとも古泉とも長門とも、普通の高校生仲間として知り合えて、ハルヒ先導のもと、それなりに楽しい生活を送れていただろうさ。ハルヒに何の力もなく、日常が歪み出すような現象とは無縁のな。
そこではハルヒは偉そうにするだけのただの人間で、朝比奈さんは未来人なんていう特殊属性を持ってない愛らしい萌えキャラで、古泉は背後に変な組織のない一般的な高校生で、そして長門もおとなしい読書好き少女で変な使命を持つこともなく変な力を発揮するわけでもなく誰かを監視したり誰かさんを守っていたりすることはなく、そうだな。いつもは無表情なのにしょうもないジョークに不意に笑ってしまった後に赤くなるような、時間をかけて少しずつ心を開いていくような、そんな奴になっていたかもしれないんだぞ。
そういった別の日常をお前は放棄しやがった。
それはなぜだ。
もう一度訊くぞ。これで最後だ。はっきり答えろ。
俺は迷惑神様モドキなハルヒと、ハルヒの起こす悪夢的な出来事を楽しいと思っていたんじゃないのか? 言えよ。
「あたりまえだ」
俺は答えた。
「楽しかったに決まってるじゃねえか。解りきったことを訊いてくるな」
面白いのかそうでないかと訊かれて、面白くないなどと答える奴がいたら、そいつはホンマモンのアホだ。ハルヒの三十倍も無神経だ。
宇宙人に未来人に超能力者だぞ?」
どれか一つでも充分なのに、オモシロキャラ三連発だ。おまけにハルヒまでがそこにいて、より一層のミステリーパワーを振りまいているんだぞ。これで俺が面白くないわけないだろうが。そんな立場が不満だと思ったら、そんなことを言う奴を俺は半殺しにするかもしれん。
「そういうことだ」
俺は言った。開き直りと呼べばいい。
一年生だったあの授業中、背後からハルヒの頭突きを決められたあの日から、俺の中にあった歪んだ歯車はぴったりあいつに合致してしまった。運命? そんな単語は中性子星にでも放り込んじまえ。ハルヒが望み、俺が望んだ、その結果が今という時間なんだ。
そんな風に思ったはずだった。
ベッドの上でごろんとなる。起き上がる。水を一口飲みたい。洗面所へ。鏡を見る。
高二の俺か。
一年数ヶ月後に選挙権。そこからほんのプラス数ヶ月でまあたぶん大学生。明らかに二年以内。もう決して若いとは言えないよな。怖じ気づくってのは歳をとった証拠だ。
俺も変わったんだろうか。
自分の言葉がただ脳内でしか言語化されないものなのだとしても、その言葉は自分のみには聞こえてしまうわけで、そうなったからには聞こえなかったことには出来ないものだ。
確かにビビってる。無邪気に『楽しいから』なんて言ってられん。正直揺らいでる。逃げた方がいいんじゃないかという音の鳴らない警告音が耳の奥で鳴り続けてる。
だがな、こうも言えるんだ。
ここでこれまでのことを全て否定して足を洗おうなんて気がなぜだか涌いてこない。ただ揺らいでるだけ。
これはヤバイな。抜けた方がこれからの人生設計上いいであろう、そんな危険臭漂う組織にSOS団がなりつつある。そこから抜けられなくなってる。しかもこれは無理矢理誰かにそうされているのではなく俺の意志で、なのだ。
そうなら、やるべきことは決まっている。この組織が道を外さないよう舵取りを間違えないようにすることだ。
情けないさ。大冒険なんて実は欲しくないって思ってるんだからな。
ハルヒが本能みたいに不思議を追い求めるように、俺は今が続いて欲しいと思っている。もはや間違えようのない、それが真実ってやつさ。
必要なことは、団員が共通の目的意識を持つことと普段からのコミュニケーションを密にすることだ。
ただ不安もある。それをやるとSOS団が空中分解するのではないかという懸念が。
ひょっとして既に俺の知らないところで長門や古泉、朝比奈さんたちが互いに暗闘しているのかもしれない。ハルヒに平穏な生活を送らせたいと考えているのは三派ともに共有する目的だが高校生には進路というものがある。北高生でいることという現状が変更されるのは時間の問題だからだ。だがSOS団だけは変わらないはずなんだ。
長門も朝比奈さんも古泉もSOS団を選ぶか、従前の所属組織を選ぶか、意志を示すべきなんだ。『選ぶ』という言葉が過激なら、どっちを優先させるかでもいい。
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