第16話【朝倉】

 コンビニの中から出てきたのは谷口だ。しかも服装は制服。確か帰宅部のはずだったがなぜこんな時間まで。

 ちょうどこのコンビニは通学路の途上にある。店内から道路を見れば誰が通り過ぎるか手に取るように解る。立ち読みなどを偽装した可能性は高い。早い話しがこれは偶然でないという感じがプンプンする。

 国木田に中学の卒アルの話をしかけたとき谷口に横やりを入れられ重要案件についての話しの腰を折られたわけだが、その後国木田が俺に卒アルのことを話してくれたおかげで今コイツに遺恨はない。というか学業的には谷口こそが本物の友人たり得るわけだが今ひとつそうはなっていないような気がするのはなぜだろう。

「よお、キョン」

 谷口は案の定俺に声を掛けてきた。

「珍しいな」

「ちょっと話しがあってな」

 俺は軽く意表を突かれた。これは偶然ではない、と言っているも同じだ。

「なんの話しだ」

「進路希望調査票」

 こういう話しをするとは向こうも俺を気にしているってことだ。国木田が何を書くのか気にしてもしょうがないというある種の諦観を感じる。

「人がどこに進路をとろうと自分自身には関係ないことだ」

「またまた。お互い将来の心配をしなけりゃいけない者同士、情報交換は必要だろ? 早い話し〝どの大学に行くか〟ってことなんだからよ」

 他人の目指す大学を訊いて安心感を得ようって魂胆か。

「しかしよー、キョン。お前はいいよなー。涼宮がいるから」

 ハルヒとの関係をなにか勘違いしてやしないか。だいたい表情に悔しがっているという素振りがまるで見えない。

「なんだよその顔は。まあ涼宮個人がどうとかあるけど勉強を懇切丁寧に教えてくれるヤツがいるってのはいいよな」

 なるほど、とようやく合点がいった。確かにハルヒは俺の定期テストの点数を気にしている様子だ。コイツが言いたいのはこういうことか。

「学業優秀な友人ならお前には国木田がいるだろ」

「そんなに親身に教えると思うか? 男同士で」

 知るか。

「キョンよぉ。抜け駆けだけは無しにしようぜ」

「知るか」

「ところで涼宮はどこを受けるつもりなんだ? 大学生になっても『SOS団』できるとこがあんのか?」谷口がどこか鼻で笑うように言った。

「やめるとは聞いてないな」

「はん、涼宮らしいぜ。あいつが普通の学生をやってるなんて想像外だからな。中学んときからそうだった。今じゃキョンと一緒にわけのわからん遊びをすんのが好きなんだろーよ。これからもな。それにアイツの志望校ってのにも興味があるしな。だいたい理系を志望しているのか文系なのか、どっちにしろ俺には想像できねーな」

 確かに言われてみればその通り。ハルヒは理系志望なのか文系志望なのか? 学業優秀というのは選択肢をいかようにも選べる。

「知らん」

「なんだよ、知らねーのか? まあキョン、せいぜい気をつけろ」

「なににだ」

「お前の行くところと同じところを受けようなんて考えているのかもしれねーぞ。お前が受かる大学なら涼宮は簡単に受かるだろうからな」


 その危惧はある。きっとハルヒは来年度が来ようとも俺の背後の席にいるつもりなのに違いない。そして授業中だろうが何だろうが、俺の背中をシャーペンの先でつつきつつ『ねえ、キョン。ちょっと考えたんだけど——』などと、考えてくれなかったほうがよかったような思いつきを喜々として言い出すに違いない。そのためには同じクラスになる必要があり、当然進路志望先も同じような方向性でないといけないから、自動的に俺の成績を気にする必要もあるのだろう。だって俺はSOS団専属の雑用係みたいなもんだからな。古泉などはあからさまに『同じ大学に行くべき』という価値観だ。

 だが俺とハルヒに学力差が厳然としてあった場合、っていうか現状あるんだけどな。どっちがどっちに合わせるんだろう? 谷口のやつ案外鋭いところを突きやがる。


「そんなバカなこと俺が許さん」

「そういう台詞が素で口にできるところがいいんだろうな」

 なんなんだ。進路の話しをしているのか女の話をしているのか。

「ところでキョン、とある女の子から恋愛相談されたとして、それにはどんな裏の意味が隠されているんだろうな」

「まさかお前がされたのか?」

 そのまさかで谷口は否定しなかった。俺が佐々木からされたような相談をこの谷口がされたというのか。誰だその物好きは。

「お前まさかまだ九曜と……」

 谷口はよくぞ訊いてくれたとばかりの笑みを浮かべ、

「なんせ美人だったから」と一旦は九曜を肯定してみせ、だが「あり得ねえよ、そんなのは」と否定した。やけに余裕がありそうな態度をとりやがる。


 しょうがない。俺は古泉がレクチャーしたのと同じことを谷口に言ってやることにする。

「普通そういうのは女子にするもんだ。それを男子にする。しかも相談されるくらいだから元々知らない間じゃない。だったら決まってるじゃねーか」

 俺はここでことばを句切る。


「なにが決まってるんだ?」

 谷口はにやけ面のまま訊いてきた。ええい、腹の立つ。

「そんなのを男に訊くってのはその男に気があるに決まってんだろ」

 なぜか谷口は満足そうに肯いた。

「キョン。お前と俺は友だちだよな」

 なにを言ってる?

「聞いたぜ。キョン、お前ってやつは友だちのために一肌脱げるんだな」

「なんの話しだ?」

「国木田のことだよ」

「国木田?」

「すっとぼけんなって。鶴屋さんとかいう上級生、ほら涼宮の映画撮影の時いただろ。国木田との間をセッティングしてやったって?」

「あぁ」

 セッティングした自覚は無かったが一応そう返事した。

「俺もよ、実はお願いしたいんだよ。そうなればお前のように俺もさ、成績が向上するかもしれないしよ。この先なにかいろいろな方面で良いことがありそうなんだ」

「なんだ? 大丈夫なのか?」

 俺は本気で谷口を心配したね。

「そもそもなんで俺がキョン、お前を待ち伏せするような真似をしたと思う?」

 なんだ、この嫌な予感は。谷口に待ち伏せされたからか?


「頼まれたんだよ」

「AAランクプラス、って言えば思い出してくれるか?」

「まさか、朝倉?」

「そう、朝倉涼子。会ったんだよついこの間。お前と話しがあるから呼び出して欲しいってな」

「お前、なんでそれで自分に気があるなんて思えるんだ?」

「まああれは一種の恋愛の相談だな。そういうことだ」

 どういうことだか解らん。

「キョン、おめーには涼宮がいるだろ。だから別の意味で安心感がある。お前と釣り合っているのは涼宮で朝倉涼子とは似合わない」

 似合ってたまるか。


 気づけば俺は踏切の近くに立っていた。途端に空間が幾何学紋様で埋め尽くされる。

 ぞっ、と汗が引く。

 唐突に視界の右斜め下からにゅっと顔が出てきた。

「お久しぶりね。カナダから戻って来ちゃった」

 それは紛れもなく朝倉涼子の顔だった。

「朝倉、てめぇ」

「なあにその顔は? あたし今日は何も持っていないよ」とひらひらと両手を振って見せた。確かになにも持ってはいなかった。

「何もしないのならこの空間はなんなんだ?」

「あなたと大事なお話をしようと思って。誰にも聞かれたくない話しをするなら密室が一番でしょう?」

「お前の親玉はどうしてるんだ?」

 朝倉は情報統合思念体の急進派の尖兵だった。コイツが現れたってことは急進派は押さえ込めていないってことか?

「親玉なんていないわよ」

 朝倉は微笑を浮かべた。

「いるに決まっているだろ!」

 俺は長門が俺に言ったことをこいつに言ってやった。


 長門いわく

 『情報統合思念体の意思統一は不完全。でも今は主流派がメイン』

 なるほど、意識生命宇宙人にも派閥闘争があるんだなって思ったもんさ。

 『お前は主流派に属してんのか』と俺は問うたね。

 そしたら長門いわく

 『そう』

 『待てよ、二つだけか? 他にもあるのか、ナントカ派ってのが』とすかさす俺は問うたね。

 そしたら長門いわく

 『わたしの知り得る限り、穏健派、革新派、折衷派、思索派が存在する』

 それぞれ違うわけだ。かつて朝倉は俺を殺してハルヒを刺激するなんてハタ迷惑なことを思いつき、長門はそんな朝倉を消滅させた。あの時とまるで変わらずまだ上の方でガチャガチャやっていそうだな。


「さあ、もう誰がどこに属してるかなんてどうでもいいんじゃない? 他派の思惑はわたしには伝えられないし」

「じゃあ今はどこの派に属してる?」

「でもわたしはここにいる」

「お前、それは長門の——」

 と同時にそれは中学生のハルヒが七夕の夜に東中のグランドに書いたあのデタラメメッセージの意味でもあった。あの時も長門は言った。『私は、ここにいる』、『そう書いてある』と。

「そう。あたしも彼女も同じだからね。確か、その彼女も言ってたよね、『誰の好きにもさせない』って」

 それは紛れもなく長門の言った台詞だった。

「あたしね。彼女が大好きなの。彼女を守るのはあたし。彼女を傷つけるようなことはあたしが許さないわ」

 どういうことだ? まるでこれはあの十二月十八日の早朝……。身体が凍る。

「ふふ、冗談よ。何も持ってないのに。あなたが思っていることはあたしには解る。そう、あれは夢のような世界だったわね」

 なにが言いたい? 訳が分からんぞ。

「あなたの言う〝親玉〟。情報統合思念体のいない世界を彼女は創ってくれた。ただ——あなたと長門さんに妨害されてしまったけど」

 朝倉が急に俺の目の前三十センチに迫ってきた。

「もう一度創って欲しいんだけどな」

「長門が造るわけないだろ」

「長門さんはここにはいないわよ。あたしはあなたに頼んでいるんだけどな」

「俺にそんな力があるか」

「でもあなたには〝動かすこと〟ができる。力を持った人をね。そういう変な力があなたにはある」

「無理に決まってる」

「でも『無理』、なんて言い続けてこの後本当に何もしないの? あなたも思ったはずよ。あなたの長門さんに情報統合思念体がなにかをしようとしたら。ふふ。『つべこべぬかすならハルヒと一緒に今度こそ世界を作り替えてやる。あの三日間みたいに、お前はいるが情報統合思念体なんぞはいない世界をな。さぞかし失望するだろうぜ。何が観察対象だ。知るか』って、一度でも思ったでしょ? あたしには何でもお見通しなの。創ってくれるなら別に長門さんじゃなくて涼宮さんでもいいんだけどな」

 コイツ、俺の過去の言動のデータベースでも構築してるのか⁉

「お願い」両手まで合わされた。

 だがこんな頼みを安請け合いするわけにはいかん。

「あの十二月の三日間の世界をどうやって造ったかなんて本人にだって解らないだろうぜ」

「そうね。確かにね。でも近々そうなるんじゃないかしら」

「まさかお前」

「なにを勘違いしているの? あなたのお仲間の皆さんは〝現状維持〟が目的なだけの進歩のない人たちばかり。でも少なくともあたしは情報統合思念体同様自律進化の道を探っている。あなた達もいつまでも高校生をやってられないでしょ? 現状の変更は徐々に始まっている。維持なんてできないわよ」

「お前はそんなに現状が否定したいのか」

「そうよ。涼宮さんの行きたいところに行かせてやってやりたいようにやらせてあげて。なるべく煽るようにね」

「目的はなんだ?」

「ささやかなもの。あたしね、いつまでも情報統合思念体の操り人形なんてやりたくないの。あたしは委員長に戻りたい。聞いたわよ、去年の文化祭。五組は散々だったみたいね。あたしがいないとあのクラスはだめみたい」

 心底嬉しそうに朝倉が微笑んでいた。

「お前は別の世界で五組の委員長やってただろ。わざわざこっちの方でも委員長なんてする必要があるのか? っていうかできるのか?」

「できるわよ。あたしはどんな世界であっても五組の委員長。特に涼宮さんのいるクラスでは尚更委員長でいたい」

 もはやこれ以上の疑義反論を突き付けられるような雰囲気はここには無い。


「だから徐々に布石は打ってるわ。谷口くんに『戻れるかも』って言ったのもそう。急にだと驚かしちゃうでしょ」

 そうか。朝倉がいなくなった後の五組事情は谷口経由か。

「今年の秋にはカナダから帰りたいの」

 そんなところには最初から行っていないくせにな。その時だった——

「勝手な真似はさせません」

 どこかで聞き覚えがある声だった。

「来たのね」と朝倉の声。目の前には——喜緑さん? そう、まさしく喜緑さんだった。

「あなたはここから逃げなさい」そう言った朝倉は既にもうナイフを合成していた。しかしなぜかその凶刃が向けられた先は俺ではない。

「お前は親玉に逆らって生きていけるのか? 情報結合とやらを解除されたら消えてしまうんじゃないのか?」

 なぜだか俺は朝倉の背中に向かってそう口走っていた。

「ありがとう。大丈夫だから。情報なんて結合してなくても構わない。一度造られてしまったあたしは消しても消えないことは長門さんが証明してくれたから」

 うわっ!

 そう言い終わると同時に幾何学空間が消え失せ耳にかなりの音量が奔流になって流れ込んできた。びくっとするほどの音。ちょうど電車が踏切を通過していくところだった。

「おいキョン。どうしたんだよ?」

 谷口の声。

「あ、いや」

「朝倉涼子が五組に戻ってきたら最高じゃねえか。だから俺は彼女の頼みをだな——」

「すまん谷口、俺が数分間姿を消していたとかそういうのはないよな?」

「なに言ってんだ?」

 そうか。まあそんなところだろうな。

「たぶん朝倉はお前に感謝しているだろうさ」

 恋愛感情かどうかは知らないが。

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